太田述正コラム#3255(2009.5.5)
<皆さんとディスカッション(続x477)>
<植田信>(2009.5.4)(http://8706.teacup.com/uedam/bbs
 –吉田ドクトリンと、トルーマン・ドクトリン–
 ジョン・ダワーの『吉田茂とその時代』の占領中の時期のところを見ていると、いったい、日本政府の独自性というものはあったのか、と疑問になってきます。つまり、ワンマン吉田首相は、はたしてワンマンだったのか、と。
 「ワンマン」という言葉が何を意味しているかにもよりますが、事実として何が起きたのかを見ていくと、ほとんどが占領軍の政策の追認であり、手足となって動いているだけです。
 その具体例、4点。
 1 中国問題。
 2 サンフランシスコ講和会議での吉田首相のスピーチの原稿を書いたのは誰か。
 3 1950年の警察予備隊、1951年の海上警備隊の占領軍による強制的立ち上げ。
 4 日本の経済をアメリカ経済と一体化してしまう政策。
 で、なぜかくもアメリカ主導でこのような政策が行われたかというと、冷戦でした。
 アメリカの最重要課題は、ソビエトといかに戦うか、ということになりました。1948年にジョージ・ケナンが来日して、マッカーサーの占領政策を査定したあと、1949年から「逆コース」が始まります。
 アメリカは占領途中で、政策を転換しました。
 日本はアメリカの冷戦戦略の中に組み込まれ、この点では、吉田政府はアメリカの政策に従うしかありませんでした。
 となると、吉田ドクトリンの正体とは何か、と疑問が出てきますが、もしかしたら、トルーマン・ドクトリンの日本バージョンだったのかもしれません。
 トルーマン・ドクトリンとは何か。
 1947年3月12日にトルーマンが議会で演説した内容です。
 原稿を書いたのはディーン・アチソンでした。エール大学の「スカル・アンド・ボーンズ」に次ぐ秘密結社のメンバーだったアメリカン・エリートです。
 ウォルター・ラフィーバーが述べています、
 「アチソンは、大統領による1947年3月12日の議会演説の原稿を起草した際、そのことに心がけた。演説効果を増すために、世界を<自由を求める諸国民>と<恐怖や圧制・・個人の自由の抑圧>に立脚した政府との2つに分ける手法をとった。実際の演説のなかでトルーマンは、議会に対し、あなたがたはどちら側につくのか、と断固尋ねるのであった。第3の選択肢は与えられなかった。」『アメリカの時代』P.126
 何と見事にボーンズ・息子ブッシュ大統領が9.11同時テロの後に演説した内容と似ていることか!!
 世界を真っぷたつに分けてしまう発想です。
 で、吉田茂首相は、アメリカの側につくしかありませんでした。
 敗戦国の宿命です。
 吉田ドクトリンは、このようなアメリカの冷戦体制の中からでてきたわけです。
 となると、問題は、1991年に冷戦が終わってからはどうなのか、です。
 吉田ドクトリンに、なおも意味があるのか。
 55年体制が終わり、自民党の迷走が始まったのがそこからです。
<新井信介>(同上)
 –アメリカの戦略・意思に日本が入れればよい–
≫日本を軍事的に守ってくれているのがアメリカであり、自衛隊の出自がそのアメリカ軍である以上、自衛隊の存在にノーとは言えません。
 一方、憲法9条をどうすることもできない、と。それを作ったのもアメリカ占領軍です。・・・
 日本人・・・は、アメリカのこの優柔不断を前にして、途方にくれています。
 なすすべもなく、それでもアメリカについて行くしかありません。≪(コラム#3253。植田信)
 人類史上最大・最強の殺傷兵器を持っているのがアメリカですが、その運用は、その時々の政権の戦略、すなわち、アメリカの国家意思によります。
 問題は、私たちがその戦略に対しなんら影響を与えられず、従うばかりだったことです。
 しかも、そうした状況であることを国民に正確に伝えられず、アメリカへの反発が感情的なポーズの次元から一歩も踏み出してこなかったことです。
 今の自衛隊が、一体、誰の戦略の指揮下にあるのか、アメリカなのか、日本国の首相なのか?
