太田述正コラム#14514(2024.10.11)
<中田力『日本古代史を科学する』を読む(その12)>(2025.1.6公開)
「・・・「記紀」の記載を素直に読むと、様々な点で王朝の変遷が強く示唆されている・・・。
・・・新王朝の誕生と思われる系図には、必ず、「神」の文字が入る天皇(大王)が登場するのである。
ここから、神武、崇神、応身天皇(大王)は、それぞれの王朝の始祖であるとの説が生れた。
一般に王朝交代説と呼ばれるものである。・・・
加えて、はっきりと「神」としての区切りを見せてはいないが、明らかに新しい体制に入ったと信じられているものに継体王朝がある。<(注24)>・・・
(注24)「1952年に水野祐が唱えた三王朝交替説がその最初のものでありかつ代表的なものである。ただし、それに先立つ1948年に江上波夫が発表した騎馬民族征服王朝説も広い意味で王朝交替説であり、崇神天皇を起点とする皇統に着目している点など水野祐の説が江上波夫の説の影響を受けていることを指摘する学者もいる。のち水野自身、自説をネオ狩猟騎馬民族説と呼んでいる。また、古代天皇の非実在論に基づいている点は津田左右吉の影響を受けており、九州国家の王であった仁徳天皇が畿内を征服して王朝を開いたという説は邪馬台国九州説の発展に他ならない。
水野の三王朝交替説はその後様々な研究者により補強あるいは批判がなされていくが、現在では万世一系を否定する学者でも水野の唱えるように全く異なる血統による劇的な王権の交替があったと考えるものは多くない。水野のいう「王朝」の拠点が時代により移動していることも政治の中心地が移動しただけで往々にして見られる例であり、必ずしも劇的な権力の交替とは結びつかないとされている。また、ある特定の血統が大王位を独占的に継承する「王朝」が確立するのは応神・仁徳朝以降のことで、それ以前は数代の大王は血縁関係にあっても「王朝」と呼べる形態になっていなかったとする見解が近年有力になりつつある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E4%BA%A4%E6%9B%BF%E8%AA%AC
水野祐(ゆう。1918~2000年)。早大文(史学(国史専攻))卒、同大博士(文学)、同大教授、名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E7%A5%90_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)
神武王朝は漢民族が建てた、おそらくは姫姓の国家である。
⇒????(太田)
その王朝が・・・皇后を初代から四代続けて、事代主命<(注25)>の家系から出しているのである。
(注25)ことしろぬしのかみ。大国主神・・・の子<。>・・・
媛蹈鞴五十鈴媛命、五十鈴依姫命<の父。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E4%BB%A3%E4%B8%BB
「ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)は、・・・神武天皇の皇后<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BA%E3%83%92%E3%83%A1
「五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)は、<第2代>綏靖<(すいぜい)>天皇の皇后。・・・
なお、『古事記』には五十鈴依媛命は登場せず、河俣毘売が綏靖天皇の皇后である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%8D%81%E9%88%B4%E4%BE%9D%E5%AA%9B%E5%91%BD
「第3代・・・安寧天皇<は、>・・・鴨王(事代主神の孫)の娘の渟名底仲媛命を皇后<とした。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AF%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87
「第4代・・・懿徳<(いとく)>天皇<は、>・・・息石耳命<(おきそみみのみこと)>の娘の天豊津媛命を皇后とし<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%BF%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
「息石耳命<は、>・・・懿徳天皇<の>…同母兄」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AF%E7%9F%B3%E8%80%B3%E5%91%BD
事代主命は国譲りで身を引いたものの、その後、天皇(大王)の母方の家系として顕在だったことを意味する。
これは、国譲りという行為が「対決、敗退、譲渡」という過程ではなく、「和議、協力、融合」の過程であったことを裏づけている。」(155~156、158)
⇒ここは首肯できます。(太田)
(完)