太田述正コラム#14610(2024.11.29)
<浜口恵俊『間人主義の社会 日本』を読む(その10)>(2025.2.24公開)
(注16-2)支那のクラン(族)と米国のクラブについては省略する。
「ヒンズーの心理・文化指向は超自然中心主義であり、アートマを求める。しかし、現実生活では、彼らは、自らの社会的欲求を満たすべく、何らかのつながりを求めようとする。その傾向は主に2つの形態をとる。第一に、儀礼的、社会的に自らを隔離し、孤立しようとする傾向、第二に自己のカスト集団の、他の集団に対する優位の主張、である。すなわち、一方では、自らの紐帯を維持するため、儀礼や社会的観衆を排他的に保持しようとし、他方では、同一カスト内で、或いは、他カストに対して、より高い地位に昇るべく不断の分裂を続ける。(アーリアナイゼーションもその一形態である)このような傾向は、ヒンズーの個人に対して遠心性、仲間うちでの分離性という世界観を与える。またカスト結合の原理は、先述した傾向の結果としてのヒエラルキーの原理である。
・・・従来、日本の社会組織の特徴は家族制度にある、といわれてきた。しかし、<支那>の親族体系の特徴とどう異なるかという点は常にあいまいなままであった。著者は、日本の社会組織の特徴は単なる家族制度でなくてイエモト制度にあると主張する。この制度の特性は、第一に師弟関係を通しての技術や流儀の統制・継承である。第二に、イエモト共同体内の分派間のヒエラルキーである。そのヒエラルキーは、師匠及び後継者に付与された権威にもとづいている。また分派は、根源においては祖匠に結びつくところの派閥という形態をとる。(本家–分家、表–裏の関係も全て同じ原理である)第三に、他集団に対する排他性である。第四の特徴は、擬制家族制度ではあるが、必らずしも成員資格に明確な境界を設けない点にある。共同体への加入、脱退は自由であり、不可篇の資格条件はない。この制度は、固定化された普遍のヒエラルキー的制度であるが、同時に共通のイデオロギーにもとづく共同志向–共同の目的、共同の行動、共通のイデオロギーの制度である。従ってこれは排他性とともに包摂性をも有しているわけである。このような共同体(集団)の連帯の原理は、著者によれば「<縁>約の原理」(kin-tract principle)とよばれる。著者は、このような原理及び制度が、日本の「近代化(近代産業化)」を促進した要因であるとみなしている。・・・このような原理・制度は、ただ技芸・芸術集団(茶・華道・音楽・舞踊・絵画・歌舞伎等)のみならず、武芸集団、ヤクザ、超国家主義団体、政党、同郷団体、OB会、学生運動団体等、時代を通じて様ざまな形態にみいだされる。・・・
イエモトは<支那>のどの伝統的な集団よりも近代的な産業化や国家主義の或る種の必要条件に容易に適合するものであった。」(上掲)
⇒「アートマ」がこの論文で(引用部分を含め)2回出て来るので、それが「アートマン<(注17)>」の単なるミスプリではなく、少なくとも浜口が「アートマン」が正式な用語であることを知らなかった可能性が高いですね。
(注17)「最も内側 (the innermost) を意味する サンスクリット語の Atma(アートマ)を語源として<いる。>・・・
ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。
インド哲学の様々な学派における中心的な概念であり、アートマン、個人の自己(Jīvātman)、至高の自己(Paramātmā)、究極の現実(Brahman)の関係について学派によって異なる見解を持っている。これらは、完全に同一である(Advaita, 非二元論者)、完全に異なる(Dvaita, 二元論者)、非異なると同時に異なる(Bhedabheda, 非二元論者+二元論者)、などといった見解らがある。
ヒンドゥー教の6つの正統派では、すべての生命体(Jiva)にはアートマンが中に存在しているとの見解を持ち、これは「体と心の複合体」とは異なるものである。この見解は仏教と大きく異なる点であり、仏教では常一主宰(永遠に存続し・自主独立して存在し・中心的な所有主として全てを支配する)な我の存在を否定して無我説を立てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3
さて、山口の紹介の仕方が不十分なのかもしれませんが、ここでも、どうして、支那ではクラン、日本ではイエモト、が生まれたかの説明がなされていませんね。
もう一つの問題は、シューのイエモトは、佐藤らのイエに包摂され、更にイエは前述したように私の唱えたエージェンシー関係の重層構造(多傘分散構造)に包摂されるのであって、シューは佐藤らより更に巨視的に日本の社会組織の特徴を見ていない度合いが強いことです。
最後の問題ですが、イエモトにせよイエにせよエージェンシー関係の重層構造にせよ、人間主義(縄文性)由来の社会組織そのものは、私見では、必ずしも「近代的な産業化」等に有利な条件ではなかったのであって、有利な条件は、安全保障上の危機意識を強く喚起するところの、日本の(決して強くない部類ではあるけれど)弥生性にあった・・他方、この弥生性が、例えば、支那では日本より遥かに希薄だった・・というのに、それに、シューも佐藤らも、そして浜口も気付いていないことです。(太田)
(続く)