太田述正コラム#14700(2025.1.13)
<木村敏『人と人との間』を読む(その17)>(2025.4.10公開)

 「「貰い子妄想」<(注21)>というのは、実は私自身の命名したものであるが、・・・日本人に特有な妄想症状の代表<であって、>・・・西洋にはほとんど出現しない症状であるために、従来の西洋の精神医学の教科書はもちろんのこと、個々の研究論文の中にも論じられたことがなく、これに対する名称ももちろん存在していなかった。・・・

 (注21)「柳田國男が幼い頃、妄想した虚構の母。小泉八雲が拘泥したジプシーの血筋。・・・民俗学者たちを呪縛する不可解な「捨て子」意識をてがかりに「民俗学の起源」を明らかにする。」(大塚英志『「捨て子」たちの民俗学–小泉八雲と柳田國男』の帯書き、より)
https://yokai-librarian.hatenablog.com/entry/2021/07/07/222115

⇒「貰い子妄想」でネット検索をかけると、木村がらみのもの以外は、上掲くらいしかヒットしません。
 どうやら、「貰い子妄想」は、木村だけの「妄想」であったようです。(太田)

 この貰い子妄想は、西洋でも昔からよく知られている「血統妄想<(descent delusion)>」と一見よく似ている。・・・ 
 日本の家は・・・外なる街頭からはっきり区別された「うち」であるけれども、その内部における各個室は独立性をまったく有していない。
 最新のアパートやマンションにおいてすら、その大多数は鍵のかかる部屋を持たない。・・・
 日本の家には、個人に存在の根拠を与える場所としての個室はなくて、人と人との間が自在に自己を実現していく「間」だけがある。」(202、204、216~217)

⇒木村は、まるで分かっていません。
 まず、下掲のα~Δに目を通してください。↓

 「床柱(とこばしら)とは、床の間の脇に立つ象徴性の強い化粧柱のことです。柱とはいうものの、屋根や天井を支えると行った構造的な役割は担っておりません。床柱はむしろ、床や座敷空間を特徴づけたり、家主の権威性や趣味性を表現するシンボリックな役割を果たす物となっています。書院造りの座敷ではさほど床柱を強調することはありませんが、数寄屋建築の茶室などの侘びた空間では、このより強く見受けられるようになります。そのため数寄屋建築の床柱には、座敷内の他の柱とは全く異なる樹種や加工法が採用されており、高価な銘木・変木が用いられることも稀では有りません。」(α)
https://nara-atlas.com/term/japanese/4388/
 また、「「大黒柱」といえば、建物の中で重要な太い柱のことを指<し>・・・ますが、もともとの由来は、古代・・・、天皇が住んでいた大内裏の正殿「大極殿」、その中央に立てられた太い柱が「大極柱」で、それが転訛し「大黒柱」となり、一般的に建物のなかで重要な柱を「大黒柱」と呼ばれるようになりました。」(β)
https://mag.japaaan.com/archives/209136
 更に、「大極殿(だいごくでん)は、・・・宮城(大内裏)の朝堂院の北端中央にあり、殿内には高御座が据えられ、即位の大礼<(注21)>や国家的儀式が行われた。

 (注21)「「延喜式」で正月に行われる朝賀儀とまったく同じ式次第で、しかも四拝という日本固有のミカドオガミで行われ<、>・・・もともとは・・・正月に壇を設けてそこに登って即位<の大礼を行った>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AE%E7%A4%BC
 「四方拜<の>・・・儀式の大要は次の通りである。1月1日(元日)の午前5時30分に、天皇が黄櫨染御袍と呼ばれる束帯を着用し、皇居の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に設けられた仮屋の中に入り、伊勢神宮の皇大神宮・豊受大神宮の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神祇を拝する。この時に天皇が拝する神々・天皇陵は、伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵・先帝三代の各山陵、武蔵国一宮(氷川神社)、山城国一宮(賀茂別雷神社と賀茂御祖神社)、石清水八幡宮、熱田神宮、常陸国一宮(鹿島神宮)、下総国一宮(香取神宮)である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%96%B9%E6%8B%9D

 <支那>の道教では天皇大帝の居所をいう。「大極殿」の名は、万物の根源、天空の中心を意味する「太極」に由来する。ゆえに<支那>においては太極殿といい都城内の建物に起源をもち,三国時代の魏の明帝青竜3年(235)、「北魏洛陽城」において太極殿が初めてであるとされるため、大極殿を「だいぎょくでん」とも読む。すなわち、帝王が世界を支配する中心こそ「大極殿」の意である。日本最初の大極殿が置かれた宮殿については、飛鳥浄御原宮説・・・と藤原宮説・・・に分かれている。」(γ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A5%B5%E6%AE%BF
 また、「神社本殿<には>,神明造の妻側に離れて立つ棟持(むなもち)柱や,大社造の中心にあるうず柱など・・・がある。」(Δ)
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E6%9F%B1-91128

 さて、「四方拝<(四拝)は>道教や陰陽道の下に成立した儀式であって、本来神道とは無関係な儀式であった可能性もある」とか、「明治時代以前の元旦四方拝の祭器具には「大宋御屏風」があったが、「大宋」とは<支那>南朝の「劉宋」のことであり、漢の天地を祭る皇帝祭祀である明堂祭祀が南朝の劉宋を経て日本に継承された品であると位置づけられること、元旦四方拝の天皇の礼服である黄櫨染御袍は「月令思想」の中央である土王「黄」を表しているとし古代<支那>の皇帝祭祀との関連も指摘されている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%96%B9%E6%8B%9D
ということもあるけれど、神道の儀式であって、しかも、その最高の儀式であったと見ていいでしょう。
 だからこそ、その儀式は、神社の中心たる柱・・神そのもの!(コラム#14695。なお、コラム#14697も参照)・・に相当する大極柱が建てられている大極殿で行われたのであり、この神社/大極殿の縮小版として、私の言う第一次弥生時代の日本において、武士の居宅が大黒柱(大極柱)が中心に建てられた書院造となり、その発展・普及形が数寄屋造の床柱となった、すなわち、Δ→γ→β→α、という歴史の中に(私がかねてから指摘してきたところの、毀損された人間主義性を日常的に修復するために神社空間を居宅に再現したところの)書院造/数寄屋造の居宅が位置づけられる、というのが、私の最新の見解です。
 従って、見えない結界によって外から守られている居宅の中で、帰宅後、速やかに毀損された人間主義性を修復するはずであるところの、成人たる各居住者、は、互いのプライバシーを人間主義的に配慮し合って互いに侵すようなことなどありえない以上は、それぞれに、個室はもとより、鍵のかかる個室、なんぞを設ける必要性はないわけです。(太田)

(完)