太田述正コラム#14666(2024.12.27)
<浜口恵俊『間人主義の社会 日本』を読む(その32)>(2025.3.24公開)
「・・・<日本の>「同族」には、非血縁の「家」が、血縁の分家とともに加わっているのである。
しかも、「同族」は、同一地域に居住する「家」から成り立っており、その結合には地縁的要因が強く働いている。
この点も中国の「族」とは大きくちがっている。・・・
<中国の>「族」では、成員基準が明確に規定されるが、居住地域の限定度は小さい。これに対し、同族」においては、非血縁者をも加入させる点で成員性基準は幅広いものとなるが、地域的限定度は大きい。・・・
「同族」の構成員が「家」そのものであることを最初に見いだしたのは、・・・社会学者の及川宏であった・・・。・・・
(注60)1911~1945年。著作:https://ci.nii.ac.jp/author/DA04132400
婿養子にかぎらず、日本社会では、養子縁組が社会的に忌避されることなく、一般にひろく行われてきた。
この点<も>・・・中国の場合と違っている。・・・
家督を譲り渡して隠居する慣習に<ついてもそうだ。>
日本の「家」が、血縁成員に対する代替性を公認してきたのは、団体としての「家」の維持が至上目的であったからだ、ともいえる。・・・
文化人類学者のロバート・スミス・・・はこう・・・述べている。
「イエは過去の全ての世代と、現存している人々、それに未来の全世代からできていると考えられていた。その上、イエは財産を持ち、理想としては、生産と消費の経済的単位として機能したのである。決定的に重要な関係は家長と彼の後継者の関係であり、日本人は出自の系統の継続を確保するため極端な処置を講じてきたという特徴を持っている。」(206~208、210~211)
⇒この本が上梓された1982年には、既に、日本の「同族」は姿を消してしまっていたというのに、浜口がそのことから目をそらしている感が私には否めません。
つまり、浜口には、日本で、『文明としてのイエ社会』(村上泰亮他)が言うところの、「弥生時代からウジ社会が始ま<ったところ>、・・・<その>一方、11世紀に東国武士団によってイエ社会の原型が作られ、鎌倉時代から江戸時代にかけてイエ社会が発展してい<った>」
https://family-business.jp/archives/650
という「史実」を踏まえたところの、起承転結がある、歴史的存在としての、「同族」=「イエ」、観がないのではないでしょうか。
私の仮説的見解はこうです。
日本では、基本的に人間主義者ばかりの縄文時代においては、縄文人は組織なき生活を送っていたところ、弥生時代には、支那の長江地域から、「族」生活を送っていた弥生人(弥生的縄文人)が累次渡来してきて、支配者として、「族」の日本列島ローカル版たる「ウジ」生活を送るようになったが、被支配者たる縄文人の組織なき生活は変わらなかった。
やがて、私の言う聖徳太子コンセンサスに基づき、8世紀末に私の言う桓武天皇構想が策定され、支配者によって武士が創出されるようになると、日本は(結果的に西欧のそれと類似した)封建社会になっていくが、それは、創出された武士に一所懸命に自分の所領の防衛を行わせ、それが合計された総体として日本の対騎馬遊牧民国家安全保障を確立するためだった。
だから、それぞれ「一所」の領主たる武士達を組織化することが至上命題となり、だからこそ、非同一血統諸家の地域連合体たるところの、「同族」=「イエ」、が形成されることになった。
やがて、この「同族」=「イエ」、を、武士以外の商人等も採用するようになるが、この「同族」=「イエ」を、明治政府が全国民に強制的に一挙に普及させたのは、総力戦体制下、全国民を意識の上で武士化することが目的だった。
だからこそ、戦争を放棄した戦後、「同族」=「イエ」、は、急速に弱体化し、崩壊し、消滅していくこととなった。(太田)
(完)