 アメリカ軍をダシにして、組織防衛のために何でもしてきたのが今までの自衛隊ですが、オバマの融和路線に、今、戸惑っています。
 経済・金融・科学技術・文化・治安・環境対策などを道具に、アメリカ戦略のなかに
 いかに影響力を構築するか、これを冷静に考えるべき。これこそ、日本の国家戦略です。
 今、オバマは、それを期待しているでしょう。また、胡錦濤も。
 軍事的に強圧的なら「アメリカがそんな考えなら、このことには協力しない。」と方針転換を迫る現実を、どの分野で、いかに作るか、がこれまでの課題だったはずです。
 それが、今では、アメリカ自身が変わりだしました。
 今のアフガンやイラン、そして、北朝鮮は、チャンスのはずです。
 しかし、既得権益化している今の防衛省は、国家としての独立という「国益」の基本を広げる、現実的で前向きな発想よりも、属国状態のままでも組織維持したいのでしょう。 国家の独立は、なにも「憲法改正」による、独自軍隊の確立のみが、その道筋ではありません。
 それは、周辺国との関係を考えたとき、多くの軋轢(経済的な損失など)を生む、あまりに遠い選択です。
 同じく、表面上は属国でも、とことんアメリカ国家自体を引きずり回す腹をもつこと。これが国家戦略でしょう。
 ただし、もし、アメリカ側から防衛関係のトップが、待遇面その他で懐柔されているとしたら、それもできないことになります。
<植田信>(同上)
 –オバマ政権は、その対日軽視によって日本人の対米依存を断ち切らせるか–
>国家の独立は、なにも「憲法改正」による、独自軍隊の確立のみが、その道筋ではありません。 それは、周辺国との関係を考えたとき、多くの軋轢(経済的な損失など)を生む、あまりに遠い選択です。
 いや、これは、戦後60年の実験結果が出ています。
 自国の安全保障を他国に任せると、どうなるか、という実験です。
 太田述正という日本人の存在がその実証結果を体験談として報告してくれています。戦後の日本が国防をアメリカに丸投げしたことで、日本人がいかに腐ったか、と。
 「権力は腐敗する、絶対権力は、絶対的に腐敗する」という格言(名セリフ)がありますが、自国を自分で防衛しない国民も腐敗する、と追加できるでしょう。
 90年代以降に頻発するようになった官僚の不祥事は、その実例です。
>表面上は属国でも、とことんアメリカ国家自体を引きずり回す腹をもつこと。これが国家戦略でしょう。
 いや、この発想は、まだ対米従属の中での発想のように思われます。
 日本国の国家戦略は、まずは、アメリカ抜きで立案すべきです。
 一億二千万人の日本人は、これからどうするのか、したいのか。国内に閉じこもるのか、世界に出ていくのか、などと。
 で、今は、・・・「列島遮断」など、取りようがありませんから、いかに国際社会に貢献するか、できるか、ということになるわけですが、この点では、戦後の日本はアメリカとその社会的な価値観で多くの点で共通項を持ち得ます。
 アメリカを最初から敵視する必要はありません。・・・
 ・・・ウォルター・ラフィーバーが指摘した通り、日米は「ザ・クラッシュ」の宿命を背負っています。社会のあり方が異なっています。
 あと、オバマ大統領の対日政策は、今後、興味深くなることでしょう。
 つまり、この人が日本をこれまでの大統領ほど重視するかどうか。
 もし関心が薄れてくれば、ある意味では、それは日本人への自立の促しです。
 もう対米依存はできないぞ、と。
 その意味で、オバマ政権のこれから動向は面白いでしょう。
<太田>
 連日のように、私の主張を念頭に置きつつ、真剣な議論を行っていただき、ありがとうございます。
 なお、オバマ政権の対日政策についての私の見解は、コラム#3125をご参照下さい。
<やいち>
 桜<TV>の対中国・リアル国防概論を見ました。
 中国が脅威になっているとの認識からこの番組ができたのでしょう。
 いろいろと中国の脅威を煽るのが目的のような番組で、その上で核をどう使うのか討論すべきとか、日本はどうするべきか考えなければと、言っているだけで、その先があるとは思えない話ばかりで、右翼自衛官の展望の無いのが良く分かります。
 太田氏の国際貢献を行うことで日本の平和と繁栄を支えるべきという話に対して、世界中が虎視眈々と覇権を狙っているのでそんな甘い認識は、無いと言った人が、政治家がすべて悪いと言っておりますが、この人たちの気に入る政治家というのも、おぞましいものがあります。
