太田述正コラム#3259(2009.5.7)
<皆さんとディスカッション(続x479)>
<植田信>(http://8706.teacup.com/uedam/bbs
 現在の日本をどう見るか。
 視点は2つ。
 対米従属と、対官従属。
 で、対策も、したがって2つです。
 1 対米従属になる最大の要因が、太田述正氏が言う「国防のアメリカ丸投げ」である以上、アメリカに依存することのないように日本が自分で国家安全保障の措置を取ること。
 2 官僚主権になるのは、日本人の「お上」意識に究極の原因がある以上、戦後の日本国憲法の基本原理である「国民主権」を徹底すること。
 戦後の日本に起きるすべての出来事は、この2つの視点から分析できます。
 そして、その対策も、たった2つです。
 ・・・長いことかかって、以上のように簡潔に整理できました。
 そこで、応用問題です。
 岡崎久彦の『吉田茂とその時代』をどう見るか。
 外交官だった岡崎氏は、国家の安全保障がアメリカに依存していることの意味を十分に知っています。知っているというか、体験済みです。日本側に何ら決定能力はない、と。
 戦後60年の日本外務省の歴史は、国防を外国に依存した国がどうなるか、という実験の歴史であり、見本です。
 戦後の日本はアメリカ占領軍による日本改造政策からスタートしました。
 日本国が主権を回復したのは1952年4月28日です。降伏調印をしたのが1945年9月2日ですから、アメリカ軍の日本占領は7年続きました。
 2002年になって、岡崎氏が戦後を振り返ります。
 「何が本当の占領の後遺症なのであろうか。言葉を換えれば、あの7年間という異常に長い占領さえなければ、いまの日本はこんなことになっていない、といえるようなこととは何であったのだろうか。」『吉田茂とその時代』P.316
 これは面白い疑問です。
 戦後の日本はアメリカ占領軍によって改造されました。
 戦前の日本軍の解体がそうであり、憲法がアメリカ製です。東京裁判があり、教育制度も変わりました。
 では、その後、時間が経過するうちに、何が本当の占領軍が日本を改造したものとして残ったか、と岡崎氏が問いを出しました。
 答え。
 「それは結局、憲法第9条と東京裁判史観の2つに絞られてくる。
 そのほかの種々の左翼偏向は、軍国主義の偏向と同じように多分に日本人自身の責任である面は避けがたく、日本人が歴史の流れによって自ら克服すべきものである。
 しかし憲法9条と東京裁判の判決には日本国民の責任はない。」前掲P.317
 岡崎氏の答えは、憲法第9条と東京裁判の2つです。
 私は、9条はそうだと思いますが、東京裁判は意味がないと思います。
 これに引っかかっているのは、渡部昇一氏や西尾幹二氏など、おもに軍国少年だった人たちです。というのも、彼らには東京裁判は、若き日の衝撃的体験でした。
 しかし戦後世代には東京裁判は関係ありません。
 どうせそんなものはアメリカ占領軍のプロパガンダだったのだろう、で終わりです。
 それに対して、戦後世代にとっての現実は、自衛隊の存在です。
 これは何か。
 で、調べていけば、戦後の自衛隊の出自は、アメリカ占領軍が起源ではありませんか。
 アメリカは、一方で憲法9条を作り、他方で、自衛隊を作りました。
 そして、そのまま帰国してしまいました。
 日本人は「ダブルパインド」のまま残されました。それが戦後世代が今も直面する戦後の現実です。
 そこで疑問です。
 戦後世代はなぜこのダブルバインドを解決できないのか。
 その結果として、太田述正氏が言う防衛庁・省の存在理由問題です。
 「防衛庁に入って10年を過ぎたころ、ふと気がつくと、いつの間にか、かっての多数派・少数派いずれの考えの人も、ほとんど内局にはいなくなっていた。残った大部分は、ただただ生活の資を得るために防衛庁に入り、そこで仕事をしているふりをしている人々だけだった。何事によらず、真面目な議論など行われなくなっていた。」『防衛庁再生宣言』はじめに 5頁.
