太田述正コラム#14835(2025.3.22)
<皆さんとディスカッション(続x6204)/日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から(メモ3)>

<太田>

 安倍問題/防衛費増。↓

 <そりゃそうなんだろな。↓>
「安倍政権下で「金券を受領」 自民・大岡氏、12年の当選後・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/68851cd6dce0dfa86a3cc40fef47d26f2f341bd9
 <アホか。↓>
 「石破首相、ポケットマネーで購入「記録はない」 商品券の原資巡り・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/c5b5ff4646dc476998442b9b01b0fdb6ebc2b832
 <自衛隊機を旅行手段として使い、自衛隊基地を懇談場所として使う、ってだけなんだろ。基地司令から任務等に係るブリーフィングは受けないんだよな。ったくもう!↓>
 「宮内庁は、天皇皇后両陛下が太平洋戦争の激戦地・硫黄島を4月7日に慰霊のために訪問されると発表しました。
 両陛下の硫黄島訪問は、7日に自衛隊機を利用して日帰りで行い、戦没者をまつる「天山慰霊碑」「鎮魂の丘」などでの供花や献水が予定されています。
その後、両陛下は、海上自衛隊の基地で元島民の家族や子孫らと懇談されるということです。・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E7%9A%87%E5%90%8E%E4%B8%A1%E9%99%9B%E4%B8%8B-4%E6%9C%887%E6%97%A5%E3%81%AB%E6%85%B0%E9%9C%8A%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E7%A1%AB%E9%BB%84%E5%B3%B6%E8%A8%AA%E5%95%8F-%E5%85%88%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%BF%80%E6%88%A6%E5%9C%B0-%E6%88%A6%E5%BE%8C80%E5%B9%B4%E3%81%AB%E3%81%82%E3%81%9F%E3%82%8A-%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%BA%81/ar-AA1Bn30j?ocid=msedgntp&pc=U531&cvid=d17ba1addb754365b956a9265a682e0d&ei=11

ウクライナ問題/ガザ戦争。↓

 <要するに、イスラエル政府内のハマスによる急襲の責任のなすりつけ合いなんだが・・。↓>
 Who is Ronen Bar, the sacked chief of Israel’s Shin Bet security service?–Former special forces soldier made enemies after disagreements with far-right factions in Netanyahu government・・・
https://www.theguardian.com/world/2025/mar/21/who-is-ronen-bar-the-recently-sacked-chief-of-israel-shin-bet-security-service
 <大騒ぎになっとる。↓>
 Israel’s Supreme Court freezes PM’s order to sack security chief・・・
https://www.bbc.com/news/articles/cwygkknzn9yo

 妄想瘋癲老人米国。↓

 なし。

 それでは、その他の国内記事の紹介です。↓

 ものの見事に騙されてやんの。
 みんな隠れて、受験に関しては猛勉やっとんのよ。
 それに、写真的記憶ができる人間なんて、私は、全人生で、わずか一人しか出会ってないし、そんな彼でさえ、(これは私もいまだに、少し不思議なのだが)ノートを取ってたんだ(コラム#省略)よなあ。↓

 「半数が東大合格、偏差値70超校<の筑駒>出身だったレジェンド<AV男>優 天才同級生らに愕然・・・
 「公立の(小)学校では1番だった。それが(中学に入ると)120人中50位ぐらい」。 さらに「愕然とした」のが、「そいつらが勉強しないんです。僕より上の人たちは、黒板を見てノートを取らない人とかいる。『大丈夫なの?』って聞いたら『うん、覚えた』って(笑)」。あまりの次元の違うレベルの高さに、中1で東大を諦めたという。」
https://news.yahoo.co.jp/articles/60a393840df03405c84ed1c99c848ddbc2a1fe45

 フムフム。↓

 「結局、写楽は誰だったのか?「100%確定ではないけど、ほぼ決まり!」な正体とは・・・
 写楽の作品には、同じ役者が違う役を演じたものが複数残ってます。顔、ほんとにどれも同じですよ。
 その顔のパターン化のために大きな働きをしたのが、斎藤十郎兵衛だった、というのがこの説のキモなんですね。
 斎藤十郎兵衛の何がすごかったのか?写楽以外で十郎兵衛が描いた絵は今のところ出てきてないので、絵描きとしての腕はわからないんですが、写楽のキーポイントの1つは、他ならぬ能なんです。
 能の役者さんって、顔に能面をつけますよね?じゃ、その能の面って、何種類あるかご存じですか?何と、基本的なものだけでも約60種類。その他の面を含めると、約250種もあるんだそうです。
 目の表情、まぶたが一重か二重か、眼窩のくぼみ方は?等、顔のどのパーツの何をどういじると、そのお面が現わす人の喜怒哀楽とか本性みたいなものはこう変わる、という精密なノウハウを、能と能面に携わる人は持ってるんだと思います。
 蔦重が十郎兵衛に求めたのは、そういうノウハウだったんじゃないか、と言われているんです。
 しっかし、よくこんなところに気付きましたよねえ。歌舞伎の商品を作るのに、能面作りのノウハウを持ってくるなんて。蔦重本人か、北尾重政をはじめブレーンがめちゃくちゃ優秀だったんでしょうね。」
https://www.msn.com/ja-jp/news/entertainment/%E7%B5%90%E5%B1%80-%E5%86%99%E6%A5%BD%E3%81%AF%E8%AA%B0%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-100-%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%91%E3%81%A9-%E3%81%BB%E3%81%BC%E6%B1%BA%E3%81%BE%E3%82%8A-%E3%81%AA%E6%AD%A3%E4%BD%93%E3%81%A8%E3%81%AF-%E6%9D%BE%E6%9D%91%E9%82%A6%E6%B4%8B%E3%81%B9%E3%82%89%E3%81%BC%E3%81%86%E8%A7%A3%E8%AA%AC/ar-AA1Bl5O3?ocid=msedgntp&pc=U531&cvid=d17ba1addb754365b956a9265a682e0d&ei=68

 日・文カルト問題。↓

 <・・・。↓>
 「日本歌謡の「初ヒット曲」? いしだあゆみが繋いだ80年代の日韓交流・・・」
https://www.sankei.com/article/20250322-3XXRSPNX2VKK3KTXYL3MCMI7N4/
 <よかったね。↓>
 「浮島丸の乗船者資料 日本政府がすべてを韓国に提供・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20250321003900882?section=japan-relationship/index
 <「比較するな」がムツカシイんだなあ。↓>
 「一番乗りでサッカーW杯出場を決めた日本に、韓国ネット「日本と比較するな」「中国を笑っている場合じゃない」・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b950417-s39-c50-d0191.html

 ジョージ・オーウェルに養子がいてフツーの市民になってた
https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Blair_(patron)
のね。↓

 George Orwell and me: Richard Blair on life with his extraordinary father–The literary giant’s only child reflects on his father’s devotion in their days together in rural Scotland, his early death, his genius as a writer – and his reputation as a womaniser・・・
https://www.theguardian.com/books/2025/mar/19/george-orwell-me-richard-blair-life-with-extraordinary-father

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <邦語媒体より。
 饅頭怖いブシが出た!↓>
 「中国、台湾の元統合幕僚長起用巡り抗議・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/de4a5ee82e33afe92ef111f11b826bd0fb6f3237
 <次に人民網より。
 ビミョーなトイメンだな。↓>
 「李書磊中共中央政治局委員(中共中央宣伝部部長)は20日、岡田克也常任顧問(前幹事長)率いる日本の立憲民主党訪中団と北京で会談した。・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2025/0321/c94474-20292311.html
 <ここからは、レコードチャイナより。
 片面的日中交流人士モノ。↓>
 「・・・中国のSNS・微博(ウェイボー)で、中国の人気女優ディリラバのパスポートが東京で拾得されたことが注目された。・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b950400-s25-c70-d0193.html
 <まあまあ。↓>
 「<サッカー>バーレーンに勝利し日本がW杯一番乗り、中国でも注目・・・中国SNSの微博(ウェイボー)・・・」

https://www.recordchina.co.jp/b950420-s25-c50-d0190.html

一人題名のない音楽会です。
 ブルックナー(Bruckner)の交響曲のピアノ・ソロ演奏をお送りします。
 編曲・ピアノは、Eric Xi Xin Langです。
 Langについては、取り敢えずは、’Grand Prize Winner at VAMSO Provincial Concerto Competition 2014′
https://www.youtube.com/watch?v=r_JI0XOPvlI
くらいしか分かりませんでした。
 ちなみに、’The VAMSO Provincial Concert Competition is new as well, and invites students from all over BC to compete for a chance to perform a movement of a concerto of their choice with the VAM Symphony Orchestra live on the Orpheum Theatre stage. This competition is open to students playing any instrument (voice included) who resides in BC.’
https://vancouveracademyofmusic.com/competition-brochures-available/
です。

4th Symphony 第1楽章 18.07分
https://www.youtube.com/watch?v=Xiiru_A7904

7th symphonyより 16.52分

https://www.youtube.com/watch?v=SATeJsEUhVs

       --日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から(メモ3)--

備考:

 今回は、「です」調の未公開有料コラムからの引用が中心のメモになり、混乱を避ける意味もあり、引用でない部分は「である」調にした。
 そして、その冒頭に「↓↓」、または、その末尾に「↑↑」、をつけることで、非引用部分であることが分かるようにした。
 但し、引用中で、書き換えた箇所・・<>が目印・・や新たな「注」を加えた箇所もある。
 (「注」の番号は、引用元の番号は無視して今回だけの通し番号にしている。)
 また、引用部分はその末尾に引用元のコラム#を示したが、未公開のものが大部分であり、中には、有料読者にも未公開なコラムからの引用もあるが、これらのコラムも今月末までには全て、同じ#で、有料読者に配信する予定だ。
 配信される際に、手直しされるものが出てくる可能性があることをお断りしておく。
なお、≪「(3)日蓮主義」中の「ウ 信長流・・・」≫における引用は、基本的に「池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む」シリーズ中のコラムからのもの、≪「(4)本格的日蓮主義戦争の決行」中の「エ 本格的・・・」≫における引用は、基本的に「遠藤誉『毛沢東–日本軍と共謀した男』を読む」シリーズ中のコラムからのもの、だ。

 こういう書き方にしたことから、結果的にいささか読みにくいもの・・文字通りのメモ・・になってしまったかもしれず、先回りしてここでお詫びしておく。

目次:

≪「(3)日蓮主義」中の「ウ 信長流日蓮主義と秀吉流日蓮主義」について≫

◎信長の日蓮主義者性
◎秀吉の日蓮主義者性
◎信長と秀吉の評価における陥穽

≪「(4)本格的日蓮主義戦争の決行」中の「エ 本格的日蓮主義戦争第二フェーズ」について≫

◎毛沢東の偉大さ


[習仲勲について]


[毛沢東らによる支那における縄文的弥生人努力と縄文人の創出努力]
一 毛沢東による縄文的弥生人の創出努力
 (一)教育
  ア 軍規教育
  イ 「向雷鋒同志学習(雷鋒同志に学ぼう)」運動
 (二)一所懸命基盤の整備
  ア 瑞金時代における宮崎民蔵唱道の土地均分政策
  イ 先の大戦時代における南泥湾精神の鼓吹
  ウ 先の大戦後の時代における山脇延吉唱道の自力更生政策
 (三)弥生性の注入努力
  ア 朝鮮戦争
  イ 中越戦争

二 縄文的弥生人創出努力の続きと縄文人の創出努力


[杉山元の自裁時期]

◎習近平家


[鄧小平以降の中共当局と天皇]
一 鄧小平
二 江沢民
三 胡錦涛
四 習近平

五 中共当局の天皇観

◎毛沢東の評価における陥穽

本文:

≪「(3)日蓮主義」中の「ウ 信長流日蓮主義と秀吉流日蓮主義」について≫

◎信長の日蓮主義者性

 楽市楽座を事実上日本で初めて開設したのは信長だが、このことからすら、信長の日蓮主義者性が透けて見えてくる。↓↓

 「形の上でこそ、楽市楽座は信長によるものが三番目ですが、六角定頼によるとされるその居城観音寺城の城下町石寺のものは既に存在していたものに言及したに過ぎず、今川氏真による永禄9年(1566年)のものは、今川氏家臣の大規模な離反が起きていたという背景下、「在地領主による独自の諸役徴収・・・を禁止して市の平和を回復する」ためにとられた緊急避難的措置であったと考えられる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E5%B8%82%E3%83%BB%E6%A5%BD%E5%BA%A7
のであって、永禄10年(1567年)の信長によるもの(上掲)こそが、為政者によって出されたものとしては日本最初の楽市楽座であったと言ってよいのではないでしょうか。
 では、それがどうして岐阜近郊においてだったのか、です。
 「斎藤道三<の父は、日蓮宗の>・・・京都妙覚寺で得度を受け、・・・僧侶となったが、還俗し・・・僧侶時代の弟弟子、常在寺の南陽坊(日運)を頼り、長井長弘の家臣となることに成功し・・・次第に頭角を現し<、道三に>・・・家督を<譲ったところ、>・・・道三の墓所は・・・<この>常在寺にある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%81%93%E4%B8%89
ことから、美濃、就中岐阜及びその周辺には日蓮宗信徒が多かったと思われる上、「当時の京都は・・・特に町衆(まちしゅう)と言われる、裕福な商工業者に・・・日蓮宗・・・信徒が多く、・・・<同宗は、>洛中に二十一ヶ寺の本山を擁し、「皆法華」とまで称され<、>・・・京都に住む人の七割が日蓮宗の檀信徒になっ<ていたとの説もあるくらいであり、>」
https://temple.nichiren.or.jp/5011103-gokokuji/2012/04/id33/
この1567年に美濃平定を成し遂げ、翌年の上洛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7 前掲
を見据えていた信長は、京都の「輿論」を引き付けるためにも、自分の自由な商工業の振興政策を、(幟旗<(注1)(のぼりはた)>に永楽銭を描くと共に、)楽市楽座を設置するという形でもってアピールすることが望ましいと考えたのだと私は思うのです。」(コラム#14716)

 (注1)「特定の目的や願いを示すために用いられる旗<。>・・・商人が出店する際に使う目印としてや、戦国時代の武士たちが自分の陣地を明示するために持っていた旗が起源とも言われています。」
https://kotobasta.com/27274/

 信長は、家臣に、日蓮宗信徒を多数抱えていたほか、(秀吉のような)日蓮主義者もいたし、家族にも日蓮宗信徒が少なからずおり、自身、日蓮主義者になったのは不思議ではない。
 そんな信長が、日蓮宗の世俗化・・宗教(狂信)性の緩和・・を図ったのは、大いに理解できるところだ。↓↓

 「岐阜で山科言継に宿を提供した大脇伝内<(注2)>は塩売で<信長の>馬廻<という武士でもあ>った。

 (注2)「<彼の>塩屋<は>旅籠を兼ねていて、宣教師のルイスフロイス<も>泊まった二階建。店先では盤双六で賭博をする人たちで騒がしかったようです。」
https://blog.goo.ne.jp/nobunaga1567/e/56d99e97a5df30036ffe4942689b1866
 「<大脇>伝介は<、この>伝内の同族で、安土城下(現滋賀県近江八幡市)で塩屋を営んでいたと考えられており、大脇一族は、岐阜から安土にかけて手広く塩屋を営んでいたようです。」
https://www.shiotokurashi.com/kokontozai/gifu
 「当時,信長の本拠だった新興都市の安土では,折伏の談義僧でならした普伝日門の布教によって法華宗が猛烈にのびていた。また,信長が当時その統治に腐心した京都や堺でも,町衆社会に法華宗が大きな勢力をもっていた。・・・安土宗論・・・は浄土宗の僧と法華信徒の問答に始まったが,信長の命で,両宗を代表する高僧らの対論となり,・・・法華宗の・・・敗北となって決着した。・・・建部・・・紹智・・・,大脇<伝介>,<と>普伝・・・は斬られ,頂妙寺日珖(につこう)ら対論出席者は満座の中で袈裟をはぎとられ,なぐられた。しかも宗論のあと,信長は京都の法華宗本山13ヵ寺から黄金2600枚という莫大な償金をまきあげ,また詫証文をとって浄土宗の本山知恩院に与えた。・・・
 <これ>を契機として、日蓮宗では従来の強引な布教態度が姿を消すとともに、寺院を離れて活躍する伝道僧の行動が著しく制限されるようになった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%AE%97%E8%AB%96-26018

 <ちなみに、>信長の側室で信忠・信雄らの生母生駒氏<(注3)>の兄生駒家長も馬廻で、永禄3年9月に信長から馬一疋分の荷物の自由通行を認められている。」(116~118)

 (注3)生駒吉乃(いこまきつの。1528?~1566年)。「尾張国と美濃国の国境付近で両国の通商に携わっていた生駒家宗(蔵人)の娘。(愛知県江南市出身)『前野家文書』は初めの夫を土田弥平次とする。弘治2年(1556年)に夫が戦死し、実家に戻っていた後に信長の側室となったとされ<、>・・・信忠(諸説あり)・信雄・徳姫(諸説あり)の母とされる。・・・
 実家の生駒家は馬借を家業としていたといわれ・・・屋敷は近隣はもとより遠方からも多種多様な人の集まる場所となっており、信長は生駒氏の冨と財力と情報力を求めて近づいたともいわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A7%92%E5%90%89%E4%B9%83 

⇒京と信長の本拠の安土のそれぞれの状況が<、当時、>互いに連動している様子が見て取れます。
 京で大流行りだった日蓮宗ですが、大脇伝介のみならず、彼と同族の大脇伝内も、そして、生駒吉乃もまた、日蓮宗宗徒であった可能性がありますね。
 信長の正室であった濃姫も父親譲りの日蓮宗宗徒であって不思議ではなく、だとすれば、宗徒に囲まれていた信長も事実上の宗徒、また、(恐らくですが)生みの親の吉乃と(多分ですが)育ての親の濃姫の影響下で信忠もまた事実上の宗徒であった、ということになりそうです。
 いずれにせよ、安土宗論の後の信長の日蓮宗への厳しい措置は、信長の日蓮主義戦争を契機として東アジアに伝播することになると(信長の頭の中で)目された同宗に対する愛の鞭だった、と、私は見ています。」(コラム#14720)

 そんな信長は、私の言うところの、信長流日蓮主義宣言を1578年に行った。↓↓

 「信長は天正6年(1578)4月9日、突然に右大臣兼右大将の職を辞した。
 天下統一がまだ実現していないので、ひとまず辞任し、東夷・北狄・南蛮・西戎を服属させて万国<(注4)>安寧、四海<(注5)>平均<(注6)>が実現したあかつきには、また勅命に応じて官職につきたいというのが表向きの理由である。・・・

 (注4)万国=萬國、は、易経‐比卦が初出の漢語であり、日本での初出は、続日本紀‐神亀元年(724)一一月甲子)の「亦有二京師一、帝王為レ居、<萬國>所レ朝」である
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%87%E5%9B%BD-606366
ところ、ここでは日本の都ではなく、支那歴代王朝の都、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E5%B8%AB
を指しており、萬國は「世界のすべての国」を指している
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%87%E5%9B%BD-606366
と考えられる。
 そのことは、「東夷・北狄・南蛮・西戎」が、あくまでも支那を中心とした表現であることからも明らかではなかろうか。
 (注5)「天下の意。古代の<支那>人は<支那>の四方を海がとりまいていると考えた。《爾雅(じが)》が<支那>の九州の外に四極,その外に四荒,さらにその外に四海がひろがり,四海は九夷,八狄,七戎,六蛮など野蛮人の住地であるというのは,海・・・と晦・・・の音声の類似から,海が文明の光のとどかぬ“晦(くら)い”ところと意識されたからである。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%B5%B7-517099
 転じて、日本で「国内・・・<や>天下」の意味にも用いられるようになった(上掲)が、信長は、ここでは、(「東夷・北狄・南蛮・西戎」という表現もこれあり、)本来の意味で用いたと考えられる。
 (注6)「 平定すること。統一すること。「大明、韃靼を—し」〈浄・国性爺〉」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%B9%B3%E5%9D%87/

 ↑↑信長が、「天下」を、全世界の意味で使ったことを、ここで、改めて強調しておきたい。
 但し、堀新もそうだが、そう考える史家は皆無で、東アジアと考える史家も池上裕子をを含む2~3人ではなかろうか。↓↓

 これは、「堀新<(注7)>氏がいわれるように、それは天下統一に官位を利用しないことを宣言したものと位置付けることができよう。・・・」(119)

 (注7)1961年~。早大文(日本史)卒、同大院単位取得退学、共立女子大講師、助教授、教授、早大博士(文学)。日本中世史、近世史専攻。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%96%B0_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)

