太田述正コラム#14568(2024.11.7)
<G・クラーク『ユニークな日本人』を読む(その27)>(2025.2.2公開)
「・・・日本は恥社会で・・・罪社会じゃない。<(注22)>
(注22)「人類学者ベネディクトが《菊と刀》(1946年)において用いた文化類型。西欧的な罪の文化では,道徳は絶対的な標準をもつものとされ,個々人が良心による内面的な罪の自覚に基づいて行動を律している。それに対して日本人の生活に見られる恥の文化は,他者の非難や嘲笑を恐れて自らの行動を律するという。したがって前者では,自分の非行を誰一人として知らなくとも罪に悩むのに対し,後者では,露顕しなければ恥ではなく,思いわずらうことはない,とされる。」
https://kotobank.jp/word/%E7%BD%AA%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96%E6%81%A5%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96-853025
「濱口恵俊<の見解:>・・・しかしこのように、制裁の源が内にあるか外にあるかによって「罪」と「恥」とを分けることは、かならずしも適切ではない。なぜなら、社会学者作田啓一(さくたけいいち)(1922―2016)が述べたように、「人間はまず外側から罰を受けることによって、何が罪であるかを知るようになるからである。そしてまた、〈恥を知る人〉は自分自身で自分をコントロールするからである」(『価値の社会学』)。行動の基準が内在しているか外在のものであるかということは、「罪」と「恥」とを分ける決め手にはならないであろう。日本人の「恥の文化」においても、行為基準の外在性にもかかわらず自律的行為は十分にある、とみなしうる。」
https://kotobank.jp/word/%E6%81%A5-114125
⇒日本人に関しては、ベネディクトの話は真逆なのであり、作田や濱口の主張すら間違いなのであって、一般には、罪の意識は、宗教的/思想的教義ないし法律によって「外」から付与されるのに対し、日本人の場合、恥の意識は、人間主義なる人間の本然的本来的原始規範・・本能!・・によって「内」から湧き上がるのです。(太田)
日本は・・・原則<や>・・・契約を破ることを全然罪とは考えない。」(65~66)
⇒日本におけるエージェンシー関係(前出)は、人間主義者同士の全人格的な関係であり、そんな関係を契約の形で規律しようとすれば、無限の分量になってしまう恐れがあるので、「日本のビジネスの場で用いられる契約書は、簡素かつ形式的なものが一般的になってい<る>」し、「「紛争が起きたときは話合いで解決する」といった規定を設けることがよくあ<る>。」
https://www.docusign.com/ja-jp/blog/differences-in-the-way-of-thinking-about-contracts-between-japan-and-the-us?msockid=12bc01858d77639e04c2148e8c9d6267
前者は、「契約書が形式的なものとなっている理由は、交渉により互いの関係が険悪になるのを避けたいという心理があるからだと考えられているよう<だ>」(上掲)し、後者は、「裁判を避けるためのルールであり、できるだけ話し合いで解決したいというマインドがうかがえ<る>」(上掲)、というわけです。
この契約と同じことが、人間主義者たる政府が大部分が人間主義者たる国民を規律する法についても言えるのであって、だからこそ、基本的に日本では、「法は・・・厳密な運用を想定していない」
https://diamond.jp/articles/-/293625?page=2
のです(注23)し、法の法であるところの憲法についても、非厳格な運用であるところの解釈改憲でもって対処され、改正されることはないわけです。(典拠省略)
(注23)それは、「明治時代、西洋に追いつけ追い越せと必死になっていた頃、外国人に対して裁判する権利がない(治外法権)という安政の不平等条約を改正することは、日本人と日本政府にとって悲願であった。裁判権の自主性を回復するには、裁判制度および裁判の基準となる法律を整備する必要があったのだ。そこで、急ごしらえで作ったのが、これらの法典である。法典は、“立派なもの”であることが重要なのであって、内容が実情にあっているかどうか(使えるか)は二の次であった。」
https://diamond.jp/articles/-/293625?page=2
からでは全くない!
そうである以上、「日本が訴訟社会になろうとする気配はまったく感じられない」
https://diamond.jp/articles/-/293625?page=6
のも当然だ、ということになるわけです。(太田)
(続く)