 防衛庁に限らず、戦後60年の日本現代史は、国家の安全保障を外国に丸投げした国がどうなるか、というケース・スタディーです。
<太田>
 連日、まことにご苦労様です。
 前にも申し上げたように、現在の日本には、「対米従属」問題は存在するけれど、「対官従属」問題など存在しません。
 その歴史的な検証をこの前ちょっと試みましたが、それはさておき、前者の「解決」のためには憲法の政府解釈の変更と安保条約の改定が必要不可欠であるのに対し、後者の方は、法的に官僚機構は政権政党・・すなわち政治家・・の手足でしかないからです。
 つまり、政治家、ひいては選挙民たる日本国民がその法的権限を行使する気になればすぐさま後者の「問題」は雲散霧消するわけです。
 ではどうしてその気にならないのか?
 私は、その原因を「対米従属」に求めています。
 つまり、外交・安全保障の基本を米国にぶんなげ、米国の属国になっているため、中央政治は地方政治並のことしかやっていない、というか、やる必要がない状態なのです。
 露骨に言えば、細々とした技術的なことしか中央政治もやっていないわけです。
 だからそんなもの、政治家、ひいては日本国民は官僚機構に丸投げ的下請けに出している、ということなのですよ。
 ですから、「対米従属」さえ解消すれば、「対官従属」の方は自然に解消するはずです。
 
<youtube アニメと姑2人とダンナと私>(http://vppn69020.godownloadmusic.com/tzf8ue6b/2009/05/youtube_45.html
<「息子よ」 藤岡藤巻>
 太田述正氏のコラム#3235(2009.4.25)で、読者の戸愚呂(妹)さんが紹介していた歌。
 アニメ<崖の上のポニョ>の音楽を担当した藤岡藤巻(藤岡孝章氏+藤巻直哉氏)の感動的(!)作品。
 人生の一面を中年親父が中学生(?)の息子に訥々と語りかける。
<太田>
 私のコラムが意外な所で反響を呼んでいますね。
<ΑΔΑΔ>(「たった一人の反乱」より)
≫ではなぜそのシステムができてしまったのか?を考えるといいよ≪(コラム#3257。ΑΑγγ)
 宿題かいな?w
 査読の無い寄稿や、××新聞に載りました的なことを業績一覧を書くことは文系でも理系でも別に問題ないんだけど、学術論文以外のおまけ的業績が主要業績になる文系の教官の存在って…、理系出身だから、全然分からないんだよね~。
 想像の範囲だけど、理系は博士号がないと基本的に助手までしかなれなかったけど(今は博士号がないと助教(昔の助手)にもなれないのが標準みたい)、文系の博士号は研究の集大成的なものでハードルが高すぎたため(*1)、かつ、大学教官は実質公務員で年功序列なので、そろそろ助教授にorそろそろ教授に昇進させましょうか(*2)、ってな感じで、文系は業績・博士号なしでも助教授or教授になれてしまった。
 その結果、研究実績・研究力不足の人でも助教授or教授になってしまった、ってことかな~?
 私の回答どうですか? ΑΑγγ先生、模範解答お願いします!