⇒信長の言上の紹介が正確な要約であるとしてですが、信長は、その2年前の天正4年(1576年)に「尾張の兵を弓衆・鉄砲衆・馬廻衆・小姓衆・小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させ」ることで、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
近衛部隊であった馬廻を近衛軍へと規模を拡大しており、他方、この天正6年(1578)中から中国地方侵攻を本格化させており、日本列島の東海地方より北は基本的に盟友の徳川家康に任せ、自身は西日本を平定したら、間髪を入れず、親率する近衛軍を中心とした日本軍を渡洋させ支那攻略に着手するつもりであったところ、それについて朝廷を無答責とすべく私の言う信長流日蓮主義宣言を行った、と、見ています。」(コラム#14724)

 (安土城もそうだ(コラム#省略)が、)信長が行った2度・・2度目は3回行われたが・・の軍事パレードは、彼が、信長流日蓮主義を視覚化してアピールした、と、把えるべきなのだ。↓↓

 「信長は、「天正9年<(1581)>・・・正月8日、安土城下に築いた馬場で爆竹(さぎ・・・ちよう)(左義長)<(注8)>を行った。・・・

 (注8)「鎌倉時代にはおこなわれていたらしい。起源は諸説あるが、有力なものは平安時代の宮中行事に求めるもの。当時の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」という杖で毬をホッケーのように打ち合う「打毬」があった。小正月(1月15日)に宮中の清涼殿の東庭に山科家などから進献された葉竹を束ねたものをたてた。その上に扇子、短冊、天皇の吉書などを結び付けた。これを陰陽師に謡い囃して焼かせ、天覧に供された。『故実拾要』によれば、まず烏帽子、素襖を着た陰陽師大黒が庭の中央に立って囃をし、ついで上下を着た大黒2人が笹の枝に白紙を切り下げたのを持ち、立ち向かって囃をし、ついで鬼の面をかぶった童子1人が金銀で左巻に画いた短い棒を持って舞い、ついで面をかぶり赤い頭をかぶった童子2人が大鼓を持って舞い、ついで金の立烏帽子に大口袴を着て小さい鞨鼓を前に懸け、打ち鳴らしながら舞い、また半上下を着たものが笛、小鼓で打ち囃す。毬杖(ぎっちょう)3本を結ぶことから「三毬杖(さぎちょう)」と呼ばれた。これが民間に伝わり、現在の形になったとされる。・・・
 1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。その火で焼いた餅(三色団子、ヤマボウシの枝に刺した団子等地域によって違いがある)を食べる。また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくと、その年の病を除くと言われている。また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると、字が上達すると言われている。道祖神の祭りとされる地域が多い。
 民俗学的な見地からは、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる。・・・
 とんど(歳徳)、とんど焼き、どんど、どんど焼き、どんどん焼き、どんと焼き、さいと焼き、おんべ焼き等とも言われるが、歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域ではそう呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられている。とんどを爆竹と当てて記述する文献もある。これは燃やす際に青竹が爆ぜることからつけられた当て字であろう。・・・
 民間・町内会が主体となって行われる場合は基本的に上記したような名称で呼ばれ、寺社が主体となって行われる場合には、お焚き上げ(おたきあげ)・焼納祭(しょうのうさい)と呼ばれたりする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E7%BE%A9%E9%95%B7

 小姓衆、・・・一家衆・・・の後から登場した信長は眉墨で眉を引き<(注9)>、黒い南蛮傘<(注10)>、赤<(注11)>い着物、唐綿の袖なし羽織、虎<(注12)>皮の行縢(むかばき)<(注13)>という、異国の風俗をして葦毛の馬に乗っていた。・・・」(126)

 (注9)引眉。「眉を剃る、または抜いたあと、除去した眉よりも高い位置に「殿上眉」という長円形の眉を墨で描く。・・・元来は裳着の際に、お歯黒とセットで行われたもので、平安時代中期頃から男性貴族、平家の武将等の元服の時にも行うようになった。
 室町時代以降は殿上眉の位置はさらに高くなり、能面にも写されるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E7%9C%89
 (注10)「安土桃山時代にはスペイン,ポルトガルから西洋帽子が渡来し,南蛮帽,南蛮笠の名で呼ばれ,戦国武将が好んで用いた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E8%9B%AE%E7%AC%A0-1384069#goog_rewarded
 (注11)「大昔の中国人の祖先は、太陽を崇拝していた。崇拝の対象は太陽に始まり、動物になり、神話になり、そして宗教になった。朝日や夕日を見てもわかるように、当時の人々にとって太陽は赤色だった。・・・これが中国の赤色崇拝の始まりだという。・・・
 周王朝の王室では、陰陽五行説により、赤色が尊重された。『礼記』には、葬儀は早朝の空の赤い時に行わなければならず、軍馬は腹が白く毛の赤い馬にしなければならない、といった決まりが記されている。」
https://yaseteru.hatenablog.com/entry/2022/03/03/174830
 (注12)「虎と人間の生活が密接だった古代の<支那>や朝鮮など東アジアでは、虎をトーテムとして崇拝した氏族があり、その名残りから魔除けや山の神として一般的な崇敬の対象になった。・・・
 古代より日本人にとって虎の皮は、海外との交易で輸入される唐物の代表だった。・・・渤海使の献進物の中にも虎の皮が含まれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9
 (注13)「遠行の外出・旅行・狩猟の際に両足の覆いとした布帛 (ふはく) や毛皮の類。中世の武士は騎馬遠行の際の必需品とし、シカの皮を正式として腰から足先までを覆う長いものを着用した。現在も流鏑馬 (やぶさめ) の装束に使用。」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%A1%8C%E7%B8%A2/

⇒左義長自体は、一般行事に過ぎないけれど、<信長は、>それにかこつけて京で計画していた馬揃の予行演習を行ったと見ますが、それに臨んだ<彼>のいで立ちに注目すべきでしょう。
 私に言わせれば、信長は、引眉は、織田家は平家だから日本の武家の棟梁に自分はならず、支那(赤い着物、唐綿の袖なし羽織、虎皮の行縢)、ひいては欧州(黒い南蛮傘)、に打って出る、と、宣言したのです。(太田)」(コラム#14726)

 「ついで信長は、正月23日、明智光秀に京都で馬揃(うまぞろえ)を行う準備を命じ、分国中に動員令を発して、出来る限りの趣向を凝らして参加するよう命じた。
 全国60余州にうわさが広まるよう計算してのことである。
 2月28日、御所の東側に設けられた馬場で、天皇・公家や宣教師らを招待し多くの見物人の見守るなか、華美をきわめた馬揃が行われた。
 行列は下京本能寺を出て室町通りを北上したので、その道中でも多くの見物人を楽しませた。・・・

⇒日蓮宗の本能寺を起点としたのは、言わずと知れた、近い将来、日蓮主義に基づいて軍隊を渡海させるところ、この馬揃はその予行景気づけ演習である旨の宣言でしょう。(太田)」(コラム#14728)

 「・・・<その>後に金紗を着た信長<が、>・・・唐冠<(注14)>、蜀江錦(しょっこうにしき)<(注15)>の小袖、白熊の越蓑、猩々緋という黒みを帯びた深紅色の毛織物と唐錦<(注16)>でできた沓など、外国産の貴重でめずらしいものを身につけて、人々を圧倒した。

 (注14)とうかん/とうかんむり/とうかむり。「後方が前方より高く、纓(えい)が左右に張った古代<支那>の冠の形を取り入れたかぶりもの。能装束の冠としては、大きな巾子(こじ)と、左右に張り出した朴葉形の翼が特色。主に<支那>を舞台とする「皇帝」「咸陽宮」などの曲や、<支那>人に扮する「白楽天」のワキなどに用いられる。舞楽装束の冠としては、左右に大きく張り出した平纓(ひらえい)を特色とする。」
https://kotobank.jp/word/%E5%94%90%E5%86%A0-579774
 (注15)しょっこうきん。「漢代には蜀の成都の南を流れる流江で洗った染色は特に鮮麗で美しいとして,以来その都を錦城,その川を錦江と呼ぶようになった。三国時代には,当時錦の産地として最も著名であった襄邑の錦織をも圧倒するほどの発展をみせ,その後歴代王朝の絹織物の産地として重要な地位を保持してきた。宋代の〈錦院〉,明代の〈織染局〉といった官営工房もまた蜀の地に設けられた。蜀錦の特色は織技の精緻さと,文様の多様性にあるが,特に赤染が美しいことで知られている。」
https://kotobank.jp/word/%E8%9C%80%E6%B1%9F%E9%8C%A6-80502
 (注16)「錦は2色以上の緯糸で文様を織り表したものをいう。平織地浮文錦,地と文が異なる斜文組織のものや,文が浮織となった唐錦(からにしき)といわれるもの,地と文が同じ斜文組織で,緯糸で地色と文様を表した大和(倭)錦と呼ばれるもの,などがある。」
https://kotobank.jp/word/%E5%94%90%E9%8C%A6-467570

 信長は安土城<でそうしたの>と同じように、意識して唐様を用いたと思われる。・・・
 信長の天下には中国を含む東アジアが含意されていたことはまちがいなかろう。

⇒堀/池上、いや、少なくとも池上、にとっての「天下」がそういう意味であることをもっと早い段階で記してもらう必要がありました。
 というのも、「室町時代以後は、「天下」の語は畿内・近国とその周辺の領域のことを主として意味していたことがほぼ確実になりつつある。織豊政権期以降、武家社会の進展に伴って「日本」とほぼ同義の意味で使用されるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%8B
ことに照らせば、それは、極めて特異な「天下」の用法であると言わなければならないからです。(太田)

太田牛一は、さながら住吉明神<(注17)>が姿を現したようにみなが感じたと記している。・・・

 (注17)大阪の住吉大社の祭神は、底筒男命・中筒男命・表筒男命の3柱と神功皇后だが、3柱は「住吉大神(すみよしのおおかみ)」と総称され<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E5%A4%A7%E7%A4%BE
 住吉大神の画像(典拠不詳)。↓
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/1f/aed6173e8ea3abfe72c0a649d3df10fd.jpg

 住吉・・・<神>社には、熊襲を討つため九州に行き、さらに進んで新羅を服属させたという伝説の人物神宮皇后を祀り、同社の神がそれを助けたという伝承がある。
 西日本の征服と海外派兵の願望を託したといえようか。

⇒池上は、信長を、私の言うところの、信長流日蓮主義者、と、見ていることになります!(太田)

 天皇は、これほど面白い遊興はないと喜んで、もう一度やってくれと頼んだので、信長は3月5日とさらに8月1日にも行って群衆を魅了した。
 天皇をこれほど無邪気に喜ばせ、他方で武士・民衆にみずからを皇帝とも神とも映る天下人として印象付けたという二重の意味において、馬揃ははかりしれないほどの成功をおさめた。・・・」(127~128)

⇒正親町天皇(1517~1593年)は、「永禄8年(1565年)には、キリスト教宣教師の京都追放を命じた」その人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
であり、太田牛一同様、信長を信長流日蓮主義者と見、信長を、その力でもって神功皇后をして戦わずして三韓を従わせしめた住吉大神
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%90%89%E4%B8%89%E7%A5%9E
、的な人物・・信長流日蓮主義者!・・と見たに相違ないのであって、だからこそ、馬揃が大いに気に入ったと思われるのです。
 すなわち、信長が、自分を、天皇の上に立つ「皇帝」や「神」、だなどと思っていたはずがないのであり、武士・民衆もまた、そんな勘違いをするわけがないのです。(太田)」(コラム#14730)

 信長の天皇観には既に触れたが、この天皇観を含め、信長は、日蓮とほぼ同じ世界観を抱懐していたことを確認しておこう。↓↓

 「「織田信長<は、>出陣するに際し、大覚寺、仁和寺、青蓮院、醍醐寺三宝院、同理性院など京都の寺院、摠見寺、また上賀茂社、松尾社、多賀社などの神社や伊勢御師などに対して祈禱を依頼していた・・・。また年頭の祝儀として祈禱を行う御師や寺社に対しても感謝の言葉を伝えていた・・・。言い換えれば、信長は戦場における神仏の加護を、少なくとも一般的な戦国大名同様に重視していた<。><(α)>・・・
 <また、そもそも、>織田家には法華信仰が存在していた<。(β)>」(神田千里「ルイス・フロイスの描く織田信長像について」より)
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=6285630eacb962e359ea8e5dc275181d0f495331809b23f0338e175a822f24b6JmltdHM9MTczNzg0OTYwMA&ptn=3&ver=2&hsh=4&fclid=00cb7a4f-890f-66e8-130d-6f15880a6721&psq=%e4%bf%a1%e9%95%b7+%e7%a5%9e&u=a1aHR0cHM6Ly90b3lvLnJlcG8ubmlpLmFjLmpwL3JlY29yZC84MTY3L2ZpbGVzL3NoaWdha3VrYWhlbjQxXzA0OS0wNzYucGRm&ntb=1
といった史実に照らせば、「ヤマト王権の勢力が日本の東西に広まるにつれ、古くから日神崇拝の聖地として中央にも知られていた伊勢の地を大王の聖地とし、皇祖アマテラス大神として信仰するようになっていった。「遅くとも6世紀前半」「どんなに遅く見積もっても6世紀末以前」には皇祖神の天照大神として伊勢神宮に祭られていたという。 また、大王自身も「カミ」を祭る<こと、すなわち、>・・・神事・・・が本来の主要な任務であったとされ<た>。・・・
 <しかし>、鎌倉時代から戦国時代になると、戦乱により多くの祭祀が中断することになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E7%A5%AD%E7%A5%80
、と、天皇が神社の神官の元締め的な存在であることに照らせば、αから、信長は、天皇を「少なくとも一般的な戦国大名同様に重視していた」と見るべきでしょう。
 そして、「日蓮聖人は<、>・・・天竺、震旦、<よりも>日本は優れている<、>・・・越えてる<、>・・・と・・・いう理解があるわけです。その根拠として、・・・「其上神は又第一天照太神・第二八幡大菩薩、第三は山王等三千余社、昼夜に我国をまほり、朝夕に国家を見そなわし給。」即ち、・・・神に守護されている、そういう国が日本だと、いう風にこれを捉えておられた<。>・・・
 <また、>釈迦仏は、譬えば我国の衆生<(天皇)>のごとしと書いて<い>ます。・・・ということは、天皇が、日本国の中での至高の存在であると認めているように取ることができます。」(藤﨑善隆「日蓮聖人と国家」より)
https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho41-12.pdf&type=G&prt=1218
という、日蓮の神道観、日本観、天皇観に照らせば、βから信長を日蓮宗の事実上の信徒であると見るべきである以上、信長もまた、日蓮と同様の神道観、日本観、天皇観を抱いていた可能性が大でしょう。
 よって、「現在は、信長は<、>天皇や朝廷と・・・融和・・・協力的な関係にあったとする見方が有力となっている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7 前掲
という現在の有力説・・上掲は池上もそうだとしているが、私には、彼女は対立・克服説のように見える・・ですら、信長の天皇観を上下関係ではなくあたかも対等のギブアンドテイク関係にあったかのように見ている点で、ほぼ間違いなく誤りである、と、私は断ぜざるをえません。」(コラム#14732)

◎秀吉の日蓮主義者性

 秀吉は、自らを日蓮の生まれ変わり的な存在である、と、(本当に信じていたかはともかくとして)称していた。↓↓

 「秀吉は自己の正統性を「日輪の子」の捏造によって主張する<(注18)>とともに、儒教の中国、仏教のインド、キリシタン国とも違う我国の独自性を神道<(注19)>に求めて「日本は神国」と世界に主張することになった。」(3~4)

 (注18)「「或時母懐中に日輪入り給ふと夢み、巳(すで)にして懐妊し、誕生しける」(・・・豊臣秀次の侍医を務めた・・・小瀬甫庵著『太閤記』より・・・)<、>・・・徳川秀忠・家光らに仕えた土屋知貞(ともさだ)の『太閤素性記(たいこうすじょうき)』にも同じような記載が。・・・文禄2(1593)年の高山国(台湾)宛の書簡では、このような記載<が>。「それ日輪の照臨する所は海岳山川草木禽獣に至り、悉くこの恩光を受けざるはなきなり。予、慈母の胞胎に処せんと欲するの時に際し、瑞夢あり。その夜己(つちのと)、日光室に満ち、室中昼のごとし」(『異国往復書翰集』<より>)」
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/119350/
 「弘安五<(1282)>年九月十八日に大聖人は池上仲宗邸に到着、そして翌月十月十三<(11月21)>日に御遷化なされるが、その間・後を託した日興上人に、本因妙抄、身延山附属書等の血脈相承書を託されているが、そのなかで自身の出生についての謂れ、日蓮の日文字の由来等についても口伝され<たのが>・・・産湯相承事(うぶゆそうじょうじ<)である。>・・・
 母梅菊女・・・御身の父に嫁(とつ)げり。或る夜の霊夢に曰く、叡山の頂(いただき)に腰をかけて近江の湖水を以て手を洗ひ、富士の山より日輪の出でたもうを懐(いだ)き奉ると思うて、打ち驚いて後・月水(がっすい)留まると夢物語りを申し侍れば、父の太夫・我も不思議なる御夢想を蒙むるなり。虚空蔵菩薩・貌吉児(みめよきちご)を御肩に立て給う。・・・人・天・竜・畜共に白き蓮を各手に捧げて、日に向つて「今此三界(こんしさんがい)・皆是我有(かいぜがう)・其中衆生(ごちゅうしゅじょう)・悉是吾子(しつぜごし)・唯我一人(ゆいがいちにん)・能為救護(のういくご)」と唱え奉ると見て驚けば、則ち聖人出生し給えり。」
https://nichirengs.exblog.jp/22913786/
 (注19)「皇太子であった以上、当然のことながら、厩戸皇子もまた、神道信奉者であったことです。
 2017年・・・当時<の>・・・法隆寺管長<たる>・・・大野玄妙師<が、>・・・「実は、<当初から、>鳥居<が、この、皇子創建の>お寺(法隆寺)の中に何か所も祀<られ>ております」と<指摘している>
https://religion-news.net/2022/05/18/op787/
ことを、我々は銘記すべきでしょう。(太田)」(コラム#14708)

⇒長らく失念していましたが、秀吉が「日輪の子」と称した、のは極め付きに重要です。
 これは、秀吉自身が捏造したのではなく、母親の仲が日蓮宗信徒であって、秀吉に対し、「注18」後段を引用しつつ、お前は日蓮の生まれ変わりだ、的なことを吹き込み続けた、ということがあったのではないか、と、私は想像するに至っています。
 というのも、仲(大政所)の墓は、仲の法名の天瑞院の大徳寺内天瑞寺、高野山青巌寺、山科本圀寺、にあり、遺骨は天瑞寺に収められたけれど、日蓮宗の本圀寺の墓地には、「最初の夫<で秀吉の実父>の弥右衛門、婿<で日秀(とも)の夫>の三好吉房、孫<で日秀の子で秀長の婿養子>の豊臣秀保と合祀された供養塔がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E6%89%80
ことから見て、本圀寺こそが本来の墓と見てよいのであって、彼女は日蓮宗信徒であったにほぼ違いないからです。
 (ちなみに、貞明皇后は、仲の12代目の子孫です。(上掲)
 なお、このうち、弥右衛門だけは、日蓮宗信徒ではなさそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%BC%A5%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80 )
 神道云々の話の方は、ここでは取り上げません。(太田)」(コラム#14702)
 
 なお、秀吉は武士になったわけだが、日蓮の弥生性も相当なものだった。↓↓

 「日蓮<は、>甲州身延山へ入山した際に、護身用として信者から贈られた・・・数珠丸・・・<という>日本刀<を>・・・所持し・・・守り刀<としていた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E7%8F%A0%E4%B8%B8
ということを覚えておこう。
 仏教宗派の長で守り刀を所持したのは、空前のことではなかったか。
 日蓮は、「いくさ(戦)への立ち合いを求め<、軍議で>発言することもあるべし」(コラム#13292)と述べたことがあるところ、戦闘に立ち合い、軍議に参加するために従軍している時に、味方が攻撃された場合、その攻撃が自分にも向けられれば、自衛のために自分自身もこの刀をふるって戦う決意だったのだろう。
 この日蓮の顔色を無からしめたのは、後にも先にも、「僧衣の下に具足を着用し腰に太刀を佩く・・・画像」を残したところの、信長と石山合戦を10年間戦った、一向宗の顕如
https://www.ishikawa-rekihaku.jp/collection/detail.php?cd=GI00218
くらいだろうが、顕如の場合は、信長打倒のために積極的に戦ったわけであり、彼は、宗教家としてあるまじき人物だった、と言ってよかろう。」(コラム#14712)

