太田述正コラム#14570(2024.11.8)
<G・クラーク『ユニークな日本人』を読む(その28)>(2025.2.3公開)

 「・・・人間関係社会が日本だけということは確かなことで、これは地理的条件で説明できます。・・・
 部族<を超える>・・・大きな組織をつくるためには原則が必要なんです<が、>・・・純粋な人間関係社会は・・・原則をつくりません。
 日本のユニークさといえば、人間関係的価値観を守りながら、・・・近くに・・・あった・・・外<であるところの>・・中国・・から原則を取り入れてきました。・・・
 <そのおかげで、>日本<は>・・・文明社会<になることができたのですが、その>・・・中国のイデオロギーがそれほど攻撃的なものではな<く、>・・・相手から攻撃されたとき<に>それに対抗<するというものだっ>た<おかげで、日本は中国から攻撃を受けて滅亡することを免れたのです>。・・・
 <とにかく、このような中国>の原則が人間関係社会の力と組み合わさって、徳川時代にはかなり強い社会ができていった<、ということです>。
 <日本では、>その後も欧米からイデオロギーや技術を取り入れながら、二つの組み合わせは、よりいっそう強化されました。」(68~69)

⇒日本列島には、縄文時代にはもちろん国々はなかったところ、BC10~BC8世紀に始まる弥生時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3
にも、弥生人の出身地であるところの、長江地域、の長江文明社会にもBC7世紀頃に中原(黄河)文明社会の影響を受けて越や呉ができる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
までは国々がなかったためか、依然として国々はできず、この点は、呉と越の滅亡(BC473年、BC306年)に伴う両国の君民の一部の朝鮮半島経由での日本渡来があった可能性が高いけれど基本的に変わりませんでしたが、私の言うAD1世紀頃からの拡大弥生時代(コラム#省略)には、前漢末以降の支那の混乱時代を背景に日本列島に脱出してきた渡来人達が漢委奴国等の国々を作り始め、やがてヤマト王権が成立して日本が統一国家を形成するところ、それは、それまでの諸国をエージェンシー関係の重層の中に適宜位置付け、頂点に象徴的に天皇家を戴くところの、世界標準からすると、異色であるところの、ボトムアップの柔らかい国家・・人間主義的国家・・であった、というのが私の考えです。
 そこには、何の原則・・教義宗教や思想/イデオロギー・・も介在していなかったと言ってよいでしょう。
 これが、郡県制を基本とした、文字通りの、トップダウンの固い統一国家であったところの、支那、の、秦帝国や漢帝国・・いずれも、私見では、タテマエは法家の思想、ホンネは墨家の思想に拠っていた(コラム#省略)・・を継受したものであった筈がありません。
 現在なお健在である人間関係社会が日本だけであることはクラークの言う通りですが、それができたのは、日本が、騎馬遊牧民族ないし支那王朝軍に対抗できるくらい「攻撃的な」軍事力を整備・維持することに成功したからだ、というのが私の見解であるわけです。
 日本が、かかる軍事力の整備に着手したのは、鮮卑なる騎馬遊牧民である、支那大陸の北夷が漢人の支那王朝を完全に征服して隋/唐帝国を建国したことに脅威を覚え、将来ありうべき騎馬遊牧民の日本侵略を跳ね返すことができるようにするためだった、とも。
 ここで、新しい話を一つ付け加えておきますが、私見では、こうして日本で創出された武士達からなる「軍隊」もまた、エージェンシー関係の重層構造の柔らかい組織でもって編成されていたところ、そんなヤワな代物のままでは、騎馬遊牧民や支那王朝軍には対処できても、欧米/露軍には対処できない、という認識の下、固い組織の近代「軍隊」を整備・維持すべく倒幕・維新が決行されたのです。(太田)

(続く)