太田述正コラム#14696(2025.1.11)
<木村敏『人と人との間』を読む(その15)>(2025.4.8公開)

 「・・・「気」<(注19)>は、大部分自分以外の相手との関連において見られており、さらにその多くは、自分自身の「気分」が、相手側の事情のみによって動かされている様子を示している。

 (注19)「中井正一<(1900~1952年。京大文(哲学)卒、同講師、等。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E6%AD%A3%E4%B8%80 >先生・・・が江戸時代になると 「きつかい」という言葉が圧倒的に増えるといわれたのは、自我の自覚という面も一部ありますが、むしろ反対に、自己主張をしない、日本人が自己主張をしないから自分の意見をどうにでもとれるように曖昧にしておく、玉虫色に しておく。これが 「気遣い」の延長で 、今日の社会でもそういう事があります。」(南博「「気」と日本人」より)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jmbs/2/1/2_KJ00005469271/_pdf/-char/ja
 「思遣<(思ひ遣り)とは、>・・・人の身の上や立場、心情などについての察し。察していたわりの気持をもつこと。また、その気持。[初出の実例]「おのが心本性立腹に侍りて、思ひやりなく物いふ事もなん侍るを」(出典:落窪物語(10C後)三)<。>「わりなの、人に恨みられ給ふ御よはひや。おもひやり少なう、御心のままならむもことはり」(出典:源氏物語(1001‐14頃)末摘花)」
https://kotobank.jp/word/%E6%80%9D%E3%81%84%E9%81%A3%E3%82%8A-454739

 ・・・気の毒というのは相手の状態が自分の気にとって毒になる意味だし、相手の状態いかんによって自分は気をつかい、気疲れがし、気がねをしなくてはならない。
 気づくというのは自分の気が周囲の出来事に付着することであり、きになるというのは 周囲の出来事が自分の気に大きな負担になるということである・・・。
 つまり、気は一応は自分のものとして言われていながら、自分の自由にならぬもの、周囲の情勢次第でいろいろに変化するもの、その意味で「人と人との間」にあるものということができる。・・・
空気や風が森羅万象の根源と考えられ、これが気息として呼吸によって人体に入って、人間の心あるいは魂となり、さらには生命の原理とみなされる、という発想は、・・・古代世界にあまねく行なわれていた共通の考え方のようである。
 しかし、20世紀の今日においても、このような見方がなお日常的な言語の中にそのままいきいきと残っていて、空気や気息と人間の心の動きとを同じ気という言葉で表現して怪しまないのは、中国人と日本人だけぐらいなのではないだろうか。
 そして、このように元来は超個人的、宇宙的な概念が全く自然に個人的な「心ノ趣クトコロ」として使用されているということが、この言葉に不思議な、外人には理解しにくい性質を与えているのだろうと思われる。・・・」(168~169、172)

⇒木村は、「気」にとらわれていますが、「南宋の朱熹は張載の気と程頤・程顥の理を融合して理気二元論を唱えた。世界にアプリオリに存在し、気の集合離散を秩序づける法則・理法を理と呼び、理先気後を主張した。朱熹は、人間の死を気の離散とし、いったん離散した気は元に戻らないと考えた。しかし、弟子に「では、祖先祭祀はどうして行うのか」と問い質され、これは朱子学の重大な理論上の欠陥となった。明代中期になると理先気後に対して理気相即が唱えられるようになり、理は気の条理(いわばイデアではなく形相)とされるようになった。このように理気論は気一元論へと収束されていった。そして、清の戴震にいたっては理は気によって生じるアポステリオリなものとされるに至った。日本では伊藤仁斎が同様の主張を唱えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97
ということから、「仁斎の学問手法は、当時支配的だった朱子学的経典解釈を廃し、直接テクストを検討する」とされている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E4%BB%81%E6%96%8E
ところ、彼の学問手法は、どうやら支那の儒学の動向を踏まえたものであったらしいわけですが、「注19」前半が言う「きつかい」なる表現の事実上の江戸時代においける誕生は、私の言う第二次縄文モードの時代たる江戸時代における「儒教ブーム」に伴う「気ブーム」がもたらしたものであって、それより前の、第一次縄文モードの時代たる平安時代においても、ほぼ同じ意味である「おもひやり」という言葉が盛んに用いられていたことが「注19」後半から分かります。
 その間の第一次弥生モードの時代には、「おもひやり」という言葉が使われなくなり、また、「きつかい」という言葉は生まれていなかった、と、考えられるのであって、この時代には、「おもひやり」/「きつかい」・・つまりは、人間主義の発露・・、が余り求められなかった、ということではないでしょうか。(太田)

(続く)