太田述正コラム#14520(2024.10.14)
<G・クラーク『ユニークな日本人』を読む(その3)>(2025.1.9公開)
「教皇グレゴリウス1世(Pope Gregory I)がアングロサクソン人の諸王国に宣教師を派遣しました。アウグスティヌス(Augustine)が率いる一行は597年に<東南部のジュート人の>ケント王国に到着し、国王エゼルベルト(<Ae>thelberht)とその臣下を改宗させ、カンタベリー(Canterbury)に教会を建てました。
アイルランドからの宣教師もアングロサクソン人の改宗に一役買いました。635年、<北部のアングル人の>ノーザンブリアの国王オズワルド(Oswald)はアイルランド系の僧侶エイダン(Aidan)※を招き入れて司教としました。エイダンは、国王の拠点バンボロー(Bamburgh)からほど近いリンディスファーン島(Lindisfarne)に修道院を建てました。・・・
※エイダン…ノーザンブリアに来る前はスコットランド沖の島アイオナの修道院を拠点としていた僧侶。この修道院は、アイルランドの僧侶コルンバによって設立されていた。
アングロサクソン人にとってキリスト教に改宗する魅力はなんだったのでしょうか。いくつかの理由が考えられます。
・ラテン語アルファベットでの読み書きの技術を統治システムに活かしたい。
・ケント国王エゼルベルトの妃がフランスのパリ出身のキリスト教徒だった。このように、社会的政治的に関りのある諸外国がこぞってキリスト教だったので影響を受けた。」
https://walk.happily.nagoya/medieval-britain/christianity-in-anglo-saxon-england/
とまあ、このように、アングロサクソンの「組織化された宗教」化、すなわち、キリスト教化、は、デーン人を相手にする「大規模な長期の対外戦争またはその脅威を経験」し始める9世紀よりもずっと前に、しかも、(非軍事の)政治的/社会的理由によるものであったのですからね。
但し、「大規模な長期の対外戦争」と言えるかどうか微妙な「中規模な長期にわたる対外略奪活動」をアングロサクソン等に対して行い続けたところのヴァイキング(デーン人)の方は、「海岸線を伝い、現在のフランスやオランダにあたる地をしばしば攻撃した。デーン人は、834年にフランク王国を襲撃、843年にはロワール川の河口に近いナントを襲った。・・・
9世紀、フランク王ルートヴィヒ1世の命によって北欧布教が行われた。この際、当時の交易地であったヘーゼビュー(ユラン半島東部)に教会が設けられたとされるが、結局は撤退を余儀なくされた。だが、948年までにはスレースヴィ、リーベ、オーフスに司教座が設置されていたことが確認されている。
960年頃にはハーラル1世(ハーラル青歯王)がユラン半島からスコーネにかけて王国を築きあげていた。・・・
<すなわち、>現在のデンマーク王家の実質上の始祖であるゴーム老王がユトランド半島のイェリングの地に興起し<、そ>・・・の子のハーラル1世(ハーラル青歯王、ハラルド、958年頃即位)<が>現在のデンマークとスウェーデン南部の統一をほぼ達成した<ものだ>。・・・
彼は洗礼を受けキリスト教徒となり北欧の神々への信仰を放棄した。キリスト教徒になることにより神聖ローマ帝国の支援を受けることとなり、北欧固有の神々を信仰するハーラル1世の敵を滅ぼすのに有用だった。この時代にハーラル青歯王が王国統治をより効率的にするために安定した行政機構を作ったという証拠はないが、教会が王権を強化しかつ維持するための中央集権的かつ宗教的イデオロギーとして働いているのである。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
ということから、一見クラーク流の改宗だったように見えるけれど、その結果として、同じキリスト教を信奉するところの、フランクの後継たる神聖ローマ帝国やフランス王国に対する戦争/略奪行為は回避せざるを得なくなった・・まさにそれを目的としてフランクはデーン人に対してキリスト教の布教を行った!・・わけですから何をかいわんや、です。(太田)
(続く)