太田述正コラム#14540(2024.10.24)
<G・クラーク『ユニークな日本人』を読む(その13)>(2025.1.19公開)
「・・・近代の歴史を通じて、思想以前の社会の理想郷へ立ち戻ろうとする試みは何回か繰り返されてきた。
トマス・モア<(注7)>と空想主義者(ユートピアン)をはじめとして、ジャン・ジャック・ルソー<(注8)>ならびに一群の理想主義者、さらに共産主義のイデオロギー論者は、いずれも人間が自然のままの原始的な状態にある方が、私のいう思想体系中心の社会の段階に進化した時よりも、よりよく行動できると信じ、人間がより幸福な状態に戻るための処方箋を書いている。
(注7)「ヴェスプッチがカナリア諸島からアメリカ大陸までを旅行した記録『新世界』を深い関心を持って読んだモアは、自然に従って生き、私有財産を持たない共同社会が実在しうる事を確信した。自然法と自然状態が善である証明として書かれたその主著は、ユートピアという架空の国を舞台に、自由、平等で戦争のない共産主義的な理想社会を描いたものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%82%A2
(注8)「ホッブズ<は>・・・、自然状態を各人の自然権が鋭く角逐する場と・・・見てい<たのに対し、>・・・ロックは・・・平和な・・・状態<であるとつつも、>・・・この平和な自然状態は、常に揺れ動いていると<したことから>、結論的にホッブズとあまり変わりのないことになる<のであって>、自然権(取り分)を保障する力・自然法は弱く、すぐに破られ<てしまうとする>。・・・
ルソーは、自然状態は、あくまでも著作の論理を構成する仮定であるとしている点でホッブズやロックとは異なる。あらゆる道徳的関係(社会性)のない状態を仮定し、理性を持たず他者を認識することのない自然人たちが、自由に存在している状態を論じた。そして、理性によって人々が道徳的諸関係を結び、理性的で文明的な諸集団に所属することによって、その抑圧による不自由と不平等の広がる社会状態となる。・・・不平等な社会状態であるが、しかし自由を取り戻すために自然状態に戻ることはできない。そこで社会契約により一般意志を利用した政治社会を目指すことを志向する<、とした>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%8A%B6%E6%85%8B
⇒ヴェスプッチがモアのインスピレーションを掻き立てる事柄を書き残したのかどうかは定かではありません・・そのような形跡を私はまだ発見していません・・
https://en.wikipedia.org/wiki/Amerigo_Vespucci
が、いずれにせよ、モアのユートピア描写は、キリスト教伝播前のケルト、とりわけ、大小の両ブリテン島のケルト社会についてのイギリス人の間での「記憶」を踏まえたものである、というのが私の仮説です。
(但し、一説は、彼のモデルとなったのはキリスト教修道院の共同体主義(monastic communalism)である、としているようです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_More )
なお、クラークがここでルソーに言及したのは、「注8」に照らし、不適切でした。(太田)
しかしその処方箋にはすべて、根本的、かつ致命的欠陥がある。
それは彼らが思想体系以前の社会に戻れといいながら、新しいイデオロギーや原則を人に強いている点で、まさに言葉の矛盾である。」(189)
⇒モアは、「新しいイデオロギーや原則を人に強い」たことはなさそう(上掲)なので、その限りにおいては、クラークのこの主張は誤りです。
よって、そんなモアを、マルクスやエンゲルスやカウツキーが共産主義英雄と称えた(上掲)のは慧眼と言えても、文字通り「新しいイデオロギーや原則を人に強い」たソ連、が、空想的社会主義の創始者とした(上掲)のはモアへの冒涜でしょう。(太田)
(続く)