*1 http://www.educa.nagoya-u.ac.jp/graduate/edu/study_d.html
 「日本では従来、文科系の研究領域での博士学位は、自分の学問体系を樹立したような大学者、いわゆる碩学泰斗に与えられるものだとみなされていた。
 そのため文科系では、自分の背の高さまで積み上げられるほど本を書いてはじめて学位が取得できるなどとさえ言われることもあった。」
*2 http://www.ims.ac.jp/publications/letters52/332.pdf
 「内部昇進を制度上許すと、当事者にとっては、昇進をさせてもらうために、上の教授の「機嫌を気にする」ようなことになるか、または、昇進の可否を決定する教授側にとっては、路頭に迷うようなことはできないと、安易な昇進を結局は許してしまうことになりかねないのである。」
<太田>
 私はインセンティブ論から説明しようとしたのに対し、制度論から説明しようとしたわけね。
 太田コラムの読者には大学の先生や研究者の方もたくさんおられると思いますが、ぜひご意見をお寄せください。
<奥州人>
 コラム#3239に取り上げられているNHKのJAPANデビューに関して、メルマガ「台湾の声」に100年前のロンドンタイムスが転載されています。当時の日本の台湾植民地政策がいかに欧米に衝撃を与えたかが伺えます。
http://www.emaga.com/bn/bn.cgi?3407
 恥ずかしながら、私は日本の台湾統治についてまったく知識がなかったので、上記の記事はとても勉強になりました。
 また、当時の日本が台湾統治にいかに真摯に、誠実に取り組んでいたかが感じ取れました。そして、その苦労は計り知れないものだったのだろう、という感想を持ちました。
 ちなみに太田さんはコラム#3159
http://blog.ohtan.net/archives/51346827.html
で、「・・・ひょっとして北東北人の意識はまだ蝦夷の時代のままで日本人になりきっていなかったのか、と苦言を言いたくなります。ちょっと言い過ぎたか・・・」と北東北人をくさしてますが、当時台湾総督府民政長官としてインフラ整備、経済改革に活躍していたのが小沢民主党代表と同郷である、後藤新平
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
です。
 というわけで、一応北東北人にも優れた人物がいたということで、小沢代表がらみで下がった北東北の株を少し上げときます。(太田さんはコラム#52の東北地方論で先覚者として後藤新平を挙げておられますね。)
 小沢代表の地元、奥州市では高野長英、後藤新平、斉藤実、は三偉人として有名ですが、太田さんはコラム#52では先覚者として高野長英、後藤新平を取り上げておりますが、斉藤実を取り上げておりません。それはなぜなのでしょうか?彼には先覚者たる業績がなかったという解釈でさしつかえないでしょうか?
 よろしくお願いします。
高野長英
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E9%95%B7%E8%8B%B1
斉藤実
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%9F
<太田>
 お示しの
http://www.emaga.com/bn/bn.cgi?3407 
を開いて、更に「2009/05/05-07:05 10125 「台湾の声」【NHKのウソを暴く百年前のタイムズ】蛮地台湾を近代化した日本人」をクリックすればタイムスの記事が出てきますね。
 この記事は、1~2年前にも「台湾の声」でとりあげられ、その時は邦訳しか載っていなかったので、原文を求めてメールで送ってもらったことがあります。
 さて、高野長英(1804~50年)は水沢藩医で武士(上出ウィキ)、後藤新平(1857~1929年)にとって高野長英は大叔父(上出ウィキ)で、父は水沢藩士、
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/79.html
齋藤實(1858~1936年)は水沢藩士の子ですから、いずれも弥生人たる貴族の系譜に連なる武士の家に生まれたわけで、蝦夷を征服した側の人間ですね。
 これに対し、小沢一郎の父、佐重喜は、水沢の貧しい農家出身であり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%A2%E4%BD%90%E9%87%8D%E5%96%9C
小沢は、縄文人の系譜に連なる蝦夷の末裔、ということになるのではないでしょうか。
 私が、齋藤を先覚者にカウントしなかったのは、「新渡戸稲造(花巻)や吉野作造(宮城県古川)」さえ、「先覚者として認めるべきかどうかは微妙なところです」とコラム#52に記しているところから、ご理解いただけるのではないでしょうか。
 齋藤ですが、彼が、軍官僚として海軍大臣に上り詰め、かつ朝鮮総督、首相、内大臣を歴任したことは、戦前の軍官僚の上澄みの経歴としては決して珍しいものではありません。
 もとより、齋藤のリベラルな姿勢は、だからこそ二・二六で標的の一人となり暗殺されることにもなったわけで、高く評価すべきではありますが・・。
 
 本日も、紹介すべき記事がないので、比較的最近発見して感慨にふけらされた歌を二つご紹介するにとどめます。
池上線
http://jp.youtube.com/watch?v=EtbamP3Ve-U&feature=related
部屋とYシャツと私
http://www.youtube.com/watch?v=re3PzspwEWo
 どうして感慨が?
 前者は私が沿線に住んでいるからということにしときましょう。
 後者は、想像にお任せします。
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太田述正コラム#3260(2009.5.7)
<シリアついに豹変へ?(その1)>
→非公開