 本能寺の変の根本原因は、反日蓮主義者の明智光秀によるところの、信長による近い将来の対外的日蓮主義戦争の阻止だったというのがかねてよりの私見(コラム#省略)だが、本能寺の変に係るこのところの有力説たる、四国・長宗我部問題説、についても、かかる観点から光が照射されるべきだろう。
 長曾我部の攻撃対象になっていたのは、阿波の三好康長(?~?年)・・信長存命中に秀吉の甥であるところの、後の秀次、を養子にしていたとの説がある・・、と、讃岐の十河存保(そごうまさやす。1554~1587年)だったが、康長は最終的にはキリシタンになっているけれど、三好長慶の年下の伯父であることから、かなり以前から康長は法号を使用していたこともあり、長慶らがそうであったのと同様臨済宗信徒たる日蓮主義者であった(コラム#省略)と考えられるし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7
存保は、その実父の三好実休(じっきゅう。1527?~1562年)は、三好長慶の弟であるところ、日蓮宗信徒だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B2%B3%E5%AD%98%E4%BF%9D
ことから、本人も日蓮宗信徒であったと思われる。
 その上でだが、1582年において、本能寺の変、山崎の合戦、清須会議を経てから、秀吉が一時本拠にしたのは、日蓮宗の本圀寺・・当時は本国寺・・だったことは注目されてしかるべきだろう。↓↓

 「・・・<1582年の山崎の合戦の後に行われた>清洲会議は織田政権の解体を世に宣言したものだった・・・。
 秀吉が京都、山城をとった意義は大きい。
 本圀寺<(注20)>に入ると、公家たちの本圀寺詣が続いた。・・・

 (注20)「嘉暦3年(1328年)に、後醍醐天皇の勅願所となっている。
 本国寺が鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)3月で、四祖日静上人の時である。日静は室町幕府初代将軍足利尊氏の母・上杉清子の弟で、尊氏の叔父であった。そのため、幕府からの支援もあり、日静は光明天皇より寺地を賜ると六条堀川に寺基を移転させた。また、天皇から「正嫡付法」の綸旨も受けている。・・・以降も寺は足利将軍家の庇護を受けたほか、応永5年(1398年)には後小松天皇より勅願寺の綸旨を得ている。・・・
 文明14年(1482年)に、後土御門天皇の勅諚により「法華総本寺」の認証を受けている。
 天文5年(1536年)の天文法華の乱では他の法華宗寺院とともに焼き討ちされて焼失し、堺にある末寺の成就寺に避難した。天文11年(1542年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、本国寺は天文16年(1547年)に六条堀川の旧地に再建された。
 永禄11年(1568年)、本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となる。翌永禄12年(1569年)には本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される事件・本圀寺の変が発生した。本国寺はなんとか損傷を免れたものの、信長は本国寺の一部の建物を解体して二条御所(二条城)建築に用いることを決める。本国寺の一部の建物は取り壊され、それぞれの建築物は二条御所に運ばれて再組み立てされたという。さらには屏風や絵画などの本国寺の貴重な什器類までもが運び去られた。
 天正13年(1585年)、豊臣秀吉により山城国菱川村(現・京都市伏見区)に朱印地177石が与えられた。・・・
 水戸藩主徳川光圀が当寺にて生母久昌院の追善供養を行うと、貞享2年(1685年)に光圀は自らの名から一字を本国寺に与え、本国寺は本圀寺と改称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%80%E5%AF%BA

⇒天皇家と足利氏との縁の強過ぎる本圀寺・・当時は本国寺・・、に対して、信長は、本圀寺の変を奇貨として、距離を置いたのに対し、秀吉は、あえて<本圀寺と>よりを戻すことによって、私<だけの>見<解ですが>、信長流日蓮主義を否定し秀吉流日蓮主義宣言をしたのだと思うのです。(太田)」(コラム#14734)

 そして、早くもその3年後に、秀吉は唐入りのアドバルーンを上げている。↓↓

 「秀吉は関白になった直後の天正13<(1585)>年9月、直臣の一柳市介<(注21)>宛の書状で日本国は申すに及ばず「唐国まで仰せつけ」る(支配する)意思を表明し、その後もことあるごとに表明した。・・・」<(コラム#12328)>(294)

 (注21)一柳直末(ひとつやなぎなおすえ。1546/1553~1590年)=市助=市介=末康。「美濃国厚見郡西野村(あるいは今泉村。現在の岐阜県岐阜市西野町)の住人・一柳直高の子として誕生。・・・母は稲葉一鉄の姪(姉の娘)。・・・。豊臣秀吉に早い時期から仕えて黄母衣衆の一人となり、豊臣政権下で美濃国大垣城主・軽海城主などを務めたが、・・・小田原征伐<の際、>・・・山中城の戦いで戦死した。・・・
 陣中にあった秀吉は直末討死の報告を聞いて「直末を失った悲しみで、関東を得る喜びも失われてしまった」と嘆き、3日間ほど口をきかなかったという・・・。・・・
 大垣城主(美濃の蔵入地代官を兼ねる)への移転については、前任の加藤光泰が秀吉の勘気を蒙ったのに替わるもので、光泰の罪状を記した末安(直末)宛の書状は、部将たちに示した公開訓戒状であるとともに、「唐国」征服の意思を示したものとしても知られる。・・・
 弟<の>・・・直盛は尾張国葉栗郡の黒田城主となり、関ヶ原の合戦を越えて近世大名としての地盤を築くことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9F%B3%E7%9B%B4%E6%9C%AB
 「直盛の子孫は、江戸時代初頭に伊予国に3つの藩(西条藩、小松藩、川之江藩(のち播磨小野藩))を立て、大名として続くことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9F%B3%E7%9B%B4%E9%AB%98
 「室は黒田職隆の娘(黒田孝高(如水)の異母妹)で、・・・直末との間に一男二女があったが、・・・直末の遺児である松千代は、黒田家に引き取られて孝高(如水)に養われた。・・・「松寿」と呼ばれている(なお、黒田長政の幼名も「松寿」である)。・・・慶長8年(1603年)3月1日に14歳で夭折・・・。
 如水は松寿をかわいがり、隠居後には遺品を松寿に譲るべく、諸道具に松寿の名を入れさせたという。文禄2年(1593年)8月9日、秀吉の勘気を被った黒田家隠居の如水は、当主長政に宛てて万一の場合の遺言状をしたためているが、長政に実子ができなかった場合、松寿が黒田家を継ぐよう指名されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9F%B3%E7%9B%B4%E6%9C%AB
ちなみに、黒田長政は、松寿時代の「天正5年(1577年)10月・・・に<父の>孝高<が>秀吉に対して起請文を提出し、松寿・・・を人質として秀吉に預けている。これは信長が播磨諸侯に人質の提出を命じたものの、<孝高の旧>主君の<小寺>政職が嫡子・氏職が病弱であることを理由に、松寿・・・を代わりに提出させたためとされる。松寿・・・は秀吉の居城・近江長浜城にて、秀吉・おね夫婦から人質ながら、我が子のように可愛がられて過ごしたという。・・・天正6年(1578年)、信長に一度降伏した荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)。父の孝高は、懇意であった村重を翻意させるために有岡城へ乗り込むも説得に失敗し逆に拘束された。この時、いつまで経っても戻らぬ孝高を、村重方に寝返ったと見なした信長からの命令で松寿・・・は処刑されることになった。ところが、父の同僚<でやはり秀吉の部下の>竹中重治(半兵衛)が密かに松寿・・・の身柄を居城・菩提山城城下に引き取って家臣・・・の邸に匿い、信長には処刑したと虚偽の報告をするという機転を効かせた。有岡城の陥落後、父が救出され疑念が晴らされたため、姫路へ帰郷した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%94%BF
という次第であり、黒田父子ともども秀吉との関係は極め付きに深い。

⇒本能寺の変(天正10<(1582)>年6月)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
のわずか3年後に秀吉が唐入り宣言をしたということは、秀吉が信長の部下であった当時から唐入りを考えていた可能性が大であるということであり、池上も認めているように、信長自身もまた唐入りを考えていたのですから、秀吉のこの考えは信長譲りであると見ていいでしょう。
 信長の部下であった有力武将達のうち秀吉だけがこの信長の考えに強く共感したのは、両者が共に日蓮宗信徒ならぬ日蓮主義者であったからだ、というのが私の見方であるわけです。
 なお、どうして、秀吉が、公開されるであろうところの、この唐入り宣言を兼ねた書状、を、一柳直末に与えた(託した)かですが、「注43」後段から分かるように、当時、秀吉の筆頭参謀であってかつ秀吉との関係が極め付きに深かった黒田孝高と密談の上、黒田の異母妹の夫でかつ秀吉の最腹心とも言うべき一柳に白羽の矢を立て、唐入りについて観測気球を上げさせたのではないでしょうか。
 その折、それに対して雑音が一切奏でられることがなかったので、秀吉は、唐入りが現実化した時に「世論」に反対されるようなことはない、と、判断し、その後も唐入りの話を人々の間に浸透させるために、そのことを折に触れて表明し続けることにしたのではないか、と。(太田)」(コラム#14746)

 要するに、唐入り・・日蓮主義戦争・・は、信長・秀吉師弟が、その初期フェーズとも言うべき日本統一過程(対内的日蓮主義戦争過程)で結果的にバトンタッチして、遂行したところの、大事業、だったのだ。↓↓

 「日本統一 → 対外的日蓮主義戦争遂行、までを自分の存命中にやろうとすれば、とにかく、急ぎに急がなければならず、だからこそ、信長は日本統一を急ぐために検地など後回しにしたのですし、秀吉は、対外的日蓮主義戦争遂行を急ぐために国産貨幣鋳造などすっとばして石高制(知行制)でお茶を濁さざるをえなかった、というのが、私の取り敢えずの見解です。
 こう考えれば、信長が1575年のまだ41歳の時に家督を信忠に譲ったことも、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
豊臣秀吉が1591年のまだ54歳の時に「家督」を秀次に譲った<(注22)>ことも、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

 (注22)「12月28日に、秀次は関白に就任して、同時に豊臣氏の氏長者とな<り、>・・・天正20年(1592年)1月29日、左大臣に補任された。2月には2回目の天皇行幸があり、秀次がこれを聚楽第で迎えた。これは秀次への権力世襲を内外に示したものと理解されている<し、>・・・12月8日<の>元号<の>文禄<への>改元<についても>、この時期に天皇即位や天変地異など特に改元すべきふさわしい理由はなく、これは秀次の関白世襲、つまり武家関白制の統治権の移譲に関係した改元であったと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1

説明がつくというものです。」(コラム#14712)

 信長・秀吉師弟が暴挙を企画し遂行した、と、見るのは、この2人が政治家・軍人としてどちらも天才的能力の持ち主であったことに照らしても、彼らに対する冒涜以外の何物でもない。
 この2人に共通して欠けていたとすれば、それは、唐入りを暴挙と見るのが同時代の日本人を含む日本人の大部分であると認識する能力、だけだった。↓↓

 「「朝鮮出陣中の毛利輝元宛の朱印状で秀吉は、自分は小臣であったが、「或いは五百騎、或いは千騎、小をもって大を撃ち、日本国中を攻め伏せ、鋭士勇将ことごとくみな命に従」った、だから「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧する」がごときものだ、「ただに大明のみにあらず、いわんや天竺・南蛮かくのごとくあるべし」という。
 また同じ論法で、「日本弓箭きびしき国にてさへ、五百・千にてかくのごとく残らず仰せつけられ候。みなどもは多勢にて大明の長袖国へ先駆けつかまつり候あいだ」早く征服せよと督励した。・・・
 驚くべき単純な論理である。
 朝鮮出兵は無謀の暴挙にみえるし、明征服などできるはずがないと我々には思われる。
 当時の人だってそう思っていた。
 それなのになぜ秀吉はそんなことを計画したり考えたりしたのか、なぜそこへつき進んでいったのか、大きな謎である。

⇒1598年の慶長の役のわずか9年後の1607年、「ヌルハチは<、>諸大臣からゲンギエン・ハン(genggiyen han英明汗)として推戴され<、>国名を、数世紀前に北部中国を支配した女真の王朝である金の後身を意識してアマガ・アイシン・グルン(anaga aisin gurun、後金国)とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B8%85%E4%BA%A4%E6%9B%BF
と、(金が支那本体の河北に王朝を樹立し宋(南宋)を朝貢国にした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B9%E8%88%88%E3%81%AE%E5%92%8C%E8%AD%B0
史実に照らし、)事実上の対明宣戦布告を行っていますが、これが「無謀な暴挙」でも「明征服などできるはずがない」ことでもなかった証拠に、明はずるずる後退を続け<(注)>、その4分の3世紀後の1681年・・台湾征服までなら1683年・・に明の完全征服を成し遂げます。

 (注23)「1619年にヌルハチ・・建州女直を統一して、1616年にハンに即位し後金を起こし<てい>た・・が率いる後金(のちの清)が明・朝鮮の後金討伐軍を破った戦い。大小の火器を動員し全軍を4つに分けて後金を包囲攻撃した明軍に対し、ヌルハチは夜襲によって銃砲の優位を封じたうえで混乱した敵軍を各個撃破することにより大軍を打ち破った。特に最初に行われた大きな戦闘が撫順東方のサルフ・・・で行われたため、この戦役全体がサルフの戦いと呼ばれる。兵力・・16万<対>6万<!>・・<と>装備では圧倒的に優っていたにもかかわらず、諸将の対立によって各軍の連携・統制を欠いたこともあって、明・朝鮮の連合軍は4万5千人もの死傷者・・<後金側は>2千・・・を出す大敗北を喫した。
 建国間もない後金の存亡をかけた決戦であり、この戦いに勝利したことが後金興起の第一歩となり、やがて明清交替へと繋がることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%95%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 (なお、朝鮮に関しては、<ヌルハチの後を継いだ後金のホンタイジが、1627年にわずか3万人の兵士を派遣し後金に有利な和議を結ばせ(丁卯(ていぼ)胡乱)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E5%8D%AF%E8%83%A1%E4%B9%B1
国号を後金から清に改めた1636年に、皇帝に即位したホンタイジが、今度は直率した10万の兵力で侵入し、翌1637年に制圧し、完全に>服属させています(丙子(へいし)の乱)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%99%E5%AD%90%E3%81%AE%E4%B9%B1 
 <ちなみに、「動員兵数(人):665,000(日本軍文禄200,000・慶長150,000、朝鮮軍文禄慶長120,000、明軍文禄48,000・慶長147,000)」です。
https://sengokumiman.com/gaiyoubunrokukeityounoeki.html
 しかも、海軍についてはさておき、陸軍に関しては、日本で戦乱が続いてきていたこともあり、日本軍の方が朝鮮/明軍よりも装備も練度も上回っていました。(典拠省略)>)
 しかも、1607年時点での(後の)後金は、1598年時点の日本と比較すれば、圧倒的なに小さな「国」力しかありませんでした。(典拠省略)
 従って、池上らが自問すべきは、むしろ、「なぜ豊臣政権による明征服は緒についた時点で挫折するという意外な結果に終わってしまったのか」なのであり、その答えは、ここではあくまでも例えばですが、(<さしあたり>明征服を期していた)秀吉の死によって豊臣政権が事実上(明征服に<すら>全く関心がなかった)徳川政権に変わってしまったから、でなければならないのです。(太田)」(コラム#14748)

 「私は、長政、利家、家康、は、秀吉が渡海しなければ、唐入りは挫折するとふんで秀吉の渡海に反対したのであると見るに至っており、後陽成天皇の秀吉渡海反対勅書発出は長政らとの連携プレイだった、と、見るのが自然であるということになりそうです。
 (なお、「石田三成が秀吉の渡海を切望していた」とは私は考えていませんが、後述するところを参照のこと。)
 いずれにせよ、同天皇が五山の僧らに北京行幸の供奉を命じたのは、そうすることで自分の真意を隠すことができると考えたためでしょう。(太田) 

 また秀吉の祐筆山中橘内(きつない)によれば、秀吉は北京に入った後、日明貿易の港であった寧波(ニンボー)に居処を定めて「天ちく(竺)きりとり(切り取り)申し候」意向だという。・・・
 かつての朝貢貿易の拠点港<に、というところに、>自己のもとでの朝貢貿易体制の再構築という志向がここでも貫かれている。
 しかしそれは、すでに過去のものとなった明の冊封体制そのものであることを、秀吉は認識していたであろうか。」(308~309)

⇒朝貢貿易と重商主義に基づく貿易とは似て非なるものです。
 ですから、池上は、このように書いたことで、事実上、自らの、信長/秀吉重商主義追求説を否定してしまっています。
 単に、秀吉は、2度目の元寇(弘安の役)の時の江南軍の出港地であり、明の時には市舶司(しはくし。海上貿易関係の事務を所管する官署)が置かれた三つの港の一つで、1523年まで行われた日明勘合貿易において日本の指定港であったところの、寧波
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%A7%E6%B3%A2%E5%B8%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E8%88%B6%E5%8F%B8
を、明の最重要港と見ていて、そこから、南蛮派遣軍を派遣することを夢見ていた、ということでしょう。(太田)」(コラム#14752)

 秀吉の唐入りの存命中の成功を妨げた要因は次の通りだ。↓

 「1580年からスペインはポルトガルを併合しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%9A2%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%8E%8B)
アジアにおけるカトリシズム普及は、ポルトガル王の要請によってインドに赴いた、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが主導し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9A
日本のカトリシズムも概ねイエズス会の宣教師達が普及させた経緯、と、イエズス会の厳格な上意下達体制の下、キリシタンの小西行長は、イエズス会、ひいてはスペイン王フェリペ2世の指揮下で行動していたと見てよいのであって、フェリペが、事実上その沿岸地域全体を領有していたインド(上掲)、と、領有していたフィリピン、に、食指をのばそうとしていた秀吉(前出)、そして、天正15(1587)年にバテレン追放令を発出していた秀吉(前出)、の唐入りを妨害するよう指示されていたからこそ、彼はサボタージュを行ったのである、と、私は見ています。<(注24)>

