太田述正コラム#14676(2025.1.1)
<木村敏『人と人との間』を読む(その5)>(2025.3.29公開)
「・・・義理の不履行としての日本人の罪は、罪と恥との区別を超越した罪であり、恥である。
自己は自己自身の管轄下にはなく、自己と他人との出会いの場所における自己と他人との間に没収されている。
しかも自己は、この没収されて自己の手を離れたところにある自己自身に対する義務を履行せねばならぬ。
それが義理といわれるものである。
義理は、超越的な道徳律や神のごときものに対しての義務ではなく、人と人との間に対しての義務であるから、それはつねに相互拘束的である。
ベネディクトが言っているように、日本人は「一定の掟を守って行動しさえすれば、必ず他人が自分の行動の微妙なニュアンスを認めてくれるに違いない、という安心感をたよりとして」いる。
この一定の掟とは、義理<(注4)>のことに他ならない。
(注4)「《今昔(こんじゃく)物語集》の用例では,物事の正しい道筋の意。のち対人関係上の礼儀正しさ,良い道理の意となる。近世初期の儒者林羅山(らざん)は儒教の〈義〉と結びつけ,人間関係における道義とした。近世社会では各階層ともに義理の関係が重視された。井原西鶴や近松門左衛門の作品には,内面的に〈人情〉と葛藤・対立する〈義理〉が記されている。・・・
<すなわち、>西鶴や近松門左衛門の作品に見える義理は,制度的な関係を維持するための倫理というよりも,むしろ人間関係における自発的・私的な倫理であり(《心中天の網島》の治兵衛女房おさんと遊女小春の〈女どしのぎり〉),まさにこの点で〈人情〉との鋭い内的な対立・葛藤を生み出すのである。
しかし,他方では,江戸時代を通じて,・・・庶民とくに農民のあいだで・・・人間関係の外面的倫理を表現することばとしても多用され,やがて,世間並みの付き合いとしての〈挨拶〉や付き合いの上での〈出費〉そのものまでも含む言葉として定着した。・・・
ことに葬式の際の訪問や会葬することを単に義理と称するところが多い。公けとか世間を意味するクガイという言葉も同様の意で用いられ(公界(くがい)),またはギリクガイなどと併用し親族以外の者が親族並みに正装して葬儀に参列することを指す地方も各地にみられる。また当然のことながら,葬儀の時以外にも用いられ,田植や屋根葺きなどを無償で手伝うことをギリあるいはオツキアイと言う地方もあり,互酬性が期待できる村内生活ならではの用法であろう。また村の慣習をよく守ることを義理堅いと称するところもあり,世間並みの行為を行うことが民俗語としての義理であったともいえる。
<但し、>これはツトメなどと呼ばれる必ずしなければならない義務,例えば村仕事や親族間の交際などについては,ことに分家や子方が本家や親方に対するものなどのように,それを怠っても,直接的な制裁を受けることはない。むしろ,義理は〈義理を知らぬ人〉などとの謗(そし)りを他人から受けないための,自発的な心情からなされる行為であった。」
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義理とは信頼に対する相互拘束的な呼応である。
それだけに、もし自分が一方的に義理を果しえなかった場合、そこには相手からの非難と侮辱が、当然のこととして予想される。
彼はそこで自己の体面を失い、顔向けのならない恥辱感を味わわねばならぬ。
それは、懺悔して軽減されうるような西洋人の罪よりも、はるかに深刻な苦痛である。
それは、いかにしても回復不可能な「取り返しのつかぬ」「相済まない」事態である。」(77~78)
⇒異論を挟む余地がありません!(太田)
(続く)