太田述正コラム#14712(2025.1.19)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その6)>(2025.4.16公開)
[日蓮とその守り刀]
「日蓮<は、>甲州身延山へ入山した際に、護身用として信者から贈られた・・・数珠丸・・・<という>日本刀<を>・・・所持し・・・守り刀<としていた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E7%8F%A0%E4%B8%B8
ということを覚えておこう。
仏教宗派の長で守り刀を所持したのは、空前のことではなかったか。
日蓮は、「いくさ(戦)への立ち合いを求め<、軍議で>発言することもあるべし」(コラム#13292)と述べたことがあるところ、戦闘に立ち合い、軍議に参加するために従軍している時に、味方が攻撃された場合、その攻撃が自分にも向けられれば、自衛のために自分自身もこの刀をふるって戦う決意だったのだろう。
この日蓮の顔色を無からしめたのは、後にも先にも、「僧衣の下に具足を着用し腰に太刀を佩く・・・画像」を残したところの、信長と石山合戦を10年間戦った、一向宗の顕如
https://www.ishikawa-rekihaku.jp/collection/detail.php?cd=GI00218
くらいだろうが、顕如の場合は、信長打倒のために積極的に戦ったわけであり、彼は、宗教家としてあるまじき人物だった、と言ってよかろう。
「・・・少し時間をさかのぼろう。
義昭追放の3年前、元亀元年(1570)正月、信長は、自分の支配下にあるとみなしている・・・21ヵ国・・・の大名・国人<(注8)>らに上洛命令を発した。・・・
これに<彼の直轄下にあった>尾張と山城を加え<た>23ヵ国が信長の勢力圏に入っているとみなしていたことになる。
(注8)「中世では幕府の支配に抗して地方で小規模な領主制を形成した地頭・荘官・有力名主の総称。郡ないし一国規模で行動し、状況に応じて守護の被官となったり、守護排斥運動の中心ともなった。国衆(くにしゅう)との実質的な違いははっきりしない。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E4%BA%BA-64164
「禁中御修理、武家(将軍)御用、そのほか天下いよいよ静謐のため」に自分が上洛するので、各々も上洛して御礼を申し上げ、馳走せよというのが命令の趣旨である。
実際、・・・かなりの大名・武士が上洛した・・・。・・・
信長の勢力下の23ヵ国は、領国の4ヵ国とそれ以外の国の2類型に分けてみなければならない。
後者のうち同盟国は厳密にはもう一つの類型とした方がよいが、家康は事実上信長に出仕服属の礼をとっているので、大きく分類すれば後者に含められるであろう。・・・
北条氏や今川氏らが領国に広く検地を実施して貫高制<(注9)>や統一的な知行制を行ったのに対し、信長は天正5年(1577)まで検地をおこなっていない。・・・
(注9)「中世の日本において、土地の収穫高を通貨単位である貫を用いて表した統一的な土地制度・税制・軍制のこと。・・・
しかし当時の日本は貨幣を自給できなかったことや鐚銭の問題もあり、貫高制の普及に伴い、それを維持するに十分な貨幣流通量を確保できなくなった。戦国時代後期には銀生産量の増加や西国流通経済の活性化などから、銭に代わって銀や米が価値の基本となりつつあったために貫高制は経済的に混乱し、やむなく米などによる代納も行われていた。そのため安土桃山時代においては、豊臣秀吉による太閤検地によって、知行高は支給される米の容積による「石」(石高)で表されるようになった。江戸時代においては貨幣の製造が行われたものの、石高制が維持された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%AB%E9%AB%98%E5%88%B6
北条氏が永正3年(1506)に検地をはじめるのに対し、70年の遅れがある。・・・
尾濃でも安堵した地は従来からの領主がそのままの支配を続けるし、欠所地ではもとの領主がどれだけの年貢・公事・夫役などを徴収していたかを百姓から申告させて(その申告内容を記したものを「指出(さしだし)」といい、中世に広く行われた)、それを新領主が継承する方式をとった。・・・
だから、土地制度の上で・・・<信長の>領国と安堵型大名領との間に本質的なちがいはなかったといえる。」(66~70)
⇒私は信長も秀吉も日蓮主義者だったと見ているわけですが、日本統一 → 対外的日蓮主義戦争遂行、までを自分の存命中にやろうとすれば、とにかく、急ぎに急がなければならず、だからこそ、信長は日本統一を急ぐために検地など後回しにしたのですし、秀吉は、対外的日蓮主義戦争遂行を急ぐために国産貨幣鋳造などすっとばして石高制(知行制)でお茶を濁さざるをえなかった、というのが、私の取り敢えずの見解です。
こう考えれば、信長が1575年のまだ41歳の時に家督を信忠に譲ったことも、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
豊臣秀吉が1591年のまだ54歳の時に「家督」を秀次に譲った<(注10)>ことも、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
(注10)「12月28日に、秀次は関白に就任して、同時に豊臣氏の氏長者とな<り、>・・・天正20年(1592年)1月29日、左大臣に補任された。2月には2回目の天皇行幸があり、秀次がこれを聚楽第で迎えた。これは秀次への権力世襲を内外に示したものと理解されている<し、>・・・12月8日<の>元号<の>文禄<への>改元<についても>、この時期に天皇即位や天変地異など特に改元すべきふさわしい理由はなく、これは秀次の関白世襲、つまり武家関白制の統治権の移譲に関係した改元であったと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
説明がつくというものです。
(秀吉に関しては、「天正19年(1591年)8月、秀吉は来春に「唐入り」を決行することを全国に布告し、まず肥前国に出兵拠点となる名護屋城を築き始め<、>文禄元年(1592年)3月、明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89 前掲
ことを想起すべきでしょう。
秀吉の心は、もう、支那に飛んでいたのだと・・。)(太田)
(続く)