 (注24)長々しい下掲を読めば、後金/清ポルトガル/スペイン/イエズス会、が、秀吉の唐入りの当時、秀吉に敵対的で明には好意的であったこと、清と朝鮮間の丙子の乱(上出)時、と、明清交替期、には中立的立場を採ったこと、がどうしてかが腑に落ちよう。↓↓
 「ポルトガルは1517年、中国来航を果たした。広東(カントン)の広州(こうしゅう)に来航したポルトガル人は、北京入京後、当時の明朝(みん。1368-1644)の皇帝・正徳帝(せいとくてい。武宗。ぶそう。位1505-21)に謁見、寧波(ニンポー)・廈門(アモイ)に商館を設置、貿易を開始した。明には鎖国思想があり、海禁・朝貢貿易重視という徹底した姿勢であるため、本来なら海外貿易は実施不可能ではあった。しかしこれに不満をもった中国・日本人の商人や海賊が倭寇行為(わこう)を頻繁に起こし、貿易体制が不安定となっていった。このため、1557年、明朝はポルトガルに倭寇討伐の協力を要請し、倭寇を鎮めた。ポルトガルはこの代償としてマカオ居留権を明朝政府から受け、ここでの居住を許可されたのである。こうしてポルトガルと明朝間に交易が始まった。・・・
 この中国・ポルトガル間の貿易は、商業分野に限らず、文化面・社会面における交流も積極的であった。・・・
 ザビエルは、ポルトガル王国アヴィス朝(アヴィシュ朝。1385-1580)君主・ジョアン3世(1521-1557)の要請でインド布教を命じられてゴアへ向かい(1542)、セイロン・マレー諸島・マラッカ・モルッカ諸島(マルク諸島。”香料諸島”の異名があるインドネシア東部の諸島)での布教をおこなったが、1546年マラッカで日本人弥二郎(やじろう。アンジロー。?-1551?)と知り合った。ザビエルは弥二郎をゴアの聖パウロ学院に送り、弥二郎は1548年に受洗、日本人最初のキリシタンとなり、名を”パウロ=デ=サンタ=フェ”と称した。ザビエルは弥二郎と出会ったことで日本伝道を志し、翌1549年鹿児島へ上陸、日本のキリスト教伝来がもたらされた。
 日本には中国文化の影響が見られると感じたザビエルは、日本のキリスト教国化には、まず中国布教が必要だと判断して一度ゴアに戻って計画を練り直し(1551)、翌1552年に広州沖の上川島(じょうせんとう)に到着したが、長旅からくる過労と、鎖国策をとる明朝政府から入国を拒否されたショックからか、高熱を患い、46歳で病没した。ザビエルの中国伝道の夢はかなわなかった。
 ザビエルの志を継いだのがイタリア人宣教師のマテオ=リッチ(1552-1610。利瑪竇。りまとう)である。1578年、ゴアに派遣されたリッチは、しばらくインド布教を行っていたが、1582年、マカオへ赴き、同地で中国語と中国における社会と文化を学んだ。彼は『天主実義(てんしゅじつぎ)』を著してカトリック教義を漢文に翻訳(1595)、自身を”利瑪竇”と名乗り、中国の儒学者の衣服を着用、広東地方を転々とした。さらに皇帝・万暦帝(ばんれきてい。神宗。しんそう。位1572-1620)の布教許可を得るため、1601年北京に入った。
 儒教では、君主という概念を”天帝”・”上帝”と表すが、リッチらはこれらを、キリスト教の神”デウス”と重ね、”デウス”を”天帝”・”上帝”と解釈した。さらに、儒教の祖・孔子(こうし。B.C.551-B.C.479)の崇拝や祖先崇拝(霊前で香をたいて祈る等)といった伝統的儀礼(儒教の典礼)は、宗教的儀式ではなく世俗的な行事として黙認し、一方で、洗礼の際に行う塗油の儀式などは中国では不適だと感じたことで、あえてキリスト教独自の儀式に対しての強制は行わなかった(リッチ方式)。
 また中国には西洋学術(地理・数学・天文学)や西洋技術も紹介し、同国では好意的に受け入れられた。北京入京後、万暦帝に謁見したリッチは、自鳴鐘(じめいしょう)と呼ばれる西欧式時計や西洋楽器などを献上し、好意的に受け入れられた。
 リッチは1602年、6枚1組の世界地図『坤輿万国全図(こんよばんこくぜんず)』を刊行、はじめて世界の大きさを知った中国の知識人階級に大きな影響を与えた。特に中国の政治家・学者であった徐光啓(じょこうけい。1562-1633。著作『農政全書』)は感銘を受け、翌年キリスト教の洗礼を受けた。
 徐光啓は翌1604年科挙試験に合格、進士として翰林院(かんりんいん。詔書起草機関。皇帝顧問機関)に出仕、リッチの教えを受けて、古代ギリシア数学者のエウクレイデス(ユークリッド。生没年不明)の幾何学書『幾何学原論』の前半部を、リッチの口訳と徐光啓の漢文記述という共同作業で完成させた(1607)。これが『幾何原本(きかげんぽん)』である。
 リッチは1610年、北京で没し、ゴアに葬られた。リッチの活躍で、明末清初の時代には多くの宣教師がヨーロッパ各国がら訪れるようになる。1622年に陝西省西安(せんせいしょう。シーアン)に到ったドイツ人イエズス会宣教師・アダム=シャール(シャル=フォン=ベル。中国名”湯若望”。とうじゃくぼう。1591-1666/68?)は1627年、北京で布教活動を行い、明朝最後の皇帝・崇禎帝(すうていてい。毅宗。きそう。位1627-44)に謁見した。そこで礼部(六部の1つ。教育担当)にいた徐光啓と接触、彼との共同作業で、西洋暦学書を翻訳(徐光啓は1633年に没)、集成した135巻の『崇禎暦書(すうていれきしょ)』を帝に上呈(1642)、また天体観測技術や大砲技術も紹介した。1644年の明朝滅亡後、シャールは『崇禎暦書』を改訂、『時憲暦(じけんれき)』として再刊行した(1645)。清朝・順治帝(じゅんちてい。世祖。せいそ。位1643-61)の治世下、シャールは欽天監(きんてんかん。天文台のこと)の監正(長官)に任じられた(1646)。その補佐をしたのがベルギー出身のイエズス会宣教師・フェルビースト(1623-88。中国名”南懐仁”。なんかいじん)である。
 シャール没後、フェルビーストは、生涯を欽天監に捧げ、清朝最大の皇帝といわれる康煕帝(こうきてい。聖祖。せいそ。位1661-1722)に天文学や数学を進講、1674年、リッチの『坤輿万国全図』をさらに発展させた『坤輿全図』を発表した。また大砲鋳造を促し、三藩の乱(さんぱん。1673-81)の際には大小の大砲120門を鋳造、この功績で工部侍郎(こうぶじろう。工部の次官。工部は六部の1つ。土木・建設担当)の称号を与えられた。
 フランス人のイエズス会宣教師も中国に派遣された。ブルボン朝(1589-1792,1814-30)のルイ14世(太陽王。位1643-1715)の命で派遣されたブーヴェ(1656-1730。”白進”。はくしん)は、1685年北京に到着、康煕帝に仕え、幾何学・暦学・天文学・医学などを進講した。また康煕帝はブーヴェに命じてフランスへ帰国させ、ルイ14世へ49冊の漢籍を贈呈するなど、フランスの大君主との交流も実現させた。ブーヴェは帰国の際、『康煕帝伝』を著してフランスで刊行、これにより、同国でシナ学やシノワズリ(中国趣味)が大流行し(17-18C)、啓蒙思想家ヴォルテール(1694-1778)、経済学者ケネー(1694-1774。主著『経済表』。中国古来の農業思想が一部採り入れられた重農主義を主張)らに影響を与えた。またドイツにも伝わり、哲学者ライプニッツ(1646-1716)は宣教師の翻訳を通じ、朱子学を解釈、その一部は彼の大成したモナド論(単子論)と関係があるとされている。また科挙制度を模範とした高等文官の試験制度がフランスで制定され、さらにブルボン朝の宮廷には中国の陶磁器や織物などが飾られていった。
 康煕帝は正確な中国地図をブーヴェに命じた(1708)。ブーヴェは同じフランスのイエズス会宣教師であるレジス(1663-1738。中国名”雷孝思”。らいこうし)らとともに大規模な測量調査を行い、1717年になってようやく中国初の実測地図、『皇輿全覧図(こうよぜんらんず)』を完成させた。
 東西文化の交流が盛んとなった清王朝は、さらに西洋画法や西洋建築の知識を欲した。そこで登場するのが、イタリア人画家カスティリオーネ(1688-1766。中国名”郎世寧”。ろうせいねい)である。ミラノ出身のカスティリオーネは、イエズス会入信後、1715年、北京に入った。康煕帝・雍正帝・乾隆帝と、清朝の黄金時代を現出した3皇帝に仕え、写実法・遠近法・明暗法といった油絵の技法を伝え、中国絵画に革命をもたらした。一方でカスティリオーネ自身は中国古来の画法をとりいれ、絹地に水絵具を使用した。また彼は建築設計家としても名高く、離宮・円明園(えんめいえん。北京郊外)内の宮殿や庭園など設計にも携わった。西洋バロックと中国建築様式を折衷したこの離宮は、乾隆帝の時代に大規模に補修され、地上の偉観とされた。カスティリオーネは、離宮でくつろぐ乾隆帝の姿を描画に残している。またカスティリオーネが紹介した西洋画法は、陶磁器にも影響が及び、名産地である景徳鎮(けいとくちん)などで作られた”洋風連瓶(れんぺい。2個の瓶が結合した形)”の表面にその画法が紹介された。」
https://www.worldhistoryeye.jp/99.html

しかし、石田三成らの奉行達は、その筆頭格の三成自身はキリシタンではなかったというのに、どうして行長のウソが見抜けなかったのでしょうか? 
 それは、彼らが、とりわけ、三成が、行長とグルだったから、で、決まりでしょう。
 そもそも、三成は、「文禄の役に際しては、行長と加藤清正の両名が年来先鋒となることを希望していたが、秀吉は行長を先鋒として、清正は2番手とした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7
ところ、この決定の際のキーパーソンは、当時、三成であると考えるのが自然でしょう。
 それまで、秀吉の最高参謀であった秀長と利休が相次いで天正19(1591)年に死去した後には、事実上、三成が、この2人とは違って(すぐ後で説明しますが、口先では、)唐入りに積極的に賛成していたこともあって、秀吉の覚えが目出度く、一人で最高参謀を務めるに至っていた、
https://sengokumiman.com/ishidamitunari.html
と、私は見ている次第です。
 ここで、その三成が、島津義久から、島津氏と一心同体の近衛家、ひいてはその近衛家と一心同体に近い天皇家、の反唐入りの意向を打ち明けられ、その結果として唐入りの失敗を企図し、それに見事に成功した、という、かねてから(コラム#12328以来、)唱えてきた私の新説を思い出して下さい。
 そして、三成以外の奉行達については、大谷吉継は家康と親しくかつ三成とは親友でそれに加えてキリシタンであり、また、増田長盛は家康のスパイと形容してもよい人物であり、この3人が奉行5人中の主要な3人と言ってよいところ、家康は前述したように唐入りそのものに反対であったと考えられることから、三成の企図に吉継と長盛が賛同し、この企図に係る三成の「指示」に従うのは火を見るよりも明らかであったと言えるでしょう。
 念のため、後・・・の2人の奉行達についても付言しておきますが、前野長康は、キリシタンであった上に、茶道の師と仰ぐ利休を秀吉に殺されたばかりであり、当然、唐入りには否定的であったと思われます。
 最後の長谷川秀一については、「本能寺の変の一報<が>当日の深夜に・・・堺の遊覧を終えて飯盛山の麓にあった<徳川家康>一行に、茶屋四郎次郎によって届けられ<ると、>秀一は土地鑑に乏しい一行の案内を買って出て、河内国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける道取りを説明<するとともに>、急使を飛ばして大和国衆の十市遠光に護衛の兵の派遣を要請し、行く先として想定した山城の宇治田原城主の山口甚介にも書状を送り事を説明すると山口は家臣の新末景と市野辺出雲守を派遣して草内の渡しの渡河を助け、宇治田原城へと一行を導<き、>その後、これも秀一旧知の近江信楽の代官である多羅尾光俊(山口秀景の婿養子である山口光広の実父)の所領を通って伊賀越えで京を脱出し、秀一は安全圏の尾張熱田まで家康一行に同行して<一緒に>逃げ<たおかげで>、<家康は>窮地を脱した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E7%A7%80%E4%B8%80
ことを契機に、(その後、小牧・長久手の戦いの時には秀吉の部下として徳川軍と戦ったということもあった(上掲)けれど、)家康とは親しい関係にあったと思われ、家康の反唐入りの考えに同調していた可能性が大です。
 そもそも、自分以外の奉行の選任も三成の申し出を秀吉が承認する形で行われた可能性が大であって、当然、三成は、自分の「同志」達だけで奉行陣を固めようとした、と、思われる以上、こういう布陣になるのは当たり前であると言えるでしょう。
 こうして、文禄の役は、行長と奉行陣の描いたシナリオ通りに進行させられ、そのために、本来ありえないところの、失敗、に終わらされたのである、と、私は見ている次第であり、差し当りのその日本側の犠牲者の最たるものは、このシナリオの影の最大の協力者であったと私が見ているところの、豊臣秀次とその係累、だったのです。
 ご存じのように、秀吉は、秀次を切腹させ、その係累を根絶やしにしました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1 前掲
 秀吉の怒りの大きさとこの秀次らへの措置の目的は、想像できるはずです。
 もちろん、唐入りにおいて、2番手に落とされた上、ないがしろにされた清正が三成に抱いた怒りも理解できようというものであり、この清正の怒りが、慶長の役での三成の再度のサボタージュによって増幅されたことが、秀吉死後の豊臣家の急速な没落の最大の原因になるのです。(太田)」(コラム#14756)

◎信長と秀吉の評価における陥穽

 ↑↑以上を踏まえた感想として、表記に係る私見をご披露しておきたい。
 信長と秀吉の評価についても、私がかねてから指摘してきたところの、日本史に係るぶつ切り出たとこ勝負史観・・長命であることが少なくないところの、理念的なもの、をそっちのけにして、その時その時の成り行きを有力勢力のエゴとエゴとのぶつかり合いの結果として描写し、かかる描写を繋ぎ合わせて日本史を描く史観・・が陥穽となっているのだが、それに加え、信長や秀吉、そして明治維新、等、を評価するにあたっては、さすがに世界史を勘案しない者はいないけれど、世界史中の何を勘案するかに遺漏があるケースが大部分であることも陥穽となっていると言えよう。
 遺漏をもたらす原因として大きいものの一つは、世界史、とりわけ地理的意味での欧米史書には、欧米の人々にとって余りにも当たり前の話は殆ど出て来ないということに、彼らが鈍感であることだ。
 一例を挙げれば、中世、近世、近代の欧米史書において、その時々の彼らの技術や制度が、もっぱら、戦争によって、ないしは、戦争のために、出現した、などということは、当たり前過ぎて、欧米史書には殆ど出て来ない。

≪「(4)本格的日蓮主義戦争の決行」中の「エ 本格的日蓮主義戦争第二フェーズ」について≫

◎毛沢東の偉大さ

 杉山元が、1931年にその実施に着手されることになるところの、杉山構想、における支那での提携相手・・蒋介石政権打倒後に支那を託すべき指導者・・として、中国共産党の毛沢東を選んだのは、1928年までという早い時期だったと私は見るに至っている。
 なお、その際、スペアとして(、日本留学歴のあるところの、同じ中国共産党の)周恩来を選んだのではないか、とも。<(注25)>↓↓

 (注25)周恩来がスペアでしかありえない理由は下掲参照。
 「ダライ・ラマ14世は毛沢東を「革命の真の偉大な指導者でした。その表現の仕方や身振り、考え方はとてもダイナミックでした。何度も会見し、どのようにして人と接するか、どのようにしてさまざまな意見を受け入れるか、最終的にどのようにして結論を導き出すかといったことを学びました」と高く評価した一方で、周恩来のことは「毛沢東と違って大変ずる賢いと思いました。第一印象で、この人は大うそつきだとすぐわかりました」と評している」
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5 >
ところ、恐らく、これこそが、的確な周評価なのだと私は考えています。(太田)」(コラム#14774)

 「毛沢東も1927年9月9日の中秋節に5000人ほどの工農革命軍を率いて秋収起義(秋の収穫期に起こした蜂起)を起こし失敗している。
 10月に<西の>湖南省との省境にある江西省の井岡山<(注26)>(せいこうざん)に逃げ、1000人ほどになってしまった敗残兵とともに山に身を隠<した。>・・・

 (注26)「中華人民共和国江西省吉安市に位置する県級市。江西省の南西に位置し、羅霄山脈の中ほどにある井岡山を擁する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%B8%82

 <そして、>農村革命根拠地という戦略により、毛沢東は農村における勢力範囲を拡大させ、地主や富農の土地を没収して貧農に分配するという土地革命を実施して行った。・・・

⇒井岡山は江西省の西端に位置するけれど、江西省の東端は福建省であること、かつ、この毛が始めた土地均分政策が、<かつてその講演を聴いた>宮崎を通じての知り得たところの宮崎民蔵唱道の政策を実行に移したと考えられること<等>から、1926~28年の間は、杉山元自身は海外(ジュネーブ)にいたけれど、彼は1923~25年の軍事課長時代に杉山構想の策定に取り掛かっていたと私は見ている(コラム#省略)ところ、彼の留守中にも、陸軍の支那諜報組織は杉山の軍事課長当時に発した意向を受けて、支那で陸軍が提携すべき相手の候補を見つけるべく努力を続けていて、1927年の時点で毛を有力候補に選び、杉山が1928年に帰国し、軍務局長になった8月時点において、毛の勢力を提携相手に決めた、と、私は見るに至っています。(太田)
https://shirakaba.link/betula/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 ←杉山の補職歴 」(コラム#14820)

 「「井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。

⇒・・・福建省は、日清間の1898年の「<清は、>福建省内および沿岸一帯を,いずれの国にも譲与または貸与しない・・・,<そして、>」福建省を日本の勢力範囲と認めた」福建省不割譲協定、
https://www.historist.jp/word_j_fu/entry/036934/
及び、日仏間の1907年の「フランスは広東・広西・雲南を、日本は満州と蒙古、それに秘密協定によって福建を自国の勢力圏として相手国側に承認させた」日仏協約、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%BB%8F%E5%8D%94%E7%B4%84
・・中華民国及び諸列強から異議は表明されていない・・に基づき、福建省の一部が事実上ソ連に貸与された、といったクレームをつけ、必要に応じて出兵する「権利」があったにもかかわらず、<帝国陸軍が静観していたためだろうが、>日本政府はこの事態を静観しているからだ。(太田)

 毛沢東は江西省瑞金に建設された中央革命根拠地である「江西ソビエト」に移り、1931年11月に瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。

⇒瑞金が、江西省の東端に位置し、<日本の勢力圏である>福建省に隣接している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%87%91%E5%B8%82
ことに注意。(太田)

 しかし、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。国民党軍による包囲に対して、毛や朱徳など前線司令部は<、>「敵の先鋒を避け、戦機を窺い、その後に兵力を集中して敵軍を各個撃破する」というゲリラ作戦をたてたが、上海にある党臨時中央政治局は、積極的に出撃して敵の主力を攻撃し、国民党軍による包囲を粉砕することを前線に求めてきた。毛の作戦はソ連留学組中心だった党指導部によって批判され、1932年10月、毛は軍の指揮権を失った。また、毛が推進していた「土地革命」も批判の対象となり、中止に追い込まれた。さらに1933年1月、中国共産党の本部が上海から瑞金に移転し、党指導部が毛に代わって中央革命根拠地における主導権を掌握した。毛は1934年1月の第6期党中央委員会第5回全体会議(第6期5中全会)で中央政治局委員に選出されたものの、実権を持つことはなかった。

⇒<毛沢東にとっては、中国共産党軍は、日本の武士のような縄文的弥生人を養成する機関なのであって、戦闘に投入するより、養成機関に徹すべき存在だったし、「土地革命」は、武士を一所懸命にさせた封土を共産党軍人に与える方策だったのではなかろうか。>
 この毛沢東を、その失権期間、杉山元らが支えていた可能性を排除できない。(太田)

 国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日についに江西ソビエトを放棄して敗走し、いわゆる「長征」を開始する。この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義<(じゅんぎ)>で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、博古らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに周恩来を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。毛沢東は中央書記処書記(現在の中央政治局常務委員)に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。しかし、毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、8月19日、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。

⇒杉山元らは快哉を叫んだに違いない。(太田)

 1936年秋には陝西省延安に根拠地を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示し、消耗を防ぎながら抵抗活動を続ける。

⇒毛沢東が、どうして、延安を長征の目的地としたかが問題になる。
 ソ連の属国化していた外蒙古には近かったけれど、その間には、日本の勢力圏(上出)と言ってもよい内蒙古があった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%9D%E8%A5%BF%E7%9C%81
ので、ソ連との安定的なルートが確保できる保証はなかった。
 私は、杉山元らが、日本の傀儡国家である満州国に近く、内モンゴルを通じて、日本/満州国との秘密裡の接触が容易な延安を勧めた、と、考えるに至っている。
 しかし、このようなスキームを秘匿するためには、日本が内蒙古<全体>を傀儡国家<に>したり満州国に併合したりしてはならな<いのであって、西部には手を出してはならな>い<、という>ことになる。
 日本が自分で中国共産党を壊滅しようとしないことの説明がつかなくなるからだ。
 だからこそ、杉山元らは、関東軍が主導したところの内蒙古の傀儡国家化計画を2度も挫折させたのだ。
 (1度目は、1936年9~11月の綏遠事件に対し、参謀本部作戦部長心得であった石原莞爾・・かねてよりの杉山元の手駒・・が妨害し(コラム#4008、4010)、2度目は、1937年8月のチャハル作戦に対し、関東軍参謀長であった東條英機・・杉山構想被開示者・・が自分を指揮官とする察哈爾<(チャハル)>派遣兵団(俗に「東條兵団」と言われる)を編成して中途半端な作戦を行って妨害した(コラム#13512、14401及び下掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%8F%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6 )。(太田)

 同年12月7日に朱徳に代わって中華ソビエト共和国中央革命軍事委員会(紅軍の指導機関)主席に就任して正式に軍権<も>掌握。5日後の12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蔣介石監禁事件(西安事件)で・・・宿敵である蔣介石と手を結び、第二次国共合作を構築。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1

