太田述正コラム#14628(2024.12.8)
<浜口恵俊『間人主義の社会 日本』を読む(その19)>(2025.3.5公開)

 「・・・デヴォス<(注28)>と我妻洋<(注29)>が明らかにしたように、親の期待や訓戒に従わなかった子が、親の重病・死亡にさいしていだく悔悟としての罪悪感は強い。

 (注28)調べがつかなかった。
 (注29)1927~1985年。我妻栄の子。東大文(独文)入学、文(心理)卒、ミシガン大修士、甲南大助教授、日大論文博士、筑波大教授、東京工大教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E5%A6%BB%E6%B4%8B

 また、日本人の精神的伝統となっていた儒教的な考え方においては、「罪の観念は、刑罰という強い外面的強制力によって生み出されるものであり、恥の観念は、道徳や礼儀によって養われる内面的な倫理意識なのである」(森三樹三郎<(注30)>『「名」と「恥」の文化』)。<(注31)>

 (注30)1909~1986年。京大文卒(哲学・支那哲学史専攻)、阪大論文博士、阪大、佛教大教授、等。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E4%B8%89%E6%A8%B9%E4%B8%89%E9%83%8E

 (注31)「孔子は「論語」で、恥が悪から善に向かわせる内面的な動力であると説き、恥の観念は、道徳や礼儀によって養われる内面的な倫理意識であるとしている。
 孟子は、恥は人間の本能的な道徳感覚であり、若しこれをそのまま発展させれば義となって実を結ぶと説いている。
 儒教が<支那>の正統思想として公認されるようになると、この廉恥の徳は儒教中心道徳とされ、儒教を「廉恥の教え」と呼ぶようになった。
 「恥と名誉は互いに表裏をなしている。名誉を失うことが恥じであり、不名誉はそのまま恥じである」と説いている。」
http://www.goyuren.jp/08kiji/08doutoku/doutoku07.htm
 「結果がその人物の「徳」を証明するのですが、ここに<は>「因果関係」がありません。・・・
 <また、>儒教はハッキリと神を否定しています。神がいないので、「嘘をついたら、神様が見ていて罰を下す」という感覚がありません。・・・罰が下るという感覚が無い以上、「罪悪感」もありません。抑制するものが一般的な習俗の国よりも薄くなります。」
https://nihonsinwa.com/page/881.html

⇒儒教においては、恥に比して罪については余り語られていないようですね。(太田)

 そこでは、ベネディクトのいう内在・外在性は、むしろ逆転する。
 このように考えると、ベネディクトが提案したように、制裁が内からであるか、あるいは外からであるかによって罪の恥とを区別することは、不適切であるということになる。
 社会学者の作田啓一<(注32)>は、ベネディクト説に反対する理由をこうのべている。

 (注32)さくた(1922~2016年)。関西学院大卒、京大文(哲学)卒、西京第(現京都府立大)助教授、京大教養部助教授、教授、名誉教授、甲南女子大教授。
 「稲作による地域共同体や幕藩体制以降の社会構造の特色から、日本人には外部の視線を気にする「恥」だけでなく、弱さの自覚から生まれる内面的な「羞恥」という特性があるとし<た。>・・・<また、>人間の社会的行動は実利の次元だけでなく価値(理念)の次元においてもとらえうるとし<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9C%E7%94%B0%E5%95%93%E4%B8%80

 「人間はまず外側から罰を受けることによって、何が罪であるかを知るようになるからである。
 そしてまた、『恥を知る人』は自己自身で自分をコントロールするからである」(『価値の社会学』)。
 そこで”罪”と”恥”を別の角度から規定しなおすことが必要になる。」(62)

⇒私は、罪の意識は、日本人の場合は人間主義に基づき自律的に、一神教の社会の人の場合は神の照覧下に他律的に、生じ、それ以外の社会の人の場合は基本的に生じない、と考えているわけです。(コラム#省略)

(続く)