太田述正コラム#14704(2025.1.15)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その2)>(2025.4.12公開)

 「国際関係の変動が統一政権の性格のみならず国家意識にまで大きな影響を及ぼした時代であった。

⇒ここは、同床異夢の可能性はあるけれど、字面においては、私も同感です。(太田)

 右の他に統一政権が直面した大きな課題は、武士身分の統合と、自治組織をもつ村や町の支配の問題であった。
 検地・石高制<(注2)>は両者への対応策であった。

 (注2)「全国統一が完成した翌年の1591年(天正19年)、豊臣政権は諸国に対して一国御前帳の提出を命じているが、これは翌年の人掃令と合わせて朝鮮出兵に備えた兵粮・軍役負担を確保するために、大名の領知高を確認する点を優先しつつも日本全国の土地を同一の基準をもって把握しようとしたのである。ただし、注意すべきは「大名の領知高を確認する」という点である。例えば、長宗我部氏の土佐一国9万8千石は実際の検地によるものではなく、同氏の動員可能兵力からの逆算と言われ、佐竹氏や島津氏などに対しては石田三成ら奉行が政治的必要(軍役負担などの観点)から石高を操作していたことが知られている。更に領内で米がほとんど獲れず、もっぱら貿易による利益に依存していた宗氏や松前氏は実際には無高もしくはそれに近いにもかかわらず、利益から計算された形式上の表高が与えられていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98%E5%88%B6

⇒「注2」が示唆しているように、検地・石高制は、地域「駐留」部隊司令官たる大名達が国家総力戦に際して各々が率いて馳せ参ずべき軍事力の規模を定めた制度である、と、私は見るに至っているところ、おいおい、更に詳しく私見を明らかにしていきたいと考えています。(太田)

 さらに村町については、室町時代以来の自治<(注3)>を統一政権が否定して支配の末端機構として取り込んだか否かが問題となってきたが、私は自治は基本的に継承され、否定されなかったと考える。

 (注3)「鎌倉後期から名主・農民たちが村や地域ごとにまとまった、惣村とよばれる自治組織が畿内を中心に生まれました。
 惣村内部では、名主を含めた構成員(村人達)は、惣百姓とよばれ、農業の共同作業や、戦乱に対する自衛を通じて結束しました。惣百姓は山や野原などの共同利用地である入会地を確保し、灌漑用水などを共同で管理しました。年貢も惣村がひとまとめに請け負う地下請、もしくは百姓請が広まっていきました。
 また、惣村は、番頭・沙汰人・乙名(おとな)と称するリーダー(地侍や名主層)によって構成される宮座とよばれる祭祀集団が中心となって運営されました。村の重要な決定事項には、合議機関として寄合(集会)が開かれ、ここで最終決定がなされました。なお、寄合は全員参加が原則でした。
 また、戦乱や犯罪から村人の命や財産を守ことも、惣村運営における重要な要素でした。惣村では、団結を守るために村内の掟である惣掟を定め、掟を破ったり、犯罪をおかしたりした者を厳しく処罰しました。・・・
 村内では、村全体の秩序を保つために村民同士が互いに警察権を行使し、違反者・犯罪者以外にも、浮浪者やよそ者を取り締まりました。これを地下検断といいます。」
https://motomiyatakahiro.hatenablog.com/entry/2021/01/25/121709

 強力な支配の象徴とみなされてきた村請制は前代の継承とみる。
 しかし武装解除をし農耕専念の身分意識を植えつけ、石高制の枠内に押さえ込む政策がとられた。
 近年ややもすれば権力が村の救済者、貧困からの救済者であったかのようにイメージされがちであるが、秀吉は最期まで一揆の蜂起を恐れ、村町の自治意識と対峙していたと思う。

⇒秀吉や家康について、そんなイメージを私は抱いたことはありませんが、或いは、私の勉強不足なのかもしれません。
 もっとも、単に、いつの時代の日本の統治者であれ、人間主義的統治を心がけることを当然視していた、というだけのことかもしれませんが・・。(太田)

 そこに鋭い緊張関係があったことをふまえることで、権力の論理を支配の論理として位置づけていきた。」(4)

(続く)