太田述正コラム#14706(2025.1.16)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その3)>(2025.4.13公開)
「・・・13代将軍義輝は、永禄8年(1565)5月19日の朝、三好長慶の養子義継をかつぐ三好三人衆・松永久秀らの軍勢に室町御所を襲撃され、奮戦の末に討たれた。
弟で奈良興福寺一乗院門跡(もんぜき)の覚慶は幽閉された。
この結果、幕府は将軍不在の状態が3年近く続くことになる。
そのころ信長に重大な変化がおきた。
・・・それまでと異なる、麒麟<(注4)>の「麟」という文字の草体をもとにした花押を使いはじめ、その形が以後亡くなるまでの基本形となったという。
(注4)「『礼記』によれば、王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物「瑞獣」とされ、鳳凰、霊亀、応竜と共に「四霊」と総称されている。・・・
『春秋』では、聖人不在で泰平とは言えない時代に麒麟が現れ、捕らえた人々が麒麟を知らず気味悪がって打ち捨ててしまったことに、孔子は深く諦念し筆を擱(お)いてしまうという、いわゆる「獲麟」の記事をもって記述が打ち切られている。・・・
徳川家康も・・・麒麟を信仰していた。日光東照宮には陽明門や拝殿などに麒麟の彫刻や絵画などの装飾が施され、麒麟が様々な霊獣の中心的な存在として扱われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%92%E9%BA%9F
「魯の国の西方にある大野沢(だいやたく)というところで狩りが行われた際、魯の重臣である叔孫氏に仕える御者の鉏商(しょしょう)という人物が、見たことのない気味の悪い生物を捕えた。人々はそれを狩場の管理人に押しつけ、自分たちは先に帰ったのである。
たまたまその気味の悪い生物を見る機会があった孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出て来ないはずの麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから、自分が整理を続けてきた魯の歴史記録の最後にこの記事を書いて打ち切ったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%B2%E9%BA%9F
麒麟は中国で生み出された想像上の動物で、世の中がよく治まっている時にしか姿を現わさないと考えられていた。
だから信長はそのような世をめざすという政治理念をこめて新しい花押を使いはじめたのであり、その背景に、義輝の弑逆事件があったと推定された。・・・
信長はこの事件を契機として、上洛と天下の統一・支配とをめざすことを決意したと思う。」(16~17)
⇒永禄10年(1567年)の稲葉山城の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
を経て、「稲葉山の城下の井口を岐阜と改めたと書かれている。政秀寺の僧侶であった沢彦宗恩の案によって、「岐山」(殷が周の王朝へと移り変わる時に鳳凰が舞い降りた山とされ、周の文王はこの山で立ち上がり、<そ>の基を築いた)の「岐」と、「曲阜」(学問の祖、孔子が生まれた集落があった魯国の首府にして儒学発祥の地)の「阜」を併せ持つ「岐阜」を選定して、太平と学問の地であれとの意味を込めて命名したとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C
ということが事実だったとすると、そのこととも整合性がある話ですね。(太田)
(続く)