太田述正コラム#14594(2024.11.21)
<浜口恵俊『間人主義の社会 日本』を読む(その2)>(2025.2.16公開)
「・・・従来の研究には、方法論的個人主義への固執があった。
そのため、日本社会は、自律性を欠いた人たちの織り成す特殊な近代社会として描かれるにとどまっている。
日本人の集団参加が、個人の”資格”に基づかず、”場”への全面的帰属という形をとるため、いわゆるタテ社会が形成されるとする中根仮説や、他者への依存欲求としての「甘え」が日本人に遍在するとした土居健郎<(注2)>の説<(注3)>も、この立場からの特別理論でしかない。
(注2)たけお(1920~2009年)。東京府立高校、東大医卒、陸軍軍医、「戦後、<米>メニンガー精神医学校、サンフランシスコ精神分析協会に研修留学。自身、キリスト教カトリック教会の信徒であった。1957年より聖路加国際病院精神科医長。1960年に「日本語の概念による精神病理学的研究」を東京大学に提出して医学博士号を取得。1971年、東京大学医学部保健学科精神衛生学教室の教授となる。1980年からは国際基督教大学教授。・・・
影響を受けた人物・・・[サピア・ウォーフ(の仮説)]・・・ジークムント・フロイト・・・ルース・ベネディクト」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B1%85%E5%81%A5%E9%83%8E
Edward Sapir(1884~1939年)は、「ドイツ帝国のラウエンブルク(現在のポーランド領レンボルク)で生まれ<た>・・・人類学者、言語学者。・・・1921年、「使用する言語によって人間の思考が枠付されている」とする新しい言語観を発表する。これを1940年代にベンジャミン・リー・ウォーフが取り入れ、発展して後にサピア・ウォーフの仮説と呼ばれるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%94%E3%82%A2
Benjamin Lee Whorf(1897~1941年)は、「<エ>ール大学でエドワード・サピアの下、言語学を勉強するようになる。・・・
初期のサピア・ウォーフの仮説は、「言語がその人の考え方に影響する」という仮説であった。「ウォーフの仮説」とも呼ばれるこの理論は、その後ある人が話す言語(その人の住む地域の文化ではなく)は、その人の考え方に影響を及ぼす、というものになった。すなわち、言語の構造が、その人の世界の認識のしかたに影響を与える、というものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%95
(注3)「『「甘え」の構造』<(2007年)は、>・・・土居が、1950年代の米国留学時に受けたカルチャーショックをもとに日本を把握しようと試みた本。「甘え」に該当する言葉が他言語に見つからないことに着目した。・・・
本書によると、「甘え」は日本人の心理と日本社会の構造をわかるための重要なキーワードだという。甘えとは、周りの人に好かれて依存できるようにしたいという、日本人特有の感情だと定義する。この行動を親に要求する子供にたとえる。また、親子関係は人間関係の理想な形で、他の人間関係においても、親子関係のような親密さを求めるべきだという。・・・
青木保・・・によれば、本書は、日本人の心性・人間関係の基本を「『他人依存』的『自分』」「受身的愛情希求」「『幼児的』なもの」とし、西欧社会を知る者の1人としてこれを非論理的・閉鎖的とする観点も提示するが、「甘え」という語を提示することによって、これらを「近代的自我の欠如」として非難する論に対する肯定的認識の提示を試みたものだという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%80%8C%E7%94%98%E3%81%88%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0 (「注2」の[]内も)
⇒「ウォーフ・・・は学問の世界から独立し、別に収入源がある方が好きな学問的興味を追求できると語っていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%95
のだそうですが、「学問の世界」⇒「大学」と置き換えれば、我が意を得たりです。
次に、言語のみならず(言語がその重要な要素であるところの)文化も「人の世界の認識のしかたに影響を与える」けれど、決定的に大きな影響を与えるのは、マックス・ヴェーバーの言うところの、個々の文化を超越する場合のある「理念」である、というのが私の考えです。
その上で、本題ですが、土居の、カトリシズムと精神分析なる背景は、どちらもドグマの権化のような代物であるところ、そんなドグマ大好き人間の土居がサピア・ウォーフ仮説や『菊と刀』を知った結果、前者は土居を言語事大主義者にしてしまい、後者は土居を日本人集団主義者説当然視者にしてしまい、その結果が、ナンセンス極まる「「甘え」の構造」論であった、というわけです。(太田)
いま必要なのは、そうした研究前提の転換である。
日本もまた人類社会の一つの普遍形態だと想定・・・することが望まれるのである。・・・<米国>の言語学者。・・・」(6)
⇒このくだりは、「一つの普遍形態」を「人類共通の本来の普遍形態」と改めれば、私としても全面的に同意です。(太田)
(続く)