太田述正コラム#14596(2024.11.22)
<浜口恵俊『間人主義の社会 日本』を読む(その3)>(2025.2.17公開)

 「東洋人と西洋人の人間観は、かなり違っている。
 ”ひと”を”人間”というふうに書き表す日本人にとっては、”ひと”とは人の間に位置づけられる存在だ。
 中国語の”人(レン)”にも同じ語感がある。
 「他不是人(タブシレン)(彼は人でなしだ)」、「好人(ハオレン)(善人)」「壊人(ツアイレン)(悪人)」といった表現からもわかるように、”人”は、対人関係に深く根付いている。

⇒これだけでは意味不明です。
 浜口が挙げている諸例は、むしろ、漢語の「人」そのものに「間人」的含意などないことを示しているからです。(太田)

 これに対し西洋人の場合、人といえば、それぞれが独立の主体である”個人”を指している。・・・
相互依存主義者である東洋人の”人間”観のもとでは、自我は必ずしも不可欠な要素ではなさそうだ。
 なぜなら、東洋人にとってのパーソナリティは、社会生活における一個人の対人交渉過程の軌跡のようなものだからである。
 私たち東洋人は、今後は、確固とした自我意識を核にするパーソナリティではなく、社会的な相互作用を内に含む柔軟なパーソナリティを考えたほうがよいのではなかろうか。
 すでに哲学者の和辻哲郎や精神医学者の木村敏<(注4)>は、これに近い考えを提示している。

 (注4)1931~2021年。三高、京大医卒、同大博士(医学)、ミュンヘン大、ハイデルベルク大留学を経て名古屋市立大教授、京大教授、名誉教授、等を歴任。著書に『人と人との間 精神病理学的日本論』(弘文堂)1972、『人と人とのあいだの病理』(河合ブックレット) 1987.12、『あいだ』(弘文堂)1988、がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%95%8F

⇒ですから、取り敢えずは、「東洋人」は、「日本人」でなければなりません。
 また、和辻哲郎は、あくまでも人間(じんかん)的観点から世界の諸文明/文化を説明しようとしたのであって、日本を私の言う人間主義的ないし浜口の言う間人主義的な社会と見たわけではないので、和辻と木村/浜口を一括りにしてはいけません。
 私自身、比較的最近まで和辻のこの部分を誤解していたのですから、大きな口はたたけませんが・・。(太田)

少し前、・・・大阪のニュータウンで幼稚園児の母親のしつけ観を調べてみたが、「子供が自分でできるようになるまでは、親に頼ってばかりいても、それは別に不自然なことではない」という意見の持ち主が、なんと25%もいたのである。

⇒こんな数字は、比較される対象の数字が併せ提示されていなければ何の意味もありません。
 また、日本では、子供を残して両親が外出したり、『初めてのお使い』番組があるけれど、これらは欧米では考えられないところであり、何事によらず、物事は多角的、総合的に俯瞰される必要があります。
 少なくともこのくだりに関しては、浜口は「学者」とは言えそうもありません。(太田)

 もちろん自律主義者は多い。
 しかし、子が親に依存し、親が子を甘やかすことは、日本の近代家族の中では今なおい容認されている確かな事実なのだ。」(8、10~11)

(続く)