 アメリカ人は、尖閣諸島が中国に占領された時、ロスアンゼルスが火の海になるリスクを犯して軍を出すわけが無いと言ったと、いうことで危機を煽ってますが、それが本当であれば、これはその時点でお終いになるということで、お終いの話をいくらやってもお終いになるだけと思うのです。
 レイプの例え話が好きだという人もいましたし、こういうのばかり見ていると、リベラルな自衛官というのも信じ難くなります。
 軍隊が、何から何を守るのかで太田氏は、自由民主主義と日本文明を上げておられました。
 日本が、聖徳太子の昔から、自由民主主義の基礎を持っていたという、事はよく分かるのです。
 しかし田母神氏が、自衛官の士気を上げるために、村山談話の歴史認識を変えようとしている事のほうが、感覚的には分かりやすいです。1対1で殺し合いをする為には、自分に正義があり、相手が横槍を入れてきて私は被害者で犠牲者という様な感情がないと難しいということは理解できます。その為には歴史だって利用するのもひとつの道理です。人間、大概は感情を梃子にすると動きます。後は、損得ですが、お金が要りそうです。やくざでも戦争するのには大義がいるそうです。大義と言っても被害者になることにしか見えないです。ブッシュ前大統領は、フセインを悪魔と呼んでました。隣人を愛せよといいながら、悪魔と呼べば何をしてもいいという、宗教的な感情を利用したんだと思います。
 戦争するのですから、利用できるものは何でも利用していいと思います。
→コラム#3035で「隊舎での共同生活や、訓練演習等への共同参加を通じて醸成された仲間意識が、戦う動機付けになる、というのが世界の軍隊に共通する常識です」と申し上げたところです。(コラム#3054も参照のこと。)「歴史」だの「大義」だのは、あっても邪魔にはなりませんが、必要不可欠なものではありません。(太田)
 田母神氏は、軍人としては正常と思いますが、民間人にまで、どん詰まりの話を考えさせて、それで日本に未来があるとは思えないです。右翼の意識としては危機意識を持って中国を敵として対峙すれば、中国はひるむと思っているように見えました。
 北朝鮮の親分である中国とチキンレースをやって勝つ自信だけがあって、裏付けは無さそうな感じですね。
 太田氏は、安全保障の枠組みとしては、アジア版NATOを提唱していましたが、麻生外務大臣だったころの、自由と繁栄の弧もどこかに消えてしまいましたし、どっかを排除するような、枠は難しいのではないでしょうか。
 中共の問題点は、わかりますが、冷戦が終わって世界がグローバル化し、中共が経済力をつけてきた中で、是をはずす枠組みを作るエネルギーがあるとは思えないです。
→国連もあるわけですし、全欧安保的な信頼醸成の枠組みもあった方がよろしい。しかし、日米安保的な、共通の価値観を前提にした軍事同盟だって必要です。後は、2国間同盟がよいのか多国間同盟がよいのか、ということであって、私は多国間同盟をとる、ということを申し上げているだけです。(太田)
 韓国とは、もっと緊密になるべきだとは思います。
 問題はあるのでしょうが、国連のイメージが良い間に、国連活動の範囲を拡げるという考えのほうがいいと思います。
 小沢氏の考えなので気に入らないのでしょうが。私は、是と小選挙区制の導入は、評価しています。
→詳しくここでは申し上げませんが、小沢の国連中心主義は、吉田ドクトリンの変形にほかならず、そんなものでは、自衛隊は引き続き存在意義がない状態が続くことになります。要は、吉田ドクトリン(=米国の属国であり続ける国家戦略)を是とするか否とするかなのです。(太田)
 石井一代議士が講演会で、昔の自民党の自慢話として台湾派と中国派の議論の遣り合いは、すごいものだったと言っていましたが、誰にもわからないところでやっていた話で、今は自民党の中だけでできなくなっており、小選挙区のおかげで表に出てきていると思っています。
 公約も昔は、破るためにあるといいことで、公約を信じるということは無かったので、マニフェストで政策を競うなんて信じられませんでした。
 麻生総理は、民主党との対決路線を取っていることは評価出来ます。
 ずっと、支持率が落ちてきて、西松事件で逆転して大騒ぎというのも民主主義だなーと思います。昔は、支持率1桁でも総理大臣務まっていたそうですが、現在では、そういかないでしょう。
