太田述正コラム#14720(2025.1.23)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その10)>(2025.4.20公開)
よく訓練された戦闘能力をもつ馬廻を城下に住まわせ、すぐに動員できたからこそ、信長は柴田勝家クラスの武将たちの到着を待つことなく駆け出し戦えた。
彼らは信長の身辺警護のみならず、信長の作戦の実行部隊、時に主力部隊ともなった。
検使として前線に派遣されたり、堀秀政のように信長の小姓衆・馬廻衆を指揮することもあった。・・・
菅屋長頼<(注17)>も信長に重く用いられ<た。>・・・
(注17)すがやながより(?~1582年)。「別姓を名乗っていた信房がその功績により織田姓を与えられたと伝わる・・・織田信房の子として生まれた。・・・馬廻ながら・・・使いを務めたり、陣中を訪れた<人物>を取り付いだり・・・、前線には出ず信長の傍らで側近のような役割をしていたと思われる。・・・
天正6年(1578年)1月29日、織田家弓衆である福田与一宅が失火した際に与一が安土に妻子を呼び寄せていない事が判明し、信長は長頼を奉行として調査を命じた。長頼は直ちに弓衆・馬廻などの台帳を製作してそれぞれ家族を安土に呼び寄せているかどうかを確認し、その結果弓衆で60人、馬廻にも60人の計120名が家族を郷里に残したままにしている事を洗い出した。信長はこの120名の私宅を織田信忠の兵によって焼き払わせ、住む場所を失った家族は安土に半ば強制的に移住させられ、更に罰として安土城の南側の江の内の新道普請を行わせた上で120名を赦した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%B1%8B%E9%95%B7%E9%A0%BC
馬廻衆の中には商業を営む者もいた。
岐阜で山科言継に宿を提供した大脇伝内<(注18)>は塩売で馬廻だった。
(注18)「<彼の>塩屋<は>旅籠を兼ねていて、宣教師のルイスフロイス<も>泊まった二階建。店先では盤双六で賭博をする人たちで騒がしかったようです。」
https://blog.goo.ne.jp/nobunaga1567/e/56d99e97a5df30036ffe4942689b1866
「<大脇>伝介は伝内の同族で、安土城下(現滋賀県近江八幡市)で塩屋を営んでいたと考えられており、大脇一族は、岐阜から安土にかけて手広く塩屋を営んでいたようです。」
https://www.shiotokurashi.com/kokontozai/gifu
「当時,信長の本拠だった新興都市の安土では,折伏の談義僧でならした普伝日門の布教によって法華宗が猛烈にのびていた。また,信長が当時その統治に腐心した京都や堺でも,町衆社会に法華宗が大きな勢力をもっていた。・・・安土宗論・・・は浄土宗の僧と法華信徒の問答に始まったが,信長の命で,両宗を代表する高僧らの対論となり,・・・法華宗の・・・敗北となって決着した。・・・建部・・・紹智・・・,大脇<伝介>,普伝・・・は斬られ,頂妙寺日珖(につこう)ら対論出席者は満座の中で袈裟をはぎとられ,なぐられた。しかも宗論のあと,信長は京都の法華宗本山13ヵ寺から黄金2600枚という莫大な償金をまきあげ,また詫証文をとって浄土宗の本山知恩院に与えた。・・・
<これ>を契機として、日蓮宗では従来の強引な布教態度が姿を消すとともに、寺院を離れて活躍する伝道僧の行動が著しく制限されるようになった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%AE%97%E8%AB%96-26018
信長の側室で信忠・信雄らの生母生駒氏<(注19)>の兄生駒家長も馬廻で、永禄3年9月に信長から馬一疋分の荷物の自由通行を認められている。」(116~118)
(注19)生駒吉乃(いこまきつの。1528?~1566年)。「尾張国と美濃国の国境付近で両国の通商に携わっていた生駒家宗(蔵人)の娘。(愛知県江南市出身)『前野家文書』は初めの夫を土田弥平次とする。弘治2年(1556年)に夫が戦死し、実家に戻っていた後に信長の側室となったとされ<、>・・・信忠(諸説あり)・信雄・徳姫(諸説あり)の母とされる。・・・
実家の生駒家は馬借を家業としていたといわれ・・・屋敷は近隣はもとより遠方からも多種多様な人の集まる場所となっており、信長は生駒氏の冨と財力と情報力を求めて近づいたともいわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A7%92%E5%90%89%E4%B9%83
⇒京と信長の本拠の安土のそれぞれの状況が互いに連動している様子が見て取れます。
京で大流行りだった日蓮宗ですが、大脇伝介のみならず、彼と同族の大脇伝内も、そして、生駒吉乃もまた、日蓮宗宗徒であった可能性がありますね。
信長の正室であった濃姫も父親譲りの日蓮宗宗徒であって不思議ではなく、だとすれば、宗徒に囲まれていた信長も事実上の宗徒、また、(恐らくですが)生みの親の吉乃と(多分ですが)育ての親の濃姫の影響下で信忠もまた事実上の宗徒であった、ということになりそうです。
いずれにせよ、安土宗論の後の信長の日蓮宗への厳しい措置は、信長の日蓮主義戦争を契機として東アジアに伝播することになると(信長の頭の中で)目された同宗に対する愛の鞭だった、と、私は見ています。(太田)
(続く)