⇒「共産党軍は国民党軍の剿共戦<(そうきょうせん)>により21万人から7万人まで勢力を弱め、陝西省・甘粛省の2省に追い詰められていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
のが、1936年12月の西安事件によって、毛沢東は九死に一生を得るわけだが、これは、杉山元らが毛沢東と組み、張学良に工作をして事件を惹き起こさせた、と見てよかろう。
 杉山元らが目をつけたのは、かねてから「反共親日」の姿勢を日本側に開示していた汪兆銘であり、彼は、狙撃され、療養を兼ねて欧州外遊中だったが、その妻で夫の留守中の情報収集をまかせられていた陳璧君
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98
から、狙撃されるまで蒋介石政権の行政院長(首相)をやっていた汪兆銘とその後陳璧君が集めたところの、オープンになったら蒋介石政権と癒着する宋孔陳蔣のいわゆる四大家族からなる浙江財閥
https://www.y-history.net/appendix/wh1503-074.html
が同政権と共に支那から追放されかねない腐敗情報を入手した上で帝国陸軍が収集分析してきた関連情報と綜合させて整理した上で、この情報を、狙撃事件の時に「いち早く犯人に駆け寄って犯人を蹴り倒し」(上掲)てくれたことから汪と親交が生じていた張学良に、陳璧君から、と偽って渡し、この情報を公開するぞと蒋介石を脅せば言うことを聞かせることができると伝える一方で、別のルートで、張学良に、父の仇の日本を憎み国を愛するのなら、中国共産党を救い、蒋介石政権と中国共産党を再合作させた上で日本と戦うべきであると吹き込み、西安事件を惹き起こさせた、と、私は想像をたくましくするに至っている。
 (だからこそ、蒋介石解放交渉に、尻に火がついた宋美齢が浙江財閥を代表して核心メンバーとしてしゃしゃり出てきた、と。)
 その後、蒋介石も張学良も、西安事件の時のことを一切しゃべらないまま亡くなり、とりわけ、蒋介石が、西安事件のもう一人の蒋介石政権側の裏切り者たる楊虎城は家族もろとも殺害したけれど張学良は50年間軟禁した上で解放せざるをえなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
のは、張学良が蒋介石が自分を殺せば、この秘密が暴露される手筈にしていたからだろう、とも。
 なお、杉山元らは、この情報を、汪兆銘に南京政府を作らせる際、秘匿することを誓わせる一方で、ひそかに米国のしかるべき人物に流すことで、米国自身が収集した情報と併せて、米国をして、終戦後、蒋介石政権を見限らせた、とも。(太田)

 「<日支戦争当時、>毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。・・・毛沢東は延安で、日本軍が南京を陥落させたニュースを聞いて大喜びし、祝杯をあげ大酒を飲んだ。

⇒西安事件の後、紆余曲折を経て、翌1937年の4月までに第二次国共合作がようやく成立したところ、支那世論の支持こそ得られたが、蒋介石政権内では反発が強く、蒋介石が亡くなったり失脚したりすれば、その後継国民党政権によってすぐ反故にされる恐れがあったこともあり、杉山元らと毛沢東は、相談の上、中国共産党軍が国民党軍を装って盧溝橋事件を惹き起こし、更にこれを日支戦争へと導き、合作を強固なものにすることに成功した、と見る。
 <そうだとすれば、>そんな毛沢東が、日支戦争中に日本軍を心中応援していたのは当たり前だろう。(太田)

 毛沢東は、裏で日本軍と手を結び、蒋介石と日本を戦わせて漁夫の利を得ていた。延安で八路軍が栽培していたアヘンの販売で日本軍と結託していた<し、>また積極的に占領区内の日本軍と商売を行い、晋西北の各県は日本製品であふれていた<し、>中共指導者は日本派遣軍最高司令部と長期間連携を保っていた。<ちなみに、>毛沢東の代理人は、南京の岡村寧次<(やすじ)>大将総本部<・・岡村が総司令官の時に限らず支那派遣軍総司令部、という趣旨か(太田)・・隷属の人物であった。」(コラム#7572)

⇒こういう関係を、ズブズブの関係と言う。(太田)

 「<日本敗戦直後、>毛は・・・「たとえ、われわれがすべての根拠地を喪失したとしても、東北(<旧>満洲<国>)さえあれば、それをもって中国革命の基礎を築くことができるのだ」と述べた。・・・」(コラム#7820)

⇒それこそが、杉山元らによるところの、満州事変/満州国建国、の主たる目的であった可能性すらある。(太田)

 「「天皇陛下によろしく」-。1956年9月、北京。毛沢東は、侵略戦争に関わった日本の元軍人代表団を招待し、「戦犯」だったはずの昭和天皇にメッセージを投げた。一方、昭和天皇もひそかに中<共>側にメッセージを送り続け、「訪中」を悲願とした。」
https://www.imc.hokudai.ac.jp/contributions/news_events/202111/002767.html

⇒毛沢東は、杉山元らのボスを(実は貞明皇后だったのに)昭和天皇だったと誤解したままだったということだろうし、昭和天皇は、日本が支那に多大なる迷惑をかけたし、将来、米国に代わる宗主国に支那がなる可能性がある、と、考えていたので、罪償の訪中が念願だったのだろう。(この念願を後に、天安門事件後の欧米から総スカンをくって窮地に陥っていた中共に、上皇が、皇太子の岳父が外務次官の時に、私見では上皇のイニシアティヴで訪問して救ってやる形で果たす(コラム#14168)ことになる。)(太田)

 「毛沢東(1893~1976年)は、・・・1964年7月、日本社会党の佐々木更三率いる訪中団が毛沢東と会見した際に、過去の日本との戦争について謝罪すると、毛沢東は「何も謝ることはない。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしてくれた。これのおかげで中国人民は権力を奪取できた。日本軍なしでは不可能だった」と返した。・・・なお、毛沢東が戦後日本の天皇制を批判したことは無い。・・・」(コラム#7177)
 「エドガー・スノー<は、>・・・1964年から1965年にも再々訪中したが、そのとき<にも、>毛沢東は・・・、<支那>大陸における中国共産党による赤化革命成功には「(彼らの敵であった)蔣介石だけでなく、日本の8年にわたる侵略が必要だった」と語っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%8E%E3%83%BC
 「1970年代に国務院副総理陳永貴が日<支>戦争のとき「漢奸」だったと告白した際、毛沢東はそれを一笑に付して、「日本人はわが救命恩人だ。命の恩人の手伝いをし、漢奸になったということは、つまりわたしに忠誠を尽くしたということだ」と言った。」(コラム#7820)

⇒毛沢東は、単にホンネを吐露し続けていただけであるわけだ。(太田)

 「ノーベル経済学賞受賞者であるアマルティア・センは、毛沢東が、日本の教育政策と医療政策を中共に移入した、という趣旨のことを指摘してい<る>」(コラム#7989)ところ、いや、彼は、ありとあらゆるものについて、日本を範にしてきた、というのが私の見方なのだ。
 以上、私が述べてきたところの、日本大好き人間たる毛沢東を象徴するのが、下掲の事実だ。(太田)↓

 「中華人民共和国では旭日模様のデザインが中国共産党の下で積極的に好んで利用されてきた歴史がある<が、>・・・これは毛沢東が旭日模様をとても気に入っていたからとの指摘がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%AD%E6%97%A5%E6%97%97
 例えば、毛沢東思想万歳ポスター、文化大革命ポスターを見よ。
https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=6FeCBROi&id=3E1C20EACE1A591992ED6F1F28A5CA3A32559184&thid=OIP.6FeCBROifFfjpverOoRMlwAAAA&mediaurl=https%3a%2f%2fi.pinimg.com%2f736x%2f7f%2fcb%2f3f%2f7fcb3f85eb40e3ce8a50fcc18bd39747.jpg&exph=615&expw=437&q=%e6%af%9b%e6%b2%a2%e6%9d%b1+%e6%97%ad%e6%97%a5%e6%a8%a1%e6%a7%98&simid=608012334527560407&FORM=IRPRST&ck=FC7FD9E650A36AD1A5EF35A1055F92A5&selectedIndex=0&itb=0&idpp=overlayview&ajaxhist=0&ajaxserp=0
https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=ydGFbrZp&id=B21F146DEDBD3528970917F84A73781FD1E7F7C8&thid=OIP.ydGFbrZpMJQ3d2khPOD9fAAAAA&mediaurl=https%3A%2F%2Fauctions.c.yimg.jp%2Fimages.auctions.yahoo.co.jp%2Fimage%2Fdr000%2Fauc0305%2Fusers%2F4b4d15667f08b23c5c597ddf70c1a29bbb00e16b%2Fi-img450x600-1651664249spq8tm183188.jpg&exph=600&expw=450&q=%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1+%E6%97%AD%E6%97%A5%E6%A8%A1%E6%A7%98&simid=608039629036542137&form=IRPRST&ck=270D53FBFDD612F8D601FE8C5DAA4C90&selectedindex=8&itb=0&cw=1068&ch=1515&ajaxhist=0&ajaxserp=0&vt=0&pivotparams=insightsToken%3Dccid_ZD9o03tCcp_77B4785C3BA29233ACE9557F0A2BEFE8mid_C03E5394ACA6B026A56593D47835C43C76370F56simid_607998350095562049thid_OIP.ZD9o03tCww6NiLB7hCbOggHaJc&sim=11&iss=VSI&ajaxhist=0&ajaxserp=0

 なお、鄧小平は、日本に経済協力を求めてそれを実現させた一方で(欧米の目を眩ませるために)南京事件記念館建設といった反日政策を開始する(コラム#6666)。
 また、習近平・・私見では非血統承継天皇制の中共での樹立を追求している(コラム#省略)・・は、(私が気付いたのは2016年(コラム#8407)だが、)2013年に国家主席に就任した頃から、私が名付けたところの、公然たる日本文明総体継受政策を推進しつつ、(私が気付いたのは2020年(コラム#11381)だが、)中共が日本の宗主国にさせられるのを回避すべく日本の再軍備を図るために日本を口撃等を行う、という、ダブルスタンダード的な対日戦略をとって現在に至っている。 
 最後にもう一点。
 三田村武夫の帝国陸軍統制派アカ論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%94%B0%E6%9D%91%E6%AD%A6%E5%A4%AB
という、トンデモ陰謀論を、対米英戦の真最中に近衛文麿が、また、戦後に岸信介が、信じ込んでしまった(コラム#10042)背景に、この2人が、帝国陸軍・・実は杉山元ら・・と中国共産党が通じている気配を感じ取っていたことがあったのではないか、と、私は見るに至っている。」(コラム#14417)

 ↑↑このように、毛沢東の事績を振り返ってくると、杉山元らが、日本大好き人間で、共産主義についても人間主義的にそれを受け止め中国共産党の創立メンバーになった毛沢東を見出し、中国共産党と毛を、将来、帝国陸軍に代わって(広義の)日蓮主義戦争を遂行するところの組織とその創健者たるべく育て上げることとし、毛に、遊撃戦戦略という名の戦闘回避戦略、と、縄文性を帯びた兵士達の養成、を入れ知恵し、その後、一時失脚した毛を支え、その復権と長征をお膳立てし、第二次国共合作の舞台を整え、蒋介石政権を名存実亡状態にまで追い込んだ上で、予定通り、中国共産党と毛にバトンタッチした、ということが浮かび上がってくる。
 ところが、そんな中国共産党と毛を、中共当局を除く世界のほぼ全員が(近衛や岸もその一端を担ってしまっているが、)誤解したまま現在に至っている。
 その原因は毛沢東にはない。
 毛沢東が、その能力が杉山元らに匹敵するくらい高いこと、そして掛け値なしに日本大好き人間であること、だからこそ日本を大部分の日本人よりも的確かつ深く理解していること、しかも、嘘をつく場合ももちろんあるけれどそれが嘘だと容易に分かるくらい、基本的にはホンネを語ること、を、理解していないかあえて無視する人が大部分なので、そんなことになってしまっているのだ。
 毛がいかにホンネで語る人間であるか、の一例がこれだ。↓↓

 「マルクスレーニン主義シンパでトロいスノウ(スノー)を使って、口から出まかせの歌詞の日露戦争当時の日本の歌なるものを紹介し、正直に自分が日本大好き人間でかつロシア(ソ連!)大嫌い人間であること・・今にして思えば杉山構想信奉者的人間であること、少なくとも横井小楠コンセンサス信奉者であること・・を、世界中に向けて発信させた毛沢東」(コラム#14804)

 毛を誤解してしまうと、例えば、毛があえて五四運動に関わろうとしなかったことの受け止め方といったことについてまで、180度間違ってしまう。↓↓

 「毛沢東は北京<に行ったものの、>大学受験資格がな<かった。>
 唯一の道としては、普通高校卒業に相当すると認められるだけの実習あるいは研修をすれば、それが学歴として認められるという余地が残されていた。
 そこで、<後に毛沢東の岳父となる>楊昌済は毛沢東を北京大学の李大釗・図書館長に紹介し、そのアルバイト的な助手にした。・・・
 しかし、・・・1919年4月6日、毛沢東は長沙に戻って小学校の教員になり、そこで歴史をおしえるのだが、・・・<これは、>5月4日に北京大学を中心として起きた「五四運動」<(注27)>のわずか1カ月前だ。

 (注27)「五四運動<の>・・・政治的背景は2つある。まず対華21カ条要求受諾が挙げられる。第一次世界大戦勃発後の1915年1月18日、大隈重信内閣により袁世凱政権に対華21カ条要求が出され、袁政権は日本人顧問を置くとする5号条項(7ヶ条分)を除き、要求を受け入れた。国民はこの要求の最後通牒を受けた日(5月7日)と受諾した日(5月9日)を国恥記念日と呼んだ。
 次の政治的背景には<支那>軍閥と日本との密接な関係が挙げられる。袁世凱は待望の皇帝となったものの、世論の激しい反発を買い、失意のうちに没した。その後、後継争いが発生し、<支那>は軍閥割拠の時代に突入するが、自軍強化のために盛んに日本から借款を導入した。その代表例が段祺瑞・曹汝霖と寺内正毅・西原亀三の間で取り決められた西原借款である。見返りは<支那>における様々な利権であった。1918年5月には「日支共同防敵軍事協定」が結ばれ、日本軍の<支那>国内における行動を無制限とし、また<支那>軍を日本軍の下位におくこととした。これら軍閥と日本との癒着は、<支那>民衆の激しい反発を呼び起こし、抗日感情を非常に高める結果となった。
 文化的な背景として、まず新文化運動・白話文運動を挙げることができる。これらの運動は1910年代に起こってきた啓蒙運動で、陳独秀・李大釗・呉虞・胡適・魯迅・周作人などが運動のオピニオンリーダーであった。彼等は『新青年』や『毎週評論』といった雑誌を創刊し、それによって新思想を鼓吹した。すなわち全面的な西欧化や儒教批判、科学や民主の重視、文字及び文学改革などがその内容である。この運動を経た後だったからこそ、五四運動は抗日感情が高まっていながら、義和団の乱のような剥き出しの暴力性・宗教性をその性格としなかったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%9B%9B%E9%81%8B%E5%8B%95

 中国の潮流を変え、中国共産党を誕生させるきっかけとなったこの大きなうねりを逃し、おめおめと長沙に戻ったのはなぜか。・・・
 これは中国の最高学府への抵抗であって、ここにこそ毛沢東の決意の深さ、激しい劣等感がもたらすジャンプ力を、よりいっそう高めるもくろみがあったのではないかと思うのである。
 だからこそ、あえて小学校を選んでやった。」・・・

⇒毛沢東を矮小化しようという魂胆があるためにこんな下世話な推測を遠藤はしてしまっているのです。(太田)」(コラム#14808) 

「毛沢東は、<1917年にその講演を聞いた>滔天が(現在の)早大でも学んだこと、日本留学経験がある楊昌済から、大隈重信が創立者であることを含め早大のことを聞いていたこと、また、その後自分が北京で出会った識者達の多くに早大留学経験があること(コラム#14778)、そして、その識者達や彼らに薫陶を受けた北京大生達が、大隈重信内閣の対華21カ条要求等に憤激して五・四運動を起こそうとしていることから、かつまた、維新直後、大隈の明治新政府内における教導者が大久保利道であったことからも、自力で、当時の日本の指導者達の中で、「支那を辱めよ」的な戦略が共有されていることに気付き、かかる日本の戦略に踊らされようとしている、当時の支那の識者/インテリ達の愚かさに気付いたことから、毛は、自分こそがこれら日本の指導層が出現を期待していた支那人であるとの自覚の下、これら愚かな支那の識者/インテリ層を含む、愚かな支那人民を誑かす形で自分の下に結集させ、ボトムアップの形で地方から新しい支那を建設を目指すことで、日本の指導層の期待に応えようとの決意の下、あえて、五・四運動直前に、首都の北京から郷里に帰った、と、私は見るに至っている。」(コラム#14810)

 ↑↑そんな毛からすれば、さしずめ、汪兆銘はある程度認めるけれど、孫文はバカ、蒋介石に至っては大バカ、でしかなかったことだろう。
 (毛の孫文評をネット上で見つけることができなかったが、それこそが、彼の孫文評価・・論評に値せず、無理やり論評しようとすれば、すぐにバレるウソをつかざるを得ない!・・を如実に物語っている。)↓↓

 「孫文(1866~1925年)は、1878~1883年までハワイで、それから香港で医学をまなび、マカオで医師として開業し、1894年11月にハワイで興中会を組織し、1895年に広州蜂起に失敗し日本に亡命し1903年頃まで滞在こそしたことがあるものの、人間形成は欧米環境下になされた人物であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%96%87
同じことが、・・・サンフランシスコで、客家の銀行員の家庭に生まれ<、>1893年(光緒19年)に母を伴って帰国し、1896年(光緒23年)には香港に赴いて英語を習得した・・・廖仲愷についても言えるところ、当時の欧米は侮日/反日であったことから、2人とも反日・・・になったのに対し、汪兆銘(1883~1944年)も毛沢東(1893~1976年)も、支那で人間形成をし・・当然、儒学を身につけ、仁=ほぼ人間主義、への傾倒がある・・、汪は日本留学により、毛は独学で、日本大好き人間になった親日家であって、どちらも明治維新や日露戦争での日本の勝利に熱狂した、というわけで、<この2人が>肝胆相照らす間柄になったのは当然でしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98 ←汪兆銘 
 なお、汪兆銘のように支那で人間形成をした上で日本留学をした者達の大部分が汪とは違って反日になったのは、要は、秀才バカが多く、島津斉彬コンセンサス信奉者達の「支那を辱めよ」戦略にまんまと乗せられてしまったためである、と、我々は理解すればいいでしょう。」(コラム#14814)

 ところで、「支那で人間形成を行い、日本に留学した・・・蒋介石(1887~1975年)・・・が、親日ではなく反日人間になった理由は、極めて特殊なものだ。
 まず、蒋の邦語ウィキペディアから、彼が、通常教育を1年間受けただけで、後は軍人としての教育しか受けていないことが分かる。↓↓

「1887年、浙江省寧波府奉化県(現:寧波市奉化区)渓口鎮に生まれる。・・・1904年、奉化の鳳麓学堂や寧波の箭金学堂で学ぶ(1904年 – 1905年)。1906年、保定陸軍軍官学校で軍事教育を受ける。1907年、日本に留学(東京振武学校)する。1909年、大日本帝国陸軍に勤務。高田の陸軍十三師団の野砲兵第19連隊の士官候補生( – 1911年)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A3%E4%BB%8B%E7%9F%B3

 その背景事情は、蒋の英語ウィキペディアを読むと明らかになる。↓

 <Chiang> was an orphan boy in a poor family. Deprived of any protection after the death of <his father>・・・・・・
 Chiang decided to pursue a military career. ・・・
https://en.wikipedia.org/wiki/Chiang_Kai-shek

 ここから言えるのは、蒋介石は、支那で人間形成を行ったことは確かだが、漢人(支那人)としての教育は受けていないに等しい、ということだ。
 彼が、最も早ければ、実に8歳の時に、軍人になる決意を抱いたのがその証拠だ。
 考えても見よ。
 支那には、軍人を蔑む確固たる伝統があった。
 例えば、支那には、「好鉄不打釘、好人不当兵(釘にするのは屑鉄、兵隊になるのは人間のクズ)」という諺があった
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2013/01/post-934b.html
ところ、その淵源は、「兵(軍隊)は不吉なものであり、よって徳と分別があるものはこれに近寄らない。君子は左の席を上座とするのに、軍隊では右を上座とする。兵(軍隊)は不吉なものであり、君子のような高尚な人が取り扱うものではない。やむを得ず使う場合はできるだけあっさりと最小にとどめることが肝要である。
 また戦で勝ってもそれを美談としてはいけない。勝利を良いことだと思う人間は人殺しを楽しむ人間の類である。人を殺すことを愉しむ輩には天下を取る志を持っているはずがない。通常、縁起のいいことでは左を上座にし、不幸事では右を上座とする。
 軍隊では大将が右に座り、副将が左に座る。つまりこれは葬式の作法に則った行いである。
 戦いでは勝利しても多くの人を殺すことになるので悲哀を以てこれを泣き、戦に勝っても葬儀の作法でこれに報いる必要がある。」(『老子』第三十一章より)
https://hanagakibugaku.com/?p=3580
と、実に『老子』等に遡るのであって、支那では「武官、武人<の>統率は文民官僚を用いて行<い>、文民が武人の上に立つという」という伝統が確立しており、「宋朝<に至って>は、一般の労役に耐えないような人を軍籍に置くことで、彼らに生活の場を与え、治安を維持するという社会福祉政策として軍が使われてい・・・た」という有り様だった。(上掲)
 蒋は、貧しい家庭に生まれ、なおかつ8歳の時に父を亡くすという悲惨な境遇の下、周り中にいる阿Q達による詐取やゆすりたかりに対抗するためには、自らが弥生性を身につけなければならないと考え、非漢人(支那人)的であるところの、軍人、への道を選んだわけだ。
 だから、蒋介石は、仁や日本文明の人間主義性になど全く関心を持たず、弥生性の観点だけから日本(やもちろんその他の諸国)を評価したものだから、悔日の孫文が日本の支那への介入を跳ね返そうとしたことに、他の反日の人々と同じく(思慮不足の)理由で賛同しつつも、その手段として孫文のように(接壌国なので危険な)ソ連の軍事力に頼るのではなく、より軍事力が強そうでしかも遠国のドイツに頼り、次いでそのドイツを切り捨て、最終的に最も軍事力が強いと同時に<フィリピンを手放す兆候を見せていたこともあるところの、>やはり遠国の米国に頼った、というのが私の理解だ。」(コラム#14816)
 「「1926年7月1日、蔣介石は、孫文の跡を継いで軍閥・北京政府撲滅を目指すとして「北伐宣言」を発表し・・・<いわゆる>第三次北伐<が始まった。>・・・
 1927年・・・3月24日、南京に入城した蔣介石北伐軍の一部が反帝国主義を叫びながら外国領事館や居留地で暴行陵辱を行った (南京事件)。米英軍は艦砲射撃を開始し、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。幣原外交の日本は領事館を襲撃され、死者も出たが、自重し、イギリスと蔣介石の説得工作をおこなった。蔣介石は事態解決および過激派の粛清を行うと日本に伝えた。

