太田述正コラム#14716(2025.1.21)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その8)>(2025.4.18公開)
「・・・そして正三位・内大臣、・・・従二位・右大臣・・・天正6年1月には正二位となった。・・・ ところが天正6年4月、信長は一転して右大臣の職を辞し、以後官職につくことはなかった。
信長には政権構想に迷いがあり、・・・死ぬまで政権の形を模索し続けていたように思う。・・・
⇒私見では、信長に迷いは基本的になかったのであって、彼は、日本での政権になど興味はなく、ひたすら、信長流日蓮主義の対外的遂行に向けて邁進していたのです。(太田)
関所廃止<を開始したのは、彼の>上洛直後<のことだった。>・・・
<信長が推進した>関所廃止・道路整備は流通の発展を促す政策だ。
その意味では重商(主義的)政策といってもよい。
国内の流通を発展させ、その動脈中の拠点都市を全国にわたって掌握して金銀を集積し、貿易を管轄下におく(その志向がキリスト教布教許可になった)というのが信長の初期の統一政権像の中心部分だったのではないだろうか。
『長篠合戦図屏風』をみると、騎馬の信長の前の3人の歩兵がもつ幟旗のそれぞれに一個ずつ永楽銭が描かれている。
信長の旗標である。
貨幣への強い関心を示す。・・・
信長は最初の楽市楽座令岐阜の城下町からやや離れた加納市場に出した。
さらに安土の新城下町に出した。・・・
<但し、>信長の楽市楽座政策は座を全面的に否定したものではなく、特定の市場や都市についておこなわれたのである。
他の戦国大名も同じである。」(74、86、89)
⇒形の上でこそ、楽市楽座は信長によるものが三番目ですが、六角定頼によるとされるその居城観音寺城の城下町石寺のものは既に存在していたものに言及したに過ぎず、今川氏真による永禄9年(1566年)のものは、今川氏家臣の大規模な離反が起きていたという背景下、「在地領主による独自の諸役徴収・・・を禁止して市の平和を回復する」ためにとられた緊急避難的措置であったと考えられる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E5%B8%82%E3%83%BB%E6%A5%BD%E5%BA%A7
のであって、永禄10年(1567年)の信長によるもの(上掲)こそが、為政者によって出されたものとしては日本最初の楽市楽座であったと言ってよいのではないでしょうか。
では、それがどうして岐阜近郊においてだったのか、です。
「斎藤道三<の父は、日蓮宗の>・・・京都妙覚寺で得度を受け、・・・僧侶となったが、還俗し・・・僧侶時代の弟弟子、常在寺の南陽坊(日運)を頼り、長井長弘の家臣となることに成功し・・・次第に頭角を現し<、道三に>・・・家督を<譲った。>・・・道三の墓所は・・・常在寺にある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%81%93%E4%B8%89
ことから、美濃、就中岐阜及びその周辺には日蓮宗信徒が多かったと思われる上、「当時の京都は・・・特に町衆(まちしゅう)と言われる、裕福な商工業者に・・・日蓮宗・・・信徒が多く、・・・洛中に二十一ヶ寺の本山を擁し、「皆法華」とまで称され<、>・・・京都に住む人の七割が日蓮宗の檀信徒になっ<ていたとの説もあるくらいであり、>」
https://temple.nichiren.or.jp/5011103-gokokuji/2012/04/id33/
この1567年に美濃平定を成し遂げ、翌年の上洛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7 前掲
を見据えていた信長は、京都の「輿論」を引き付けるためにも、自分の自由な商工業の振興政策を、(幟旗に永楽銭を描くと共に、)楽市楽座を設置するという形でもってアピールすることが望ましいと考えたのだと私は思うのです。(太田)
(続く)