 戦争中の大政翼賛会の事情は、ナチズムと比べれば、民主主義ということかもしれませんが、民主主義を守るつもりなら、そんなことをする必要ないので、民主主義をやりたくなかった結果であり、民主主義とは思えません。小沢氏の大連立には、がっかりでした。
→大政翼賛会は、有事における挙国一致内閣的なものであり、民主主義の否定では全くなかった、実際民主主義は機能していた、というのが私の主張です(コラム#47、918、2925)。(太田)
 選挙の為に、代表変えても、支持率は変わらないと思います。
→小沢不祥事が明るみに出てから、民主党の支持率は落ちてきています。代表を変えれば、支持率は確実に変わりますよ。(太田)
 自民党が自分で支持率を落として、民主党が良く見えただけですから。自民党は、官僚を悪役にして、官僚組織と対決する政治という格好を作って見せており、結構効果を挙げているように見えます。
 橋本知事等も霞ヶ関を悪者にしております。
 ボトムアップは、下からだけではなく組織ですから上の意向も働きどこで何が決まるかというのは、そんな単純な構造であるとは思えないのですが。政府、与党、官僚の関係も訳分からんです。
→単純です。政府=与党であり、官僚はその手下に他なりません。(太田)
 我が村に於いても、農協の言うこと聞いていたら駄目になる、農協の言うことの反対をやっていこうという話にはなるのですが、石破大臣は、農家の味方ということになります。
 政局に政策も国民も絡んでこそ民主主義と思います。
<太田>
 力作の投稿、ありがとうございました。
<γΑγΑ>(「たった一人の反乱」より)
 優秀な歴史学者が出てこない限り、南京大虐殺やその他の物議を醸す問題についてはピリオド打たれないような気がする。
 そして、優秀な歴史学者って出てこないだろうな・・・
 周りは公認会計士や弁護士になるための勉強や国1に向けての勉強してる中で、大学で真面目に歴史研究したってねぇ・・・
 で、周りがそれなりの立場について、それなりの年収を得てる中で、自分は貧乏学者になりたいなんて人はいないでしょ。
 アメリカやイギリスはどうなのかな。
<太田>
 私のコラムをお読みになっておれば、米英では、優秀な歴史家やジャーナリストが輩出していることを痛感されるはずです。
 吉田ドクトリンは、戦後日本の政治や官僚機構を堕落させただけではなく、近現代を扱う歴史学やジャーナリズムもまた堕落させた、というのが私の見解です。
<KT>
 憲法記念日(昨日)の事について、何か言及があると思ってたのですが、特に気になるのは無いのですね。
改憲(http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090503/plc0905031932009-n1.htm)
護憲(http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2009050200164&genre=C4&area=K00)
 自分はこれが気になりました。
 「・・・これまで憲法集会といえば「9条」が中心。ところが、格差の広がりで失業や住居を失う人が急増、「健康で文化的な最低限度の生活」が揺らいでいると憲法25条がクローズアップされた。・・・」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009050402000061.html
 憲法25条「生存権」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC25%E6%9D%A1
<太田>
 憲法第25条については、「現行の日本国憲法第25条の規定を取りあえずは具体的な権利を規定しているほど具体的に記述されていると考えると具体的権利説に至る。また、他の人権規定と比較すると具体的な内容を規定してはいないが、行政の恣意的な解釈を防止するために取りあえずは生存権に権利性を認めようと考えれば抽象的権利説に至る。しかし、他の人権と比較して生存権は具体的な立法を必要としなければ具体的な内容が明らかにならないから、(憲法の人権規定を無視するわけではないが)権利性は認められないと考えればプログラム規定説に至る。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E8%A6%8F%E5%AE%9A%E8%AA%AC
とされ、抽象的権利説が学界の通説であり、範例はプログラム規定説に立っていると見られています(同上)。