⇒なすすべもなく、米国の圧力に屈する形で1923年に日英同盟が失効させられ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F
かつまた、米国によって1924年に日本の面子を踏みにじる(いわゆる)排日移民法が施行された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95
ことから、弥生人たる蒋介石は、日本が自国よりもより経済力/軍事力で上回る米国にすくみ上って<借りてきた猫を演じて>いる、と見るに至ったと考えられる。(太田)

 1927年4月12日、南京の国民革命軍総指令・蔣介石は、上海に戒厳令を布告し、南京国民政府を組織、共産主義者とみなされた人々が粛清された。この上海クーデターに関し、日本の幣原外相らによる蔣介石への反共工作に対して蔣介石は日本側の期待に応えたとする見方もある。

⇒日本とは無関係に、単に、中国国民党内の蒋介石反対勢力の最たる容共勢力を一掃する一環として、党外の中国共産党勢力も壊滅させようとしただけだろう。(太田)

 その後、上海クーデターを巡る中国国民党の武漢派(武漢国民政府)と南京派(南京国民政府)の分立(寧漢分裂)、武漢国民政府の中国共産党との決別及び南京国民政府との合流、広州張黄事変の勃発と、中国国民党内が混乱状態に陥ったため、北伐は一時停滞をみせた。・・・

⇒こういう成り行きは、蒋介石としてもある程度織り込み済みだったことだろう。」(コラム#14822)

 ところで、長征が杉山元らのお膳立ての下で行われたことは、私見では明らかだ。↓↓

 「長征は、1934年7月に囮部隊を北方に派遣して壊滅させる犠牲をはらって、8月から西南方に主力を脱出させ始めて始まったもの(至1936年)ですが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%BE%81
これは、毛一派と杉山元らの間ですり合わせを行った上で、最初から、延安を毛一派の次の根拠地、しかも安全な根拠地、とすべく、国民党軍による妨害を出来る限り回避するために大迂回をしつつ、この延安を最終目的地として共産党軍を移動させたものであり、延安とソ連との間の兵站線が形の上で切れないようにするため、帝国陸軍は、内蒙古中、延安のある陝西省北方より手前までしか進出しないことが約束されていた、と、私は見ているわけです。(注28)

 (注28)満州国建国後の内蒙古東部における日本の傀儡政権たる蒙古軍政府の樹立。↓
 「1933年に日本軍は熱河省更には察哈爾省東部まで占領し、7月にはデムチュクドンロブ(徳王)ら内蒙古一帯の有力者が集まって国民政府に自治を要求。これに対し国民政府は蒙古地方自治政務委員会を設置し、ユンデン・ワンチュク(雲王)を委員長に据えたが実権は自治指導長官の何応欽が握っていて形式的なものに過ぎなかった。このためデムチュクドンロブは関東軍と連絡を取り内蒙古の独立へと動いたが、1936年に至り国民政府は蒙古地方自治政務委員会を察哈爾・綏遠の各蒙政委員会に分割し関東軍やデムチュクドンロブの動きを制限しようとした。これに対して2月にデムチュクドンロブは蒙古軍司令部を立ち上げ、5月12日には徳化に蒙古軍政府を樹立した。軍政府はモンゴル人によって構成されていたものの、村谷彦治郎首席顧問・山内源作軍事顧問など関東軍から派遣された日本人顧問が内面指導していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%BB%8D%E6%94%BF%E5%BA%9C
 日支戦争直前における関東軍の暴発阻止。↓
 「綏遠事件(すいえんじけん)は、1936年末、徳王麾下の内蒙軍、李守信や王英などの部隊が関東軍の後援をたのんで綏遠省に進出し、同省主席の傅作義軍に撃退された事件。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%8F%E9%81%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 関東軍東條参謀長直轄チャハル作戦における寸止め侵攻。↓
 「チャハル作戦(ちゃはるさくせん)とは、1937年(昭和12年)8月9日から10月17日にかけて行われた察哈爾省・綏遠省(現在の内モンゴル自治区)における日本軍の作戦である。」
https://ja.wikid.org/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%8F%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6#gsc.tab=0

 ちなみに、チャハル作戦の後、「蒙疆地区には、蒙古聯盟自治政府の他に察南自治政府・晋北自治政府が設立されたが、利害関係を調整して活動の円滑化を図るため、1937年11月22日、3自治政府によって蒙疆聯合委員会が設立された。しかしこの委員会が十分に機能しなかったため、3自治政府を統合して蒙古聯合自治政府を樹立することとなり、・・・10月28日、・・・蒙古聯盟自治政府は新政府に合併されて消滅した<ところ、支那>の日本軍占領地区では<支那>人の阿片生産は禁止されるとともに阿片は日本軍の専売商品とされたが、この蒙古聯盟自治政府地域で日本軍指導により大規模に阿片農場が開発され、そこで栽培された阿片が満州国以外の<支那>地域で販売されて」おり、
https://ja.wikid.org/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%81%AF%E7%9B%9F%E8%87%AA%E6%B2%BB%E6%94%BF%E5%BA%9C
この収益の一部が延安に流されていた、と、私は見ています。」(コラム#14828)
 また、「・・・<第二次国共合作成立後、>蒋介石は元紅軍の3個軍6師団及び5個補充団に対して、国軍(国民党軍)と同じ待遇の軍費を支給していたが、<毛は、>その軍費は抗日戦争には使わず、ほとんど<を>・・・宣伝費に使<っ>てい・・・た。・・・
 おまけにたとえば山西省からは・・・総計、銀円に換算して1億円以上を奪っていった・・・。」(コラム#14834)
 「1939年、毛沢東は潘漢年という中共スパイを上海にある日本諜報機関「岩井公館」に潜り込ませ、外務省の岩井英一と懇意にさせた。」(コラム#14798)
 「潘漢年ら<は>(情報提供料として)岩井公館から月に1回2000香港元(当時の警察官の約5年間分の給料に相当)をもらっていた<。>」(コラム#14800)

 ↑↑杉山元らが潘漢年に支払っていたのは、毛らに支払っていたもののうちのほんの一部であって、毛/周の杉山元らとの連絡調整のための費用だったのだろうが、毛らに蒋介石からもカネを受け取るという策を毛らに教えたのも、(西安事件を企画したのが杉山元らであった可能性が高いところ、そうであったとすれば、なおさらだが、)杉山元らであった可能性がある。
 毛/周と杉山元らの連絡調整の場については、以下の通りだ。↓↓

 「毛/周と杉山元らの連絡調整活動のフロント兼受付としての岩井公館には、興建運動本部・・陸軍の影佐禎明の要請に基づき、1939年上海に組織された・・としての積極的役割もあった、と、言えそうだ。
 つまり、興建運動は、毛/周が、政権奪取後の国家体制を構築することに資するアイディア群を、日本人の知恵も借りて模索する場として設けられた、と、見るわけだ。」(コラム#14842(予定))
「梅機関は当初は影佐機関として<1939年>6月の汪の訪日前後に発足し、8月以降、梅機関と呼ばれるようになった」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=b2c46040646d26c32e424a84f7ad6ab6db0f8cff89171f1c447d29e8593f5a04JmltdHM9MTc0MTQ3ODQwMA&ptn=3&ver=2&hsh=4&fclid=0eccea61-2d16-6d95-2376-ffc92cfc6c6f&psq=%e6%a2%85%e6%a9%9f%e9%96%a2&u=a1aHR0cHM6Ly9zcGMuanN0LmdvLmpwL2NhZC9saXRlcmF0dXJlcy9kb3dubG9hZC8xMzE4MQ&ntb=1
・・・岩井公館<も>・・・梅機関も汪兆銘政権樹立に伴い解散するが、梅機関にいた陸海軍武官らは、・・・汪兆銘政権の軍事委員会の軍事顧問となる・・・。

⇒梅機関は日本政府の公的資金で、岩井公館は外務省の公的資金で、運営されていたところ、この頃までには、「連絡調整の場」に帝国陸軍のアヘン収入からの資金とその送金ルートが確保できたことから、<公的資金を流用する必要がなくなり、>フロント/受付、としての梅機関と岩井公館は、どちらも<、その点では>用済みになった、ということでしょうね。
 <梅機関の方は、あくまでも「その点でも」ですが・・。>」(コラム#14844(予定))

 毛がいかにホンネで語る人間であるか、そして、毛を理解しようとしないと、毛が語ったホンネをどんな風に曲解してしまうかについて、もう一例あげておこう。↓↓

「王明<(コラム#10243)>は1956年に病気治療を口実にしてモスクワに行ってしまい、二度と中国には戻らなかった。・・・
 生前、毛沢東との口論を含めた手記を残している。・・・
 <この>ロシア語<で作成された>・・・手記が出版されたのは・・・1975年で、・・・タイトルは『中国共産党50年と毛沢東の裏切り行為』<であったところ、それを>・・・『中共50年』と変えて、2004年に中国語に翻訳されたものが北京で出版された。・・・
 内部出版として、一部の党員が閲覧するのみに限られていたが、・・・多くの中国人が読むところとなった。・・・
 <それによれば、>1940年10月2日の真夜中に、翌日(3日)発刊の中共中央機関紙「新中華報」の最終校閲版を、その編集担当者が王明のところに持ってきた。
 そこには「毒(ドイツ)・意(=伊=イタリア)・日・蘇(ソ連)の聯盟を論じる」という大見出しがあった(カッコ内の注釈は筆写。以下は日本人の目になじんでいる「独伊日ソ」を用いる。)
 「この文章は誰が書いたのか?」と王明は編集員に尋ねた。
 すると編集員はつぎのように答えたという〔以下、()内は筆写中〕。
 毛沢東同志です。実は本日の午後、新聞社と中央宣伝部の何名かの同志との会議がありました。
 会議で毛沢東は「国際舞台においては必ず”独伊日ソ”聯盟路線を貫かなければならない。国内においては日本と汪精衛(=汪兆銘)との統一戦線をこそ建立しなければならない」と宣言しました。
 会議ではまた、毛沢東はすでに『独伊日ソ聯盟を論ず』という社説を書いて終わったと宣言し、つぎの〈新中華報〉に載せることになっていると言いました。こんな大きな問題なのに、政治局の同志たちとの話し合いはなされていなかったのですか?
 「わかった! よし、それなら私が毛沢東と直接話をする」
 王明はそう言うなり、毛沢東に会いに行った。
 毛沢東はこういう会議を開いたことを認めた。
 その上で、王明と毛沢東の口論が始まる。
 以下はその実録である。
毛沢東:スターリンとディミトロフは、英米仏ソが独伊日に対する反ファシスト統一戦線を組むべきだと建議している。しかし事態の発展は、この建議はまちがっていることを証明している。やるべきは英米仏ソ聯盟ではなく、独伊日ソ聯盟だ。
王明:なぜ?
毛沢東:独伊日はみな貧農だ。彼らと戦って、なんの得があるっていうのかね? われわれが勝利しても大した利益は得られない。英米仏は富豪だ。特に、英国、あの国はどれだけ巨大な植民地を持っていると思うんだい? もし英国を打ち破ることができたら、その植民地の中から莫大な収穫を得ることができる。私がこのように言えば、君は私を親ファシスト路線の人間だと言うつもりだろ? 違うかね? そんなこと言われても、私はこわくないんだよ! 少なくとも中国は、日本人や汪精衛と統一戦線を組んで蒋介石に反対しなければならないんであって、決して君が建議するところの抗日民族統一戦線なんて、やるべきじゃない。だから、君はまちがっている。」・・・

⇒ここまでの、当時の毛沢東の対王明言明に関しては、前に(コラム#10293で)解説したように、(「新中華報」のこの版が日本政府に伝わることを企図しての、)杉山元らの依頼に基づくものであった、と見るべきであるわけです。」(コラム#14846(予定))

 「
王明:私のどこがまちがっているって言うんだい?
毛沢東:どっちみち、われわれは日本人に勝てやしないんだよ。なのに、なんで日本人と戦ったりなどするんだい? 一番いいのは日本および汪政権と組んで蒋介石を打倒することだ(筆者注:この部分の中国語は「最好是聯日聯汪打蒋介石」。・・・)考えてみろよ、蒋介石は西南と西北に、あれだけ広大な地盤を残しているんだよ。もし蒋介石を打倒することができたら、われわれは西北のあの広大な勢力範囲をわがものとすることができる。そうなりゃ、大きな暴利をわれわれは手にすることができる。わかってるよ、君は私が民族を売り渡す親日路線を執行しようとしていると言いたいんだろ? 私は怖くない。私は民族の裏切り者となることなど、少しも怖くはないんだよ、わかったか!
王明:こんな重要な国際的および国内問題を、あなた一人で決定を出すなどという、いかなる権利も、あなたにはない。私とあなたの議論もまた、これによって何かを決議するということはできない。党の正常な方法で、この問題を解決すべきだ。いますぐあなたの意見をスターリンおよびディミトロフ<(注29)>に打電して報告し、中央政治局会議で討論してから決めるべきだ。

 (注29)ゲオルギ・ディミトロフ(Georgi Dimitrov Mihaylov。1882~1949年)。「ブルガリア公国<に生まれ、>・・・1902年、ブルガリア労働者社会民主党に入党、同党の分裂後、同党左派(のち共産党)に加わり、中央委員、・・・亡命中、・・・1935年、コミンテルン書記長となる(43年まで)。1935年、コミンテルン第7回大会で反ファシズム統一戦線戦術を提起し、採択された。しかしその後、独ソ不可侵条約締結により、スターリンの指示で反ファシズム統一戦線戦術は棚上げされた。
 1945年、第二次世界大戦終結後、1946年11月26日にブルガリアに帰国し首相に就任。しかし1949年、療養先のモスクワ近郊で死去した。
 遺体は保存処理され、ソフィアのディミトロフ廟に埋葬されたが、1990年にブルガリア共産党の下野に伴いソフィアの中央墓地に埋葬され、廟も1999年に撤去された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95

毛沢東:いまは打電することはできない。そんな電報を出したら、尊敬を受けているあの2人のご老人たち・・・を怒らせてしまう。これは冗談じゃないんだ。ついでに言っておくが、この問題をすぐさま政治局会議にかけることにも、私は同意できない。
王明:なぜだ?
毛沢東:まだ機が熟してないからだよ。」・・・

⇒毛沢東は、杉山元らの依頼を受けて、自分が執筆した無署名記事を党機関紙に掲載して観測気球を上げようとしているのに対し、王明は、毛がスターリンの事前の許可をもらわず、しかも、党の意思決定機関に諮らずにそれを行おうとしていることを詰っているわけです。
 政治家的な毛沢東が(日本への)民族の裏切り者だとすれば、官僚的な王明だって(コミンテルン/ソ連への)民族の裏切り者、ということになるであろうところ、この口論は全くかみ合っていません。
 なお、毛が言明したところの、「われわれは日本人に勝てやしない」は、「日本人は負けることはない」ではないことに注意が必要です。
 というのも、この先の話ですが、「汪<兆銘>は日本の国力では英米・・・に対抗できないとの判断から<対英米>開戦には反対だった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98
ところ、汪の「親友」の毛も、開戦には賛成であったものの、日本は負ける、と、考えていたに違いないからです。
 ちなみに、「3月には延安に拠点のあった中国共産党が汪兆銘政権と合作すべく秘密裏に接触している<が、>これは、毛沢東の指示のもと劉少奇が共産党員の馮竜を使者に任じ、上海において周仏海に面会させたものであった。この合作は実現しなかったが、馮竜の叔父の邵式軍が中央儲備銀行の監事だったところから周仏海と親しい一方、日中戦争の際には共産党にひそかにつながっており、共産党に資金を流していたところから、この面会は邵式軍が手配したものとみられる」(上掲)ところです。
 (1944年に名古屋で死の床についていた汪兆銘への最後の見舞客は宮崎滔天の子息の宮崎龍介であり(上掲)、宮崎兄弟の思いに最も応えた支那人が汪(、そして毛)だったことが推測できようというものです。)
 要するに、毛は、日本(の杉山元ら)、及び、汪、と連携していて<(注30)>、ここでは、杉山元らの依頼に応えた記事を「新中華報」に載せることとした上で、王明に対して、自分の真意をほぼ包み隠さず話した、というわけであり、ここで遠藤が毛を不快に思うのは、彼女もまた、戦後思潮に染まってしまっていて、当時の、日支戦争を熱烈に支持した大部分の日本国民、及び、その後の対米英戦を、(負けることを百も承知の上で始めた)帝国陸軍の指導層、や、(勝つか引き分けにもっていけると信じて沸き立った)大部分の日本国民、のいずれも無知蒙昧視していて、当然ながら、日本が先の大戦で勝利を収めたなどとは露ほども思っておらず、帝国陸軍に嫌悪感を抱いてしまっていて、彼女の目を曇らせているからなのです。」(コラム#14848(予定))

 (注30)この3者の連携の精華が、例えば、終戦後に、中国共産党によって設立された東北民主連軍航空学校・・教官陣はほぼ全員日本人で、スタッフに汪兆銘政権歴の者が4人!・・だ。↓
 「1945年10月、林弥一郎少佐は瀋陽の東北人民自治軍総部で林彪、彭真、伍修権から八路軍空軍設立を要求され、隊員の生活保障を条件として空軍設立に協力することを受け入れた。1946年1月1日に航空総隊が設立され、2月3日の通化事件では、林少佐や中華民国政府に協力しようとした飛行隊員は逮捕され、航空技術を持たないものは炭鉱送りとされた。2月5日、常乾坤に引率された航空幹部10名が通化に到着。3月1日、通化中学敷地内に東北民主連軍航空学校として正式に開校した。
 東北民主連軍総司令部および総政治部より任命された開校時点の教員は以下の通り。
校長:朱瑞
政治委員:呉漑之
副校長:常乾坤(広東航校2期、ソ連空軍勤務)、白起(本名白景豊、元汪兆銘政権航空局主任)
政治委員:黄乃一、願磊
政治部主任:白平
参議兼飛行主任教官:林保毅(林弥一郎)
訓練処処長:何健生(広東空軍出身、元汪兆銘空軍参賛)
教育長:蔡雲翔(本名周世仁、空軍官校10期、元汪兆銘空軍飛行教官、1946年6月事故死)
副教育長:蒋天然
校務処長:李連富
学生大隊長:劉風
政治委員:陳乃康
飛行科長:吉翔(元汪兆銘空軍飛行教官、1946年6月事故死)
修理廠長:陳静山
他教官:黒田正義、平忠雄、綱川正夫、長谷川正、佐藤靖夫、筒井重雄、新海寛、中西隆、御前喜九三、川村孝一、西亜夫
 東北民主連軍航空学校では練習機として一式戦闘機、四式戦闘機、九九式高等練習機、P-51、零戦三二型などを使用していた。日本人に対する人事や指導は日本人八路軍人の杉本一夫が行った。
 4月、牡丹江市に移転。5月、校長が常乾坤に、副校長が王弼になる。
 同月、劉風、王璉ら12名で飛行教官訓練班が組まれ、日本人教官、蔡雲翔、吉飛(吉翔)から訓練を受ける。1940年以後、延安は飛行技術を維持できる環境でなかったため、劉風、呉愷、魏堅、王璉、張成中、謝挺揚、許景煌、欧陽翼の8名は6年以上操縦しておらず、飛行技術は鈍っていた。のち1947年頭までに事故などで3名が離任し、代わって14名が新疆から編入される。1946年6月に吉翔、その1年後に蔡雲翔が事故で死亡すると、飛行教官は全員日本人となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E6%B0%91%E4%B8%BB%E9%80%A3%E8%BB%8D%E8%88%AA%E7%A9%BA%E5%AD%A6%E6%A0%A1

