太田述正コラム#14660(2024.12.24)
<浜口恵俊『間人主義の社会 日本』を読む(その29)>(2025.3.21公開)
「このことを、「自我」との対比で、精神医学者の木村敏は、こう説明する。
セルフとは、いかに他人との人間関係の中から育ってくるものであっても、結局のところは自己の独自性、自己の実質であって、しかもそれがセルフと言われるゆえんは、それが恒常的に同一性と連続性を保ち続けている点にある。
これに対して日本語の「自分」は、本来自己を越えたなにものかについての、そのつどの「自己の分け前」なのであって、恒常的同一性をもった実質ないし属性ではない。・・・
⇒ここに関しては異存はありません。
木村敏説については、同氏の『人と人との間–精神病理学的日本論』をシリーズで取り上げる予定なので、詳しくはそちらに譲ります。(太田)
「パーソナリティ」という概念が全人類に適用可能であることは確かだが、はたして普遍概念と言えるかどうかは疑問である。
むしろ、シューが指摘するように、西洋人の「個人主義」に根差す、文化に拘束された概念(culture-bound conception)と考えるほうが妥当であろう。
「パーソナリティ」についての多くの定義は、「個人のなかにあって」とか「個人にかかわる」という語句を必ずといってよいほど伴っている。
そのことは、人間の単位的存在の有り様を、「個人」の内部に所在を限定したり、あるいは「個人」だけをレファレント(指示対象)にすることによって規定する、という傾向を示している。
それはやはり文化的に特定化された規定の仕方であり、「個人」存在を絶対視する西洋人の価値基盤に立脚するものと言えよう。・・・
⇒ここについても異存はないけれど、「レファレント(指示対象)」は、英和辞書的には「指示対象」が最初に来るので
https://eigo-bunpou.com/referent/
間違いとは必ずしも言えませんが、趣旨的には、後の方に登場する「レファレント(参照先)」(同上)でしょうが、私(わたくし)的には、ここでは、「レファレント(準拠対象)」でしょうね。(太田)
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの一神教的・超越神的伝統の強い民族文化は、いわば「初めに価値(エトス)ありき」、もしくは「初めに規範(ノモス)ありき」とでもいいうる文化なのである。
これに対し、日本文化を一つの典型とする東洋文化では、初めに状況(トポス)ありき」という前提が成立している。
そこで次には、日本人のドミナントな志向類型である「状況的」行為と多神教<(注52)>的・汎神論<(注53)>的伝統との連関性が問われなければならない。」(141、143、197)
(注52)「多神教のうち現存するものとして、日本の神道やアイヌの信仰、中国の道教、インドのヒンドゥー教などがある。
現存しないものとしては、古代エジプト、メソポタミア、ヒッタイト帝国、古代ギリシャの神々、北欧、中南米のメソアメリカ文明やアンデス文明で信仰されていた神々などがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%A5%9E%E6%95%99
(注53)「宇宙、世界、自然に存在する一切と神が同一であるとする立場。その発生については、一、マナなど非人格的な力ないし呪力の観念の延長としてみられるもの、二、人格的な神の信仰との関連からみられるもの、の二種がある。<支那>における道(タオ)、インドにおけるリタ(天則)・ブラフマン(梵)・アートマン(我)、ギリシアにおけるディケー(義)・モイラ(運命)・プネウマ(気息、霊)などが一、の例である。」
https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%B1%8E%E7%A5%9E%E8%AB%96
「アニミズムは汎神論とは異な<り、>・・・汎神論では神を一つ(非有神論的一神教の一形態)と規定しているが、神道では天神地祇・天津神・国津神等の複数の擬人化された神、人格神を崇拝対象とする。<よって、>・・・神道にはアニミズムの特徴があるとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E7%A5%9E%E8%AB%96
⇒支那、インドにはあれど、日本には、汎神論的伝統はないので、このくだりの浜口の主張は誤りです。(太田)
(続く)