太田述正コラム#14636(2024.12.12)
<浜口恵俊『間人主義の社会 日本』を読む(その23)>(2025.3.9公開)

 「・・・日本人にとっては、”キャリア”は「人脈のなかの履歴」を意味しよう。
 その場合、”キャリア”を発達史的にとらえる視角は、最初から欠落している、とさえ言いうるのである。
 ”キャリア”の語義どおりに、生涯目標(栄達出世とか畢生仕事の完遂)に向っての全力疾走だととらえる傾向は、どちらかというと西洋人に限られているように思われる。
 そこでは、当人の経歴発達(キャリア・ディベロプメント)にもっぱら焦点が合わされ、”キャリア”に対する対人関係の影響は、ほとんど考慮の外に置かれてしまうのである。
 したがって「社会的経歴」といった概念は生まれるはずもなかったし、またそうした概念は、西洋人にとっては形容矛盾としてしか受け止められないものであろう。・・・
 「社会的経歴」・・・は、当人の対人的脈絡の生涯にわたる生活史を指している。
 つまり、生涯の各時点において、家族・親族・友人・知人・同僚・先輩・上司・同業者・恩師・私淑する人物・近隣の人たち・旅先で偶然出会った人たち、などと如何ようにかかわってきたのか、といった人脈史を意味する。
 更に換言すれば、人と人との連関(ヒューマン・ネクサス)のシステムからとらえた、一個人の生涯の過ごし方(履歴)のことをいうのである。・・・」(98、101~103)

⇒「社会的経歴(social career)」は、浜口が、「後輩の徳岡<秀雄>・今津<孝次郎>の<両名と共に>」作った言葉
https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/24/1/24_87/_pdf/-char/ja
https://www.jstage.jst.go.jp/article/eds1951/31/0/31_0_40/_pdf/-char/ja
なのに、あたかも、この言葉が前から存在していたのような誤解を与える書き方になっていますね。
 なお、彼ら以外には現時点でもいまだに普及していない言葉でもある、と、ネットを少し調べた限りでは感じました。(太田)

 越後正一<(注40)>氏(掲載時、伊藤忠商事会長)は、次のように述懐している。

 (注40)まさかず(1901~1991年)。「二代伊藤忠兵衛。・・・・・・1916年(大正5年)・・・<に尋常高等小学校>高等科卒業予定者の採用試験会場に現れた忠兵衛氏の目に、試験で満点をとった越後さんの姿が映った。即座に伊藤忠への採用が決定し、忠兵衛氏の家に書生として迎えられた。・・・「どうか一流の商人に育ててやってください」と父は頼んだ。・・・<その後、>八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)を経て、1924年(大正13年)に神戸高等商業学校(現神戸大学)を卒業した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E6%AD%A3%E4%B8%80

 「私はしみじみ思う。人の一生は、よき指導者にめぐりあうことができるかどうかが、まずその人の運命を大きく左右する。数十年前に、もし私が伊藤忠兵衛<(注41)>さんに会うという幸運に恵まれなかったら、今日の私はあり得なかっただろう。」

 (注41)1886~1973年。「伊藤忠財閥の2代目当主<。>・・・1903年(明治36年)- 父の死去に伴って二代目伊藤忠兵衛を襲名。当時まだ滋賀県立商業学校在学中で、東京高等商業学校(現一橋大学)への進学を目指していたが学業を断念、翌年丸紅伊藤本店に入社。・・・1909年(明治42年)- イギリスへ留学、翌年帰国。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%BF%A0%E5%85%B5%E8%A1%9B_(%E4%BA%8C%E4%BB%A3)

 越後氏にとって伊藤忠兵衛なる人物は、”キャリア”の制御システムとして作用したのだった。
 もっとも、”レファレント・パーソン”との関係は、とかくコネとか贔屓と受けとられやすい。
 組織の中では、いわゆる「閥」の母胎とも見なされよう。
 けれども、両者はけっしてなれあいの間柄ではなく、互いの能力評価のうえに成り立つ結びつきであることは、越後氏のそれに続く発言からも明らかである。
 「しかも運よくめぐりあう機会に恵まれても、認められる何かをもっていなければならないし、またそれを見抜く眼力ももちろん必要である。いずれかその一つが欠けても幸運はやって来なかったのだ」(『日本経済新聞』(昭50・9・19)と氏は述べている。

⇒「注40」から見る限り、越後正一の「認められる何か」も、伊藤忠兵衛の「それを見抜く眼力」も、越後の学力だけであったことは明らかであり、浜口がこれをわざわざ取り上げたことも、越後の筆致も、我々としては赤面させられるほかありません。(太田)

 「人から請われるというときには拒否してはいかん」という小林節太郎氏(掲載時、富士写真フィルム会長)の信念も、「間人型」経歴を特徴づけるものであろう。」

⇒小林の言も、それを引用した浜口も、ナンセンス、と言わせてもらいましょう。
 拒否してよい場合、拒否すべき場合、があることは明白だからです。(太田)

(続く)