◎習近平家

 中共が支那の政権を取った時からの中共史は、毛沢東→(繋ぎとしての鄧小平→)習近平家、という流れで捉えられるべきであって、例えば、江沢民や胡錦涛のごときはほぼ無視して差し支えない、というのが私見だ。
 江沢民の方について、そのことを確認しておこう。↓↓

 「潘漢年が上海でスパイ活動に走りまわっていたころ、中共の特務機関の事務所(地下組織)の一つが香港にあった。
 そこには毛沢東の命令を受けた中共側の廖承志<(注31)>と潘漢年らが勤務しており、駐香港日本領事館にいた外務省の小泉清一<(注32)>(特務工作)と協力して、ある意味での「中共・日本軍協力諜報組織」のようなものが出来上がっていた。・・・

 (注31)1908~1983年。「中国国民党の幹部であり孫文の盟友で片腕だったあった父の廖仲愷と、同じく中国国民党の幹部であり後に中国国民党革命委員会中央執行委常務委員となった母の何香凝の間に東京の大久保で生まれた。・・・
 暁星小学校に入学し、・・・1919年に帰国し嶺南大学(現・中山大学)に入学。[要出典]1925年に父が暗殺されると、再来日して早稲田大学附属第一高等学院で学んだ。1928年、済南事件をきっかけに帰国、中国共産党に入党。1928年から1932年の間に渡欧してヨーロッパの<支那>人船員のオルグ工作を担当した。1930年には、モスクワ中山大学に学ぶ。そこでのちに中華民国総統になる蔣経国と机をならべた。
 1932年に帰国し中華全国総工会宣伝部部長に就任。一時逮捕されたり反革命の嫌疑で党籍を剥奪される時期もあったが、党の宣伝関係などの要職を歴任。1937年より香港において抗日戦争を戦う華僑の組織化の責任者となる。
 1942年に国民党政府に逮捕され1946年まで入獄。1946年に米国の仲介で成立した国共両党間の捕虜交換により出獄し、1949年の中華人民共和国建国まで、新華社社長、党南方局委員、党宣伝部副部長などを歴任。建国後は政府の華僑事務委員会副主任、党中央統一戦線工作部主任など対外工作の要職に就いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%96%E6%89%BF%E5%BF%97
 (注32)不詳。遠藤が典拠をしばしば手抜くのは困ったことだ。

 江沢民の父親は日本が指揮する汪兆銘傀儡政権の宣伝部副部長であった。
 その出自がばれそうになったので、江沢民は愛国主義教育を反日教育の方に傾けていき、自分がいかに反日であるかを中国人民に見せようとした。・・・

⇒江沢民が中共中央委総書記/中共軍事委主席になったのは1989年であるのに対し、例えば、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館が開館したのは1985年、中国人民抗日戦争紀念館が開館したのは1987年であり、鄧小平(~1997年)が中共の実質的な最高権力者であった時で、これらの開館は、当然、彼の指示に基づくものでした。
 江沢民はこの鄧の方針を踏襲しただけであり、このくだりの遠藤の筆致は、<そもそも、毛沢東と汪兆銘が敵対していたわけではないことを持ち出すまでもなく、>江沢民にへの中傷に等しいと私は思います。(太田)

 実は毛沢東は生きている間、ただの一度も「抗日戦争勝利記念日」を祝ったことがない。
 それを祝うことは蒋介石を讃えることになると明確に認識していた。
 抗日戦争勝利記念日を全国レベルで祝い始めたのは、やはり江沢民だ。
 1995年9月3日に「世界反ファシズム戦争勝利記念日」と併せて祝ったのが最初である。」・・・

⇒鄧小平が最後に公に姿を現したのは1993年10月末ですが、1996年12月に人民解放軍の病院に入院し、翌年2月に逝去する
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%82%93%E5%B0%8F%E5%B9%B3
までの間にも、重要国策が彼の承認なくして行われ得たとは私は思わないのであって、これも、江沢民ではなく、鄧小平が決裁して行われた、と見ていいでしょう。」(コラム#14802)

 そこで本論だが、習近平ならぬ習近平「家」を私が持ち出したのは一体どうしてか?
 話は、王明の例の本の漢語訳出版、と、習近平の父親の改葬、から始めなければならない。↓↓

 「<そもそも、>どうして、<前述したところの、>王明の『中国共産党50年と毛沢東の裏切り行為』の漢語訳が2004年に中共で事実上の公刊がなされたのでしょうか。
 2004年というのは、胡錦涛が、中国共産党中央委員会総書記になった2002年の2年後の年であり、彼が、同党中央軍事委員会主席、つまりは、中共の事実上の最高権力者になった年であって、習近平が、国家副主席2名中の1名になった2003年の翌年であり、軍事委副主席3名中の1名になった年でもあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E9%8C%A6%E6%BF%A4
 私は、2002年に亡くなった(習近平の父親の)習仲勲が謎を解く鍵だと思うに至っています。
 この習仲勲が遺言で、この本の翻訳を事実上公刊することを、この時点で胡錦涛の次に中共の最高指導者になることが既にほぼ決まっていたところの、息子の習近平に命じた、と。
 そして、習仲勲は、この死の後5年経った2007年時点で、あたかも、皇帝であったかのような陵墓が故郷に造られ、そこに埋葬されます。

 「2002年5月24日、北京で病死。八宝山革命公墓に埋葬された。2007年、出身地の陝西省富平県に当時陝西省党書記だった趙楽際<(注33)>によって改葬のための古代の皇帝陵並みの巨大な陵墓が建設された。

 (注33)趙楽際(ちょうらくさい。1957年~)は、本籍は陝西西安で、父母が辺境地支援の幹部として働く青海省西寧市で生まれる。北京大学哲学系卒で、陝西省党委員会書記を務めたことがある。政治局常務委員兼中央規律検査委員会書記を経て、全人代常務委員長。[現在、中共で政治局常務委員会で、全委員7名中、総理の李強に続く第3位だ。]
 ちなみに、習仲勲の故郷は陝西省の富平県だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E6%A5%BD%E9%9A%9B 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%B1%80%E5%B8%B8%E5%8B%99%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A ([]内)

 この墓には記念館が併設され、面積は約7千平方メートル。専用道路と駐車場を含めると2万平方メートルを超えるという。・・・
 ウイグル人などの少数民族に融和的で理解がある人物だったとされ、チベットのダライ・ラマ14世と親交が深く、腕時計を贈られた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E4%BB%B2%E5%8B%B2

 これは、宋の初代の太祖趙匡胤とその弟で二代目の太宗の父の趙弘殷が、亡くなった956年に、後周の首都の汴京<(べんけい)>・・現在の開封・・郊外に埋葬されるも、960年に後周の最後の皇帝たる少年から趙匡胤が禅譲を受けた形で宋を建国する
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E5%8C%A1%E8%83%A4 >
と963年に(出身地と目される)河南省の農村地帯に造られた陵墓に改葬された
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B%E6%B0%B8%E5%AE%89%E9%99%B5
ことを思い起こさせます。
 その伝で行くと、毛沢東を、趙弘殷・趙匡胤親子が支えたところの、唐滅亡後の乱世であったところの、五代、随一の名君たる後周の世宗柴栄(さいえい)・・もう一歩で支那再統一を果たすところまで行った・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E6%A0%84
に準えたくなってきます。
 実際、そういうことだったのではないか、2004年までに、習近平と趙楽際が、共同で胡錦涛を説得し、中共の国家主席を、支那の皇帝ならぬ、日本の天皇的な権威を担う象徴的ポスト、へと変貌させた上で、習近平を、この新国家主席の初代とし、その妻ないし子を通じて、彼の子孫代々に皇帝位を継がせていく体制を近い将来に構築することによって、初めて、中国共産党の事実上の一党独裁が解消された暁においても、中国共産党的(毛沢東的)体制を支那において未来永劫維持していくための必要条件が満たされること、と、そのために、直ちにそのための布石を打っていく必要があること、というラインで合意が成立したのではないか、と、私は考えるに至っているのです。」(コラム#14850(予定))
 「しかし、仮にそうだとして、習近平らは、どうして、最初に、王明の『中国共産党50年と毛沢東の裏切り行為』の漢語訳について、2004年に中共で事実上の公刊を行ったのでしょうか。
 それは、習仲勲から事実上始まる新王朝から、毛沢東は畏敬され続けても切り離された存在になることを踏まえれば、毛沢東の実像を逐次開示して行くことによって、突然開示された時の内外への衝撃を緩和しつつ、それでも大きな衝撃が生じた場合は、その限りにおいて毛沢東を批判する公式見解・・例えば、毛の「功績第一、誤り第二」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1 前掲
の誤りの中に帝国陸軍との連携を追加するウルトラCの公式見解!・・を出すなり、禁書指定をするなりすることが可能である、と考えたからなのではないでしょうか。
 本件に関して言えば、中共内での衝撃は殆ど生じなかったことに安堵しつつも、中共外では、例えば日本において、帝国陸軍悪者論、従ってまた、毛沢東悪者論が一切変わらないまま推移していることに、私は、当時の習らはもちろんのこと、現在では中共当局そのもの、は、落胆している、と、見ている次第です。(太田)」(コラム#14852(予定))


[習仲勲について]

 1913~2002年。陝西省富平県出身。「旧メンバーからの入れ替わりの、八大元老<(注34)>の一人で中国共産党の第7期中央候補委員、第8期中央委員、第12期中央政治局委員などを歴任。・・・

 (注34)「1982年に設立された中央顧問委員会に属しながら表向きは引退した古参幹部8人が、党の最高指導部である中央政治局常務委員会(1987年11月時点での常務委員は、趙紫陽・李鵬・喬石・胡啓立・姚依林の5人)を凌ぐ権威を持っており、重要な決定は八大元老に委ねられることもあった。・・・
 八大元老は全員が革命第一世代指導者でありながら文化大革命において走資派と見做されたために不遇を味わい、それを乗り越えたことが共通点にある。・・・
 1992年に中国共産党中央顧問委員会が廃止され、1997年に中国の最高実力者である鄧小平が死去すると、中国の長老の影響力は低下したとされる。」
 成員は、鄧小平、陳雲、彭真、楊尚昆、薄一波、李先年、王震、鄧穎超(周恩来の寡婦)。後に李先念・王震・鄧穎超と入れ替わる形で、宋任窮、万里、習仲勲。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%A4%A7%E5%85%83%E8%80%81

 1928年中国共産党入党。日中戦争期間中は陝西省、甘粛省など中国西北部で高崗らとともに革命根拠地を作り、陝甘辺ソビエト政府主席や西北野戦軍副政治委員を務めるなど、長期にわたり西北部の党、政、軍の工作の中心人物とな・・・った。・・・
 中国で散逸し、1990年代に日本の皇室関係者経由で写本を手に入れた群書治要の研究を命じて後に刊行される『群書治要考訳』の題字を揮毫しており、2015年に新年の辞を述べた習近平の執務室の書棚に映って注目された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E4%BB%B2%E5%8B%B2 <前掲>

 ここで強調しておきたいのは、一、習仲勲が自分の故郷を中国共産党の根拠地の一つに仕立て上げていたことが、毛沢東に長征というオプションを与え、同党が生き延びることを可能にしたこと、二、恐らく、長征の頃までに杉山元らからコンタクトがあり、毛沢東や周恩来が密かに杉山元らに通じていること、毛らが長征でこの地にやってくるであろうこと、毛らは反ソ(露)だが、ソ連(ロシア)による毛らの支援が絶たれないよう配意すべきこと、を示唆され、爾後、この示唆を踏まえた言動に務めたであろうこと、であり、また、こういったことを契機に、習仲勲が日本に対して好意を抱くようになったことであり、二に関しては、同じく陝西省出身で親ソ派の高崗(注35)を毛らから離反させないような立ち回りを続けたと想像され、おかげで、毛らは、先の大戦終戦後の国共内戦に勝利すると共に、その後、(中ソ関係悪化までの間に)ソ連から核兵器を含む技術支援を受けることを可能にしたことだ。
 
 (注35)こうこう(1905~1954年)。「1930年代の第一次国共内戦では中国西北部で習仲勲らとともに革命根拠地を建設するなどの活躍を見せた。1945年6月、第7期党中央委員会第1回全体会議(第7期1中全会)で中央政治局委員に選出される。第二次国共内戦が始まると、中国東北部(満州)で活動し、党中央東北局第一書記、東北人民政府主席、東北軍区司令員(司令官)兼政治委員を務め、東北部の党・政・軍を一手に掌握した。1948年には中華人民共和国の建国に先駆けて、「ソ連・東北人民政府貿易協定」を結ぶなど、独自の地方運営を行い、ヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦との関係を深めていった。・・・
 1953年1月より、高崗率いる国家計画委員会の主導で第一次五カ年計画が発動された。中央人民政府主席兼中国共産党中央委員会主席として中華人民共和国の最高指導者の地位にあった毛沢東は向ソ一辺倒を標榜し、8月には「過渡期の総路線」を提唱して段階的社会主義化を提示した。毛沢東の方針の下、ソ連との結びつきの強い高崗が中心となって、ソ連型社会主義をモデルに中華人民共和国の国家建設が進められた。・・・
 1954年2月、第7期4中全会が開かれた。この会議は毛沢東の提案によって劉少奇が主宰することになった。そして高崗と饒漱石は、この会議において朱徳・周恩来・鄧小平・陳雲らによって「反党分裂活動を起こした」と厳しく批判され、失脚に追い込まれた。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B4%97 」(コラム#14852)


[毛沢東らによる支那における縄文的弥生人と縄文人の創出努力]

一 毛沢東による縄文的弥生人の創出努力

 (一)教育

  ア 軍規教育

 「三大紀律八項注意とは、中国人民解放軍の軍規<だが、>・・・1928年、毛沢東により、中国工農紅軍の軍規として制定されたのが始まり。その時は「三大紀律六項注意」として定められており、
三大紀律:
行動聴指揮(指揮に従って行動せよ);
不拿群衆一個紅薯(民衆のものはサツマイモ1個でも盗るな);
一切繳獲要帰公(獲得した物も金も公のものにする)。
六項注意:
上門板(寝たあとは戸板を上げよ);
捆鋪草(寝ワラにした乾草は縛れ);
説話和気(話し方は丁寧に);
買売公平(売買はごまかしなく);
借東西要還(借りたものは返せ);
損壊東西要賠(壊したものは弁償しろ)。
であった。
 1929年から1930年にかけて二項が追加され、八項注意となった。・・・1947年10月、中国人民解放軍本部から次のように訓令された:
三大紀律:
一切行動聴指揮(一切、指揮に従って行動せよ);
不拿群衆一針一線(民衆の物は針1本、糸1筋も盗るな);
一切繳獲要帰公(獲得した物も金も公のものにする)。
八項注意:
説話和気(話し方は丁寧に);
買売公平(売買はごまかしなく);
借東西要還(借りたものは返せ);
損壊東西要賠(壊したものは弁償しろ);
不打人罵人(人を罵るな);
不損壊荘稼(民衆の家や畑を荒らすな);
不調戯婦女(婦女をからかうな);
不虐待俘虜(捕虜を虐待するな)。・・・
 1935年、第25軍の政治部秘書長程坦がこの軍規を歌にした。
< https://www.youtube.com/watch?v=ePfUiVtOmbY >
 メロディーは元々新建陸軍でプロイセン王国の行進曲を元に作られた「大帥練兵歌」に由来<する。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A4%A7%E7%B4%80%E5%BE%8B%E5%85%AB%E9%A0%85%E6%B3%A8%E6%84%8F

  イ 「向雷鋒同志学習(雷鋒同志に学ぼう)」運動

 雷鋒(らいほう。1940~1962年)は、「本名雷正興(らいせいこう)<で>、中国人民解放軍における模範兵士とされる人物のひとりである。・・・
 1963年3月5日に毛沢東によって、「向雷鋒同志学習(雷鋒同志に学ぼう)」運動が始められた。・・・
 その後も今日に至るまで政府のキャンペーンで何度も用いられており、3月5日は「雷鋒に学ぶ日」として学生たちが公園や街路の掃除、老人ホームを慰問するなどのボランティア活動の日となっている。また、雷鋒の出身地の長沙と殉職地の撫順では「雷鋒紀念館」が開設されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B7%E9%8B%92

 (二)一所懸命基盤の整備

  ア 瑞金時代における宮崎民蔵唱道の土地均分政策

 既述。

  イ 先の大戦時代における南泥湾精神の鼓吹

 先の大戦中は、(実は下述の自力更生政策の走りであったところの、)南泥湾<(注36)>精神を鼓吹し、「自力で荒地を交錯して食料を調達し」た。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8A%9B%E6%9B%B4%E7%94%9F

 (注36)歌曲の南泥湾
https://www.youtube.com/watch?v=iPF1tv86RuU
は、’originally・・・composed by the Chinese Communist Party to publicize the 359th Brigade of the 八路軍 to launch a large-scale production campaign in <北部山西省の>南泥湾(Nanniwan)<。>・・・This revolutionary song is widely sung in mainland China. ‘
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B3%A5%E7%81%A3_(%E6%AD%8C%E6%9B%B2) ←漢語を英語にGoogle翻訳

  ウ 先の大戦後の時代における山脇延吉唱道の自力更生政策

 「1930年(昭和5年)から翌1931年(昭和5年)にかけて昭和農業恐慌に見舞われた日本では、この対策として、兵庫県農会長山脇延吉<(注37)>が政府に意見書を提出して農村救済費の予算計上と農林省の経済更生部新設を要請した。

 (注37)のぶきち(1875~1941年)。五高、東大(土木)を父の急死により中退して家業を継ぐ。
 「1900年(明治33年)12月に一年志願兵として福知山の陸軍歩兵第20連隊に入隊。1901年(明治34年)11月に軍曹に進級し、翌12月に予備役に編入されたが除隊せず、3か月間の勤務演習に参加した。除隊後の1903年(明治36年)には歩兵少尉に任官する。1904年(明治37年)に日露戦争が勃発すると応召従軍、小隊長・中隊長代理として転戦し、戦争中に中尉に進級。遼陽会戦での抜群の殊勲により従七位勲六等功四級を授けられる。1906年(明治39年)に除隊後は帝国在郷軍人会有馬郡連合分会の会長を10年務め、その多年の功績から予備役ながら大尉に進級する。・・・
 日本の実業家、地方政治家、農政家。兵庫県会議長を3度務め、晩年には帝国農会副会長も務めた。神戸電鉄の創業者。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E8%84%87%E5%BB%B6%E5%90%89

 山脇は農村の自力更生を提唱し、「自力更生運動」に発展。この運動は1932年(昭和7年)に成立した齋藤内閣のスローガンとなり、内地や朝鮮などの農山漁村で成功したとされる。また、自力更生は、日本の傀儡政権である中華民国臨時政府<(注38)>の打ち出した新民主義においても使われ、「独立の自由は唯自力更生によつて始めて成功し得る」とされていた。

 (注38)「中華民国臨時政府は、1937年12月14日から1940年3月30日まで存在した中華民国の臨時政府。
 北京で成立し、当時日本占領下にあった河北省、山東省、河南省、山西省の華北四省、北京市および天津市、青島市といった地区を統治した。1940年に汪兆銘政権に吸収合併されたが、華北政務委員会へと改編され終戦まで統治を続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%B0%91%E5%9B%BD%E8%87%A8%E6%99%82%E6%94%BF%E5%BA%9C_(1937%E5%B9%B4-1940%E5%B9%B4)

 ・・・1945年8月に延安での幹部会議で中国共産党主席毛沢東が「自らの力を基本とすることを自力更生と呼ぶ。我々は孤立してはいない。帝国主義に反対する世界のあらゆる国や人民はすべて我々の友人である。しかし我々には、自らの力をもって、国内外の反動勢力を打ち破る力がある」と演説して打ち出した。・・・
 「自力更生」を示す「南泥湾精神」は軍で奨励され、人民解放軍は世界一商売熱心な軍隊になった。「自分の武器は自分で作れ」との方針から工場なども経営し、軍が経営する軍需工場が2007年現在でも多数存在する。 1980年代になると軍事費の削減によって「軍事費は軍自らが調達する」という方針が共産党からだされたことにより国の近代化と資本導入が始まったことにあわせ、軍の近代化に伴う人員削減で生み出される失業対策も含めて、自力更生の掛け声の元で各軍が幅広く企業経営へ乗り出した。当初は軍事に関係する事業に限られていたが、現在はホテル・レストランなど、軍事とは直接関係の無い事業にも進出している。 中国最大の製薬会社である三九集団など軍資本の企業は現在でも活動している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8A%9B%E6%9B%B4%E7%94%9F 前掲

