太田述正コラム#14714(2025.1.20)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その7)>(2025.4.17公開)
「結局、信長において天下布武の構想は基本的に軍事制圧であり、自軍の侵略に対し味方につくか敵対するかの選択をつきつけ、敵対した者を討滅もしくは追放して勢力圏を拡大するという方策をとった。
そのさいに本国から周辺へとじわじわと征服地を拡大する方針をとったのが戦国大名の一般的やり方だったが、信長は義昭をかつぐことで一気に中央に進出して、将軍と天皇を利用して安堵型大名領を一挙に拡大した。・・・
安堵型大名領の支配の不安定性を信長も感じていたと思われるが、その弱さが信長を驚愕させる形で露出したのが、天正2年正月の越前一向一揆の蜂起であった。
それまで朝倉旧臣を「守護代」とし、他の旧臣も郡司のような格で各地の城に置くという一種の安堵型支配方式をとっていたが、再制圧後はそれを改め、自己の直臣を大名として入れた。
領国尾濃とも安堵型大名領とも異なる支配方式の採用である。・・・
同時に将軍に依存していた従来の安堵型大名領方式を克服する道が開かれた。・・・
越前から検地がはじまるのも偶然ではない。
越前から帰国した信長はまもなく上洛し、11月4日に従三位権大納言に叙任され、同7日には右近衛大将にも任じられた。・・・
これより先の同年7月3日、信長は官位を与えようという天皇の勧めを断っていた。
しかし他方では、武井夕庵<(注11)>を二位法印に、松井友閑<(注12)>を宮内卿法印に、明智十兵衛光秀を惟任日向守にするなど、側近や有力家臣を任官させている。
(注11)たけいせきあん(?~?年)。「当初は美濃国守護・土岐氏、次いで美濃斎藤氏の道三、義龍、龍興の3代にわたって右筆として近侍する。弘治元年(1555年)、道三が義龍を廃嫡しようとした際は・・・義龍についた。さらに義龍が弟・孫四郎、喜平次を殺害し、道三に反逆した際も従い、道三と袂を分かった(長良川の戦い)。
永禄10年(1567年)より、斎藤氏を滅ぼした織田信長に仕えて右筆及び側近官僚(吏僚)となり、客の取次や京都の行政官の一員として活動した。また検視、重要時の奉行や使者も務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E4%BA%95%E5%A4%95%E5%BA%B5
(注12)まついゆうかん(?~?年)。「松井氏は、友閑の祖父の松井宗富が室町幕府8代将軍・足利義政に仕えて以来、代々の幕臣として仕えていた。友閑は12代将軍・足利義晴とその子・義輝に仕えたが、永禄8年(1565年)に永禄の変で義輝が三好三人衆らによって殺害されると、後に織田信長の家臣となった。
永禄11年(1568年)の織田信長入京後には京畿の政務にあたり、織田氏の右筆に任じられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E5%8F%8B%E9%96%91
この時明智光秀に惟任<(注13)>という九州の名族の名を名乗らせ、日向守に任じたというのは、九州平定の強い志向を示すもので、ちょうどこのころを機に秀吉が筑前守を名乗るのも同様である。・・・
(注13)「鎮西九党は九州で強い勢力を持っていた9つの武士団を差・・・すが、書物によって異なる・・・。
『書言字考節用集』=少弐、大友、惟任、惟住、秋月、島津、菊池、原田、松浦
『武家職号』=大友、秋月、惟任、惟住、戸次、山澄、菊池、原田、松浦」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11144103096
なおこの時の天皇側からの任官の働きかけは、同年5月の三河長篠の戦いで信長・家康軍が武田勝頼に圧勝したのをうけて出てきたものであった。・・・
そして・・・11月7日嫡男信忠を秋田城介に任官させた。
征夷あるいは北方の支配を意識してこの名乗りを望んだのであろう。
その上で、11月28日、信長から信忠への家督譲与が行われた。・・・
信長の本国ともいうべき・・・尾張国・美濃国を信忠に与え、・・・信長はみずからの居城を安土に築くことになるのである。・・・
信忠を尾濃の大名としたことは、柴田勝家らを越前の大名としたことと同質であり、それによって信長は明確に自身を彼ら大名の上に立つ統一政権(=公儀)として位置づけようとしたのである。
そのために信長は官位についた<のだ>。」(70~74)
⇒家督まで譲られた信忠と越前一国全体すら与えられなかった勝家とは「同質であ」るはずがないのであって、信忠が統一後の日本の最高権力者となることを信長は見据えていた、と、私は見ているところです。
その信長が、任官したのは、自分の部下達を任官させたので、自分も形の上でそうしただけのことであって、すぐ、辞任することを最初から予定していた、というのがかねてよりの私の見解です。(コラム#省略)
言うまでもなく、それは、天皇や信忠らに累が及ぶことがないよう、私の言う、信長流日蓮主義の形で、対外的日蓮主義戦争を遂行する目論見であったからである、とも。(太田)
(続く)