太田述正コラム#14616(2024.12.2)
<浜口恵俊『間人主義の社会 日本』を読む(その13)>(2025.2.27公開)
「私はむしろ、「縁約の原理」を、近代化された日本の社会において、「社会関係」と「間柄」を相互転換する原理である、と解したい。
それは、たとえ「契約の原理」が作動しなくても、組織内行動と役割関係を代替的に円滑化する機能をもっている。
定義的に述べれば、つぎのようになろう。
すなわち「縁約の原理」とは、契約における事前の手配・約定・期間の指定などが、成員の属する組織体の側で遵守されるか否かにかかわらず、疑似親族的形態をとって形成された組織に、無限定的かつ自発的に同調し、それに忠誠を尽すこと、である。
所属する組織への同調と忠誠は、「間人主義」を、習合的「間人」としてのイエモト的組織に適用する試みを指している。
その試みによって、「間柄」でもって「社会関係」の機能的代替が図られることになる。・・・
⇒いや、そうではなく、人と人との関係における、人間主義的社会関係=間人主義的社会関係=間柄を重視する社会関係、である、と、単純に考えればよい、と思います。
その上で、民間であれば常時10人以上の従業員のいる組織は就業規則、
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/zigyonushi/model/index.html
官界であれば公務員法、が、「契約の原理」に基づくところの、「手配・約定・期間」等の規則ないし法律、が「遵守」されるところ、民間の常時10人未満の組織においてのみ、「成員の属する組織体の側で遵守されるか否かにかかわらず、疑似親族的形態をとって形成され<る>」、というだけのことでしょう。(太田)
日本人・・・の心情としては、<縁>的に規定される「間柄」を、近代組織において形式上要請される「社会関係」に、転写したまでのことなのだ。
だからこそ、職場においてさえも、相談し合え、助け合えるつきあいが望まれたのである。・・・
西洋人の行為は、つねに拠点が自分自身の側にあるタイプである。
・・・<それに対して、>日本人をも含む東アジアの人びと・・・では、相手の方に拠点をおいた上で相互作用に入るように思われる。
⇒私見ではプロト日本文明も日本文明も日本だけの文明であり、日本以外の東アジアの諸文明とは異なるのであって、基本的に文明によって規定される「社会関係」(人間(じんかん)関係)を、「日本・・・をも含む東アジア」と一括りするのはいかがなものかと思います。
他方、「西洋」も、私見では、そのコア部分だけとってもアングロサクソン文明、プロト欧州文明/欧州文明、米国文明、に分れており、やはり、この3つの文明によって規定される「社会関係」(人間(じんかん)関係)だって3つあっても不思議ではないのであって、「西洋」と一括りにしてはいけないのです。
但し、たまたま、「自分自身の側<に>・・・拠点をおいた上で相互作用に入る」点では、この3つの文明に関してはもちろんのこと、現代に関して言えば、日本文明(そこへ回帰しつつあるところのプロト日本文明を含む)以外の全ての文明に関しても、違いがなさそうではありますが・・。」(太田)
したがって、西洋人は、「インサイド・アウト」型に属し、・・・東アジアの人びと・・・は逆に「アウトサイド・イン」型ということになる。・・・
たんに交渉相手の反応を予期しながら行動することと、交渉にあたって先ず相手の立場に立ってみて、そのうえで適宜に振舞うのとは、根本的に違っている。
前者はあくまで自己本位の姿勢を崩していない。
だが後者では、相手の立場をも包摂した形での対処が行われる。」(31~32、42~43)
⇒「東アジアの人びと」を「日本人」に限定すれば、山口の言う通りです。(太田)
(続く)