 (三)弥生性の注入努力

  ア 朝鮮戦争

 毛沢東が、1950年10月、中共幹部中彭徳懐だけしか賛同者がいなかったにもかかわらず、しかも、スターリンの反対まで押し切って表記への参戦を決めた
https://future-reading.hatenablog.com/entry/2024/09/08/110807
のは、人民解放軍が、自壊状態にあった中国国民党軍との戦いくらいしか正規戦の戦闘経験がなく、その弥生性の不足に深刻な懸念を抱いていたことから、そんな人民解放軍に世界最強の米軍との戦いを経験させようとしたものである、と、私は見ている。
 仮に負けても、米軍による中共への本格侵攻は、その前年に核実験に成功していたソ連との戦争の危険を冒すことになるのでない、と、見ていた、と。
 副次的な目的としては、スターリンに貸を作ることで、ソ連からの核技術導入に繋げることもあっただろうが・・。

  イ 中越戦争

 鄧小平が、1979年2月、表記への参戦を決めた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%B6%8A%E6%88%A6%E4%BA%89
のも、朝鮮戦争が終結した1953年以降四半世紀以上にわたってまともな戦闘経験のない人民解放軍に、仏軍、次いで米軍による長期にわたる攻撃に持ちこたえ、1975年に事実上勝利を収めたところのベトナム軍、と戦闘させることによって、弥生性を再注入するためだった、と、私は見ている。

二 縄文的弥生人創出努力の続きと縄文人の創出努力

 毛沢東は、縄文人の創出を、1958年から、私見では武者小路実篤唱道のあたらしき村に最大のヒントを得たところの政策を、人民公社(注39)創設の形で行おうとした(コラム#省略)が成果を挙げることができなかった。

 (注39)「1958年から・・・大躍進運動の一環で・・・毛沢東共産党主席の指導のもとに、農業の集団化を中心に、従来の農業生産共同組合である「合作社」と工業、農業、商業、学校(文化・教育)、民兵(軍事)の各組織、地方行政機関の行政権能をも一体化して結びつけ、集団生産、集団生活を主とした自力更生・自給自足の地域空間を目指したものである。公社はコミューンの中国語での訳語である。あらゆる事物に人民をつける1950年代の社会風潮を反映して、人民公社と呼ばれた。<中共>における共産主義の基層単位とみなされた。人民公社の建設のペースは、1955年から1956年にかけての「合作社」化以上のペースで急ピッチで進んだ。・・・
 1978年に生産責任制が導入され、1982年に現行の中華人民共和国憲法が制定され、従前の郷政府制が復活し公社から行政権能がなくなったことにより、ほとんどの人民公社は、遅くとも1983年までには解体されたが、南街村のように解体されなかった人民公社も存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%AC%E7%A4%BE

 そこで、今度は、毛沢東は、縄文人の創出を、1966年から、「「中国革命は、(劉や鄧のような)走資派の修正主義によって失敗の危機にある。修正主義者を批判・打倒<し、>・・・封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という文化の改革運動」である文化大革命
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E5%A4%A7%E9%9D%A9%E5%91%BD
によって行おうとしたが、またもや失敗に終わった。
 1976年の毛沢東の死後、鄧小平は、取り敢えず、「走資派の修正主義」を復活し、全面的に推進した。

 その上で、鄧小平の死後、習近平は、一般人民はもとより、人民解放軍軍人にあっても、縄文性、すなわち、人間主義性、の注入が不十分で、前者の大部分は縄文人たりえておらず、後者の大部分も「縄文的」弥生人たりえていない、との認識の下、2016年までに、日本文明総体継受戦略を発動し(コラム#8407)、現在に至っている、というのが私の認識であるわけだ。 


[杉山元の自裁時期]

 杉山元の自裁が1945年の、日本軍の戦闘停止の8月15日ではなく、9月2日の降伏文書調印日でもなく、それよりも更に後の9月12日になった理由は、一つにはソ連軍の北海道侵攻の有無・・9月5日に歯舞諸島を完全支配下に置き進軍を停止・・、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%8F%82%E6%88%A6
と、日本軍の弾薬装備類の相当部分を中国共産党が入手できるかどうか、を見極めるためだった、と、考えられる。↓

 「岡村寧次<は、>・・・降参している日本軍に対して、・・・激しく中共軍が武装解除を要求してきた・・・<と>書<い>ている。」(コラム#14852)


 次いで、押えるべきことは、習近平によるところの、私の言う日本文明総体継受戦略の一環として、天皇制的なものの移植もある、ということ(コラム#省略)であり、かつ、それが現に実行されつつあるように見えることだ。
 まず、2014年における、TVシリーズ『武則天』の放送だ。↓↓

 「武則天の漢語ウィキペディアには、武則天ものの中共映画として、下掲の5本が挙げられているところ、古い1963年のものは取り上げないことにするが、それ以外は全て武則天時代の判事ディー(狄仁杰)ものであり、今回のは出て来ないけれど、その後の、5作目であると思われる。↓

 武則天(1963年)、狄仁傑之通天帝國(2010年)、狄仁杰之神都龙王(2013年)、狄仁傑之四大天王(2018年)、狄仁杰之夺命天眼(2019年)
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9_(%E5%BD%B1%E8%A6%96%E4%BD%9C%E5%93%81)

 実は、判事ディーものは、2002年からTVシリーズとして始まっているものだ。
 护国良相狄仁杰(2002年)、神探狄仁杰(2004年)、狄仁杰前传(2010年)、少年神探狄仁傑(2014年)、神探狄仁杰4(2017年)、通天狄仁杰(2017年)、大唐狄公案(2024年)、と。
 全ては、今回のと同様、武則天はか弱き女帝であって、彼女を悩ませる難事件を判事ディーが解決していく、という、武則天が刺身のツマ的な位置づけの、しかも、バカバカしい内容なのであろうと推察される。
 但し、狄仁杰(Di Renji。630~700年)は、実在の人物であり、科挙に合格し、判事補佐を経て丞相を2度も務めている<。・・・>
https://wapbaike.baidu.com/item/%E7%8B%84%E4%BB%81%E6%9D%B0/34
 他方、太田コラムで映画評連載中の『武則天』シリーズ、を含むところの、TVシリーズの方だが、数が多いので武則天の邦語ウィキペディアで紹介されているものだけに限って、それぞれに一瞥をくれると、次のようになる。
 『則天武后』(原題「武則天」、1995年)はパスすることにするが、「至尊紅顔」(2003年)は、武則天を悪女として描いている。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%88%99%E5%A4%A9_(1995%E5%B9%B4%E7%94%B5%E8%A7%86%E5%89%A7)
 『武則天 秘史』(原題「武則天秘史」、2011年)は、全く史実から離れた娯楽巨編に堕してしまっている。↓
 ’the fragrant plot, a large number of exaggerated interpretations that do not conform to historical facts, and the super straightforward ending song have made the audience criticized, and director Chengfeng admitted that many “thunder points” were deliberately designed by the producers, hoping to attract ratings through netizens’ doubts’
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%88%99%E5%A4%A9%E7%A7%98%E5%8F%B2 >
 『則天武后〜美しき謀りの妃〜』(原題「唐宮美人天下」、2011年)は、高宗期だけの武則天を描いている↓
 ’which is set in the Tang Gaozong period and tells the story of Wu Zetian in h<er> youth while solving a series of suspenseful events, and eliminating dissidents and stabilizing power with Gaozong’
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E5%AE%AE%E7%BE%8E%E4%BA%BA%E5%A4%A9%E4%B8%8B 
ので、コメントはしない。
 『二人の王女』(原題「太平公主秘史」、2012年)でも、武則天を悪女として描いている。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%85%AC%E4%B8%BB%E7%A7%98%E5%8F%B2
 『謀りの後宮』(原題「唐宮燕」、2013年)でも、同様だ。
https://www.163.com/ent/article/97UHN7R600034R94.html
 ・・・<これらと比較しての>『武則天』TVシリーズの特異性<は、次の通りだ。>
 『武則天 -The Empress-』(原題「武媚娘傳奇」、201[4]年)演:ファン・ビンビン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9_(%E5%BD%B1%E8%A6%96%E4%BD%9C%E5%93%81) ([]内)
は、武則天を闇落ちして行くところの、本来は人間主義者たる善人と描いていること、かつ、ざっと調べた限りでは、総上映時間で、武則天に係るこれまでの全映画/TVシリーズ中の最長編であること、から、その特異性が際立っている、と言えそうだ。
 放映年の2014年というのは、習近平が2012年に中共党軍事委主席兼中共党総書記になり実質中共トップに、そして、2013年に中共国家主席兼ねる国軍事委主席になり形式的にも中共トップになった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E8%BF%91%E5%B9%B3
ことを踏まえれば、彼が実質トップになった直後に企画され、形式的にもトップになった年に制作が始まった勘定であって、あえて、大胆に推測すれば、それは、習近平の実質天皇化、と、それにともなうところの、その地位の、彼の妻彭麗媛、ひいては、彼の一人娘の習明沢への承継を、将来、果すためのアドバルーンであり地ならしだったのではなかろうか。」(コラム#14818)
 「<以上を踏まえれば、>2024年7月の三中全会で、習近平が「中国建国の80周年である2029年までに改革を実現する」と言及したの<は、極めて>重要だと考えています。
 つまり、2027年以降の、4期目も務めると事実上宣言した<わけ>です。
 <しかも、>後継者が<政治局常務委員の中に誰も>いない<ときています。>・・・
 <となれば、>後継体制を支える候補として・・・、習近平夫人の彭麗媛もその一人だとみ<ざるをえません>。

⇒著者達もまた、中共当局が天皇制的なものの導入を念頭に置いているのかもしれないことを示唆していること、と、習近平の後継候補としてその夫人をも持ち出してきたこと、に、拍手したいと思います。(太田)

 さらに言うと、習近平夫妻の長女である習明<澤>も、後継体制で<少なくとも>重要なポストを担う可能性があると思います。・・・
 ハーバード大学・・・卒業後、・・・どうも最近、何らかの政府系の仕事を始めたという情報があ<ることが示唆的で>す。・・・」・・・

⇒習明澤<は>、私にとって、かねてよりの、習近平後継筆頭候補であったところ、著者達によってある程度私のこの考えがエンドースされたことは心強い限りです。(太田)」(コラム#14798)

 ↑↑シリーズで取り上げたところの、橋爪大三郎・峯村健司『あぶない中国共産党』は、率直に言って、愚著だったと申し上げざるをえないけれど、その唯一の取り柄は、すぐ上で引用した箇所だった。
 恐らく、習近平の指示を受けて、中共中央に近い誰かが、朝日本社に戻っていたところの、米中関係担当編集委員だった峯村
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%AF%E6%9D%91%E5%81%A5%E5%8F%B8
にこの情報をリークさせたのだろう。
 ところで、彭麗媛の軍服を着用した歌唱をYoutubeで視聴した
https://www.youtube.com/watch?v=RNDYWdR-FhQ&list=RDEM9TPMt3iIWH9dgB7JM61q1Q&index=2
https://www.youtube.com/watch?v=S0um8PmbfW8&list=RDEM9TPMt3iIWH9dgB7JM61q1Q&index=29 ←1995年の若かりし彭麗媛(参考)
際、習明澤の7年前の歌唱なるものがYoutubeにアップされている
https://www.youtube.com/watch?v=ZY7ZM902y9c&list=RDEM9TPMt3iIWH9dgB7JM61q1Q&index=4
のを発見したが、これが本物だとすれば、また、本物だとして口パクでなければだが、この歌唱力に加えてその学歴からして、彼女が天皇化後の父習近平の後継者として申し分ないことは明らかだ。
 ちなみに、「<明澤>という名前には『明るい毛<澤>東のように育ってほしい』という願いが込められているとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E6%98%8E%E6%B2%A2
 また、習明澤がハーバード大に入学した2010年までには、父習近平が中国共産党政治局常務委員兼中国共産党中央書記処常務書記兼国家副主席に就いていて、中共の次の最高権力者になることが確定していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E8%BF%91%E5%B9%B3 前掲
ことからすれば、わざわざ浙江大学一年生であった彼女をハーバードに転入学させた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%92%E6%98%8E%E6%B2%A2 前掲
背景には、(もとより、ハーバードに前年には不合格だった可能性も皆無ではないが、)彼女を習近平の後継者にする計画について、胡錦涛を始めとする中共中央における根回しがその時までに完了したことを示しているのではなかろうか。
 蛇足ながら、浙江大学は「2009年10月に発足した中国初のトップ大学の連合体、九校連盟C9 League(略してC9)メンバーであ<って、>・・・QS世界大学ランキングの2024年版では第44位(東京大学は28位、京都大学は46位)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%99%E6%B1%9F%E5%A4%A7%E5%AD%A6
だ。


[鄧小平以降の中共当局と天皇]

一 鄧小平

 「1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、当時は副総理だったが事実上の<中共>の首脳として初めて訪日して福田赳夫首相らに歓待され、<中共>の指導者としては初めて昭和天皇と会見した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%A7%E5%B0%8F%E5%B9%B3
 毛沢東からさんざん昭和天皇への感謝の念を明かされていた筈の鄧小平としては、極めて感慨深いものがあったと想像される。
 これにより、中共に関しては、国に係る肩書より、それどころか独裁党に係る肩書よりも、実質的な最高権力者であることを重視して、天皇と会見させる先例ができた。
 なお、「1980年に<中共>の<総理>として初めて国賓として訪日した華国鋒<が昭和天皇と会見している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%B2%A2%E6%B0%91

二 江沢民

 「1992年4月6日に田中角栄への見舞いも兼ねて訪日した際に天皇<と会見し、天皇>を<中共>に招待し、同年10月に明仁天皇・美智子皇后は<中共>を訪問することになる。天皇訪中は日中関係史で歴史的な出来事だったが、1988年から10年間外交部長(外務大臣)として、1993年から2003年まで国務院副総理として15年間、江沢民時代の外交を支えた銭其琛は回顧録で天皇訪中は西側諸国の対中制裁の突破口という側面(用日)もあったと明かしている。」
 この時点では、江沢民は、中国共産党中央委員会総書記兼中国共産党中央軍事委員会主席兼中華人民共和国中央軍事委員会主席だったが、まだ、国家主席(1993年3月~)ではなかった(上掲)けれど、鄧小平は既に1997年に死去していて、彼が中共の最高権力者であることは明らかだった。
 むしろ、注目すべきは、「1989年に六四天安門事件が起き、・・・<私見では鄧小平の指示の下、江沢民が>国内政治の不満を逸らすべく、・・・1990年代以降、教科書のみならず、テレビ、新聞、映画などの全分野において、青少年に対して・・・反日教育<でもあるところの、>・・・愛国主義教育<、>が展開されるようになり、教科書に要求された内容を基礎とする報道、ドラマ、映画などの製作が求められ、教科書に要求された内容が報道、ドラマ、映画などのベースを提供するようになった・・・<、という形で日本をとりわけ貶め、攻撃しつつ、他方で、>天安門事件直後の1989年6月21日、日本政府は第3次円借款の見合わせを通告し、フランスなどもこれに応じ<、更に、>7月の先進国首脳会議(アルシュ・サミット)でも<中共>の民主化弾圧を非難し、世界銀行の中国に対する新規融資の延期に同意する政治宣言が発表された<ということもあったけれど>、当時の日本の宇野宗佑首相はアルシュ・サミット前に対中制裁反対派および慎重派の中曽根康弘・鈴木善幸・竹下登元首相と会談し、サミットでは「中国を孤立させるべきではない」と主張して宣言に盛り込ませたことで他の西側諸国と距離感が目立っ<てい>た」(上掲)ことに付け入り、鉄面皮にも天皇の利用を目論んで江沢民訪日がなされ、目論見通りに、日本政府に、明仁天皇を含め、好意的な対応に終始させた上、上述のように、同年10月に明仁天皇・美智子皇后に中共を訪問させることに成功する。
 なお、「1998年11月、江沢民は<中共>の国家元首として初めて日本を訪れ<ている>。」(上掲)

三 胡錦涛

 国家副主席当時の胡錦涛が1998年に訪日した際に明仁天皇と会見した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E7%89%B9%E4%BE%8B%E4%BC%9A%E8%A6%8B
が、これは、1992年に中共建国後では史上2番目の若さでであったこともあり、それまでの副主席が主席に昇格したり、実質的な最高権力者になったりしたことはなかった、
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E5%89%AF%E4%B8%BB%E5%B8%AD
けれど、彼が江沢民の後継者と見做されていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E9%8C%A6%E6%BF%A4
ことから実現したと考えられるところ、ここにもう一つ先例ができたわけだ。
 なお、胡錦涛も、国家主席当時の2008年5月に国賓として来日し、明仁天皇と会見している。
https://www.nikkei.com/article/DGXKZO37014360X21C18A0EA2000/?msockid=0eccea612d166d952376ffc92cfc6c6f

四 習近平

 習近平は、国家副主席当時の、胡錦涛の時のことが前例になって、2009年に明仁天皇と会見した。
 (「1ヶ月前までに申請する慣例にはならわなかった」点が大問題になったがこの話は省略する。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E7%89%B9%E4%BE%8B%E4%BC%9A%E8%A6%8B (前掲)←事実関係
 習近平は、日本訪問の後、引き続き、韓国やカンボジアも訪問している(上掲)ので、この日本訪問に特別の意味があったとは考えにくく、従って、中共における次期国家主席は主席就任前に天皇と会見することが恒例化している、などとは言えそうにないが、習近平家の支那天皇家化計画の推進を企図していたこともあり、彼としては、天皇との会見の実現に相当のこだわりはあったと想像される。
 なお、習近平による、国賓としての来日・・いわゆる公式訪問・・は、まだない。

五 中共当局の天皇観

 毛沢東以来の中共の歴代当局は、歴代天皇が、戦前は大日本帝国憲法の天皇機関説的に解釈して事実上権力を持とうとしなかった、し、戦後においては日本国憲法に基づき法的に権力を持てない、にもかかわらず、日本の方向性を規定してきたのであって、対支那政策に関しては、日本政府をして、戦前は中国共産党を支援して政権奪取寸前にまで持って行かせてくれ、戦後においても中国共産党政権を陰に陽に支援せしめ続けてくれ、たところ、そのことに対し、畏敬と感謝の気持ちを抱き続けてきた、と、私は見ている。
 不満は、戦後、歴代天皇が、日本の再軍備に反対してきたことくらいであろう、とも。
 その上で、日本文明総体継受が概ね成功裏に完了したならば、中国共産党が支那を支配する体制もその役割を終えることだろうが、そんな暁においても、(日本においてすら消滅しつつある)日本文明を支那において引き続き維持するとの方向性を揺るがせないためには、支那においても、かかる方向性の変更を許さないだけの権威を帯びた天皇制的なものが不可欠であって、自分が中共の最高権力者である間において、そのための基盤整備を終えなければならない、と、習近平は考えているのではなかろうか。
 ちなみに、2011年には、ダライ・ラマ(14世)・・毛沢東と習仲勲を高く評価していた(既述)!・・がチベット亡命政府の長から引退し、「ダライ・ラマがチベットの政教両面の権威者の座に即くというダライ・ラマ5世以来の伝統を終わらせることになった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E14%E4%B8%96

が、中共は、天皇制採用に関し、チベット亡命政権に先を越されたことになる。

◎毛沢東の評価における陥穽

 ↑↑以上を踏まえた所感だが、表記に関しては、まずは、毛沢東の評価だけでなく、日本史、いや、世界史に係ることの評価の多くのものに関わるところの、先の大戦に日本が敗北したという誤った思い込みを挙げなければならないが、昨今の日本人について言えば、(この点とも関連しているけれど、)広義の司馬遼太郎史観に汚染されていること、そして岸カルトの責任が大きいところの(地域研究、諜報、謀略を含む)軍事素養の欠如、優秀だった頃の官僚・官僚組織(ただし現在は大部分脳死)への経験のなさ・・具体的にはその意思決定の仕方や上澄みの能力等についての無知・・、そして、昨今に限らないところの日本人の大部分に共通している、理念的なものの重要性への鈍感さ、更に言えば、以上のような自らの先入観や弱点を探し出し自覚する努力の欠如、といったものが挙げられよう。

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太田述正コラム#14836(2025.3.22)
<2025.3.22東京オフ会次第>

→非公開