太田述正コラム#14618(2024.12.3)
<浜口恵俊『間人主義の社会 日本』を読む(その14)>(2025.2.28公開)
「・・・日系の文化人類学者のT・S・リブラ<(注20)>(ハワイ大学教授)は、日本人がいつも誰か他人との関係に気を取られている、という傾向を指摘して、それを社会的存念(social preoccupation)と呼んでいる。
(注20)Takie Sugiyama Lebra。日本生まれ。ハワイ第名誉教授(人類学)。
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著書:Above the Clouds: Status Culture of the Modern Japanese Nobility(1995年)、Japanese Women: Constraint and Fulfillment(1986年)、Japanese Patterns of Behavior(1976年)。
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そのような志向傾向をもつ日本人は、必然的に、自他間での交互的な働きかけに基づいて行動するようになる。
その事実をリブラは、相互作用的な相対主義(interactional relativism)と名づけている。
両者を合わせて表現する場合は、社会的相対主義(social relativism)と呼ぶのであるが(T.S. Lebra, Japanese Patterns of Behavior, 1976.<(注21)>)、こうした日本的特性は、他者を包摂した形で行為する(先ず最初に他者に準拠点をもうける)という日本人の基本姿勢に由来するものであろう。・・・
(注21)メルアド等を入力して登録することで、表紙、奥付、索引の冒頭、裏表紙、を読むことができる。
https://archive.org/details/japanesepatterns00taki/mode/2up
この、裏表紙にも載っているが、リブラには、彼女のご主人と思しき、(同じくハワイ第の人類学教授であった)William P. Lebra と共同編集したところの、Japanese Culture and Behavior:Selected Readings、も上梓している。
https://www.jstor.org/stable/30234125
日本人<にあっても、>・・・第一に、・・・自分一人だけの利害にかかわる単独行動に関しては、「インサイド・アウト」であろう。
しかし、ひとたび対峙関係状況の中に入れば、単独時の自己中心的な定位から、すぐさま「アウトサイド・イン」型志向へとスイッチを切り換えてしまう。・・・
第二に、かりに「アウトサイド・イン」型が一般的だとしても、その原理の適用範囲にある限界がある<。>・・・
<すなわち、>「アウトサイド・イン」原理は、ウチなる対象にしかてきようされないように見える。・・・
しかし、ウチなる対象の判断がまちまちであるために、結果的に眺めれば、社会全体としては、他者への配慮を欠く行為が目立つのだ、と考えておきたい。」(44~46)
⇒日本人の場合、日本語の敬語を使うか使わないかの境界線がTPOに応じて存在することは事実ですが、使わない場合をウチ、使う場合をソト、と表現することは認められるとしても、それ以上の含意は「ウチとソト」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%81%E3%81%A8%E3%82%BD%E3%83%88
にはない、というのが私見です。
つまり、私に言わせれば、日本人においては、基本的に「アウトサイド・イン」原理が常に貫徹しているのです。(太田)
(続く)