太田述正コラム#14702(2025.1.14)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その1)>(2025.4.11公開)
1 始めに
予告した(コラム#14683)ように、表記本をシリーズで取り上げます。
なお、池上裕子(1947年~)は、新潟大人文学部(経済)卒、一橋大院修士、同大博士後期課程単位取得退学(経済史専攻)、相模女子大講師、成蹊大助教授、中大博士(史学)、成蹊大名誉教授、2000年(平成12年)、『戦国時代社会構造の研究』で第22回角川源義賞を受賞、という人物です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E4%B8%8A%E8%A3%95%E5%AD%90
2 『織豊政権と江戸幕府』を読む
「・・・封建制と石高制は農民の自給自足経済を基盤とするから、<安土桃山時代の>権力はそれを維持しつつ流通をみずからと石高制に寄与する範囲にコントロールすることを政策とした<とされてき>た。
だが、<実際は、>・・・そうではなかったように思う。
流通や貿易を促進し、商人の活動の場を拡大する政策がとられた<のだ>。
それは自己の財政基盤や軍事力の強化に利するためというだけでなく政権構想の重要な柱を占め、石高制と並立する国制レベルの政策だったように思う。
⇒ここは、慧眼だと思います。(太田)
そうみることで、信長政権についてもこれまでより政策面での評価を進め、信長・秀吉の戦争も、安土にはじまる城と城下町の建設も、関所撤廃・楽市政策も、秀吉の貿易独占の強い志向と明征服構想や外交政策も、一貫して流れの中に位置づけることができる。・・・
⇒このあたりから怪しくなってきますが、この段階で私見を差し挟むのは控えます。(太田)
秀吉は自己の正統性を「日輪の子」の捏造によって主張する<(注1)>とともに、儒教の中国、仏教のインド、キリシタン国とも違う我国の独自性を神道に求めて「日本は神国」と世界に主張することになった。」(3~4)
(注1)「「或時母懐中に日輪入り給ふと夢み、巳(すで)にして懐妊し、誕生しける」(・・・豊臣秀次の侍医を務めた・・・小瀬甫庵著『太閤記』より・・・)<、>・・・徳川秀忠・家光らに仕えた土屋知貞(ともさだ)の『太閤素性記(たいこうすじょうき)』にも同じような記載が。・・・文禄2(1593)年の高山国(台湾)宛の書簡では、このような記載<が>。「それ日輪の照臨する所は海岳山川草木禽獣に至り、悉くこの恩光を受けざるはなきなり。予、慈母の胞胎に処せんと欲するの時に際し、瑞夢あり。その夜己(つちのと)、日光室に満ち、室中昼のごとし」(『異国往復書翰集』<より>)」
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/119350/
「弘安五<(1282)>年九月十八日に大聖人は池上仲宗邸に到着、そして翌月十月十三<(11月21)>日に御遷化なされるが、その間・後を託した日興上人に、本因妙抄、身延山附属書等の血脈相承書を託されているが、そのなかで自身の出生についての謂れ、日蓮の日文字の由来等についても口伝され<たのが>・・・産湯相承事(うぶゆそうじょうじ<)である。>・・・
母梅菊女・・・御身の父に嫁(とつ)げり。或る夜の霊夢に曰く、叡山の頂(いただき)に腰をかけて近江の湖水を以て手を洗ひ、富士の山より日輪の出でたもうを懐(いだ)き奉ると思うて、打ち驚いて後・月水(がっすい)留まると夢物語りを申し侍れば、父の太夫・我も不思議なる御夢想を蒙むるなり。虚空蔵菩薩・貌吉児(みめよきちご)を御肩に立て給う。・・・人・天・竜・畜共に白き蓮を各手に捧げて、日に向つて「今此三界(こんしさんがい)・皆是我有(かいぜがう)・其中衆生(ごちゅうしゅじょう)・悉是吾子(しつぜごし)・唯我一人(ゆいがいちにん)・能為救護(のういくご)」と唱え奉ると見て驚けば、則ち聖人出生し給えり。」
https://nichirengs.exblog.jp/22913786/
⇒長らく失念していましたが、秀吉が「日輪の子」と称した、のは極め付きに重要です。
これは、秀吉自身が捏造したのではなく、母親の仲が日蓮宗信徒であって、秀吉に対し、「注1」後段を引用しつつ、お前は日蓮の生まれ変わりだ、的なことを吹き込み続けた、ということがあったのではないか、と、私は想像するに至っています。
というのも、仲(大政所)の墓は、仲の法名の天瑞院の大徳寺内天瑞寺、高野山青巌寺、山科本圀寺、にあり、遺骨は天瑞寺に収められたけれど、日蓮宗の本圀寺の墓地には、「最初の夫<で秀吉の実父>の弥右衛門、婿<で日秀(とも)の夫>の三好吉房、孫<で日秀の子で秀長の婿養子>の豊臣秀保と合祀された供養塔がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E6%89%80
ことから見て、本圀寺こそが本来の墓と見てよいのであって、彼女は日蓮宗信徒であったにほぼ違いないからです。
(ちなみに、貞明皇后は、仲の12代目の子孫です。(上掲)
なお、このうち、弥右衛門だけは、日蓮宗信徒ではなさそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%BC%A5%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80 )
神道云々の話の方は、ここでは取り上げません。(太田)
(続く)