 私は、手続き的規定以外の、大日本帝国憲法及び日本国憲法のあらゆる規定に規範性はない・・プログラム規定的なものである・・と考えるに至っているのはご承知のとおりです。
 そう考えれば、現在の日本で、憲法改正または憲法擁護を叫ぶこと自体がナンセンスだということになります。
 
<Eman>
 <コラム#1841>「「人種」は実在するのか(その1)」<を読み>ました。
http://blog.ohtan.net/archives/51104405.html#comments
 『「人種」は社会的な概念なのであって生物学的には実体がない』というのは、人種分類の細部にまで及ぶような見解ではない。 
 これは、白人(ヨーロッパ系白色人種で中東系の者などを先祖に持たない者)が時にアシュウケナジー(生物学的にはヨーロッパ人種–これは一般的表現ではないが.–であるようなユダヤ人)を非白人として扱うことを「人種差別」の一つと世界的にはとらえることに起因している。
 コケイジャンとそれ以外との分類には、確かに実体がある。– コケイジャンの遺伝は劣性遺伝である。–  むしろ、黒色人種と黄色人種との間の分類(分別)においてで実体がない。
<太田>
 絶対に典拠を付けなきゃいけないケースですよ。
 さて、例えば、米国政府は、「人種(race)」別の統計をとっています(コラム#3244「米国における教育論議の現在」)。

 また、私自身、コラム#2995で「人種」によってスポーツ能力に係る遺伝子の種類の配分に違いがあり、事実、スポーツ能力に違いがあるとしても不思議ではない、という事実を紹介したところです。
 これに対し、米国では、人間は「人種」以外にも色んな点に着目して分類できるところ、能力に関し、「人種」別の統計をとる(発表する)ことは避けるべきだ、という主張があります。
http://www.slate.com/id/2217571/pagenum/all/#p2 
<さるべーじ>
 <コラム#2882>「米軍最高司令官としてのリンカーン(その2)」<を読み>ました。
http://blog.ohtan.net/archives/51363566.html#comments
≫土井氏にとって、リンカーンとは一体何なのだ・・・。≪(コラム#。太田)
 そこまで詳しくリンカーンが行ったことを知らなかっただけじゃないでしょうか?
 一般的にリンカーンの業績と聞かれれば奴隷解放ですし、単純に「可哀想な奴隷を助けたんだ凄いなー」みたいな感じだと思います。
<太田>
 そうでしょうね。
 そのへんにいるオバさんだったということです。
<コバ>
 米国の最新の研究によると、女子校で学んだ女性は聡明で自信を持ち、政治や学問の分野でも活躍しているとのことです。
http://jp.epochtimes.com/jp/2009/05/html/d94873.html
 記事の、「教育に関する研究者レオナルド・サクス(Leonard Sax)は、「(女子と男子が)同じ教室にいると、彼らの学び方は違い、行動も違ってくる」と言う。
 男子校や女子校の場合、クラス内における「典型的な男子・典型的な女子」といった役割から解放されるため、いわゆる「変わり者」とされる学生でも、クラスに馴染んでいるという。」という面から考えると、男子校、女子校というものも存在意義がしっかりありそうです。
 日本もこういった研究がどんどん進んで欲しいものです。
 また、構造的女性差別が一向になくならない日本社会
http://blog.ohtan.net/archives/51344901.html
http://blog.goo.ne.jp/toidahimeji/e/541df588ad60e6531d44ac925a9e9e74
http://blogs.yahoo.co.jp/masaaki_akaike/58537933.html
において、「変わり者」が様々な分野で活躍し、「典型的な男性・典型的な女性」といった役割を強迫的に要求されることが一刻も早くなくなることを切に願います。
<太田>
 この話、以前コラムでとりあげたと思っていたのですが、#2401でちょっと触れたくらいだったようですね。
 確かに、中学、高校は男女別の方がいいようですよ。
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太田述正コラム#3256(2009.5.5)
<天才はつくられる(その2)>
→非公開