太田述正コラム#3267(2009.5.11)
<皆さんとディスカッション(続x483)>
<MS>
–6月6日オフ会–
皆様、
太田述正オフ会を下記の日時・場所で開催いたします。
—
太田述正オフ会(一次会)
日時:6月6日(土)
9時30分~16時30分(昼休憩12時~13時)
場所:大井第三地域センター
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/menu000007300/hpg000007215.htm
会費:500円
注:
一、途中参加大歓迎。
二、2次会を午後五時頃から品川駅(仮)付近で行う予定。
1次会の都合の合わない方は2次会のみの参加も大歓迎。
—
詳細なプログラムは後日お知らせいたしますが、
太田さんの講演、
ディスカッション・シリーズでおなじみの
「題名のない音楽会」/「日曜美術館」のスピンオフ企画、
前々回好評だった太田コラム・マニアッククイズコーナー
(豪華景品付き)、などなどを予定しています。
企画の持ち込みも大歓迎です。
オフ会ならではの太田さんの講演を聞けるのはもちろん、
太田コラムの話題や、さらには普段掲示板やメールではできないような
話題でも、太田さんともりあがれる貴重な機会だと思いますので、
興味のある方は是非参加を検討していただけるとありがたいです。
参加申し込みは、下記メールフォームからお願いします。
http://www.ohtan.net/meeting/
注:
氏名に関しては、参加者同士の親睦をはかる目的から、
原則お聞きすることにしています。
特例として女性で氏名を公表することに不安を感じられる方は、
ハンドルネームのみの参加でも結構ですが、
その際も太田さんには氏名をお伝えいただけると助かります。
氏名、メールアドレス、ハンドルネームを添えて、
ご連絡頂けると助かります。
連絡先:ohtan_off2″at”yahoo.co.jp(“at”–>@に読み替えてください。)
または:http://www.ohtan.net/contact/
(その他、不明な点がありましたら、お気軽に上記メールアドレスに
ご連絡ください(ハンドルネーム可)。)
それでは、よろしくお願いいたします。
<太田>
MS、KTご両名には、またまたお世話になります。
訂正です。
コラム#3265で私がルノワールに触れた部分ですが、彼の絵に付した番号の2と5を、以下のように相互に入れ替えて下さい。
2 大きな裸婦 (Nu sur les coussins) 1907年
5 足を組む裸婦と帽子(ブロンドの髪の浴女、座る裸婦)
(Baigneuse aux cheveux denoues) 1904-1906年
<植田信>(http://8706.teacup.com/uedam/bbs)
吉田茂はなぜ態度を変えたか。
幣原内閣が用意した憲法草案では、日本軍の存在は自明だったのに、その後、再軍備を断固拒否するようになったのはなぜか、という問題です。
といえば、この問題は答えがわかっています。
占領軍が、憲法9条を飲まないと、天皇がどうなるかわからないと脅したためです。
・・・
結論的に言えば、吉田茂の態度を変更させたのは、・・・国体の護持です。
敗戦直後の日本政府の最大の課題は、天皇をどうするか、でした。
どうするか、という意味は、いかにして戦後も天皇を保持するか、です。
アメリカは1942年のミッドウェー海戦直後にすでに「日本計画」を立案して、ほぼ戦後の日本に天皇を残す方針を出しました。
しかし、アメリカはその方針を内緒にして、天皇を交渉のカードに使いました。
天皇を保存したければ、アメリカ側が起草した憲法草案を飲め、と。
これで決まりです。
日本側は国民主権と戦力放棄という、当時の日本人にとっては奇想天外の憲法を受け入れるしかありませんでした。
それ以上に、天皇が日本国から消滅することが恐怖だったわけです。
いうなれば、これが不比等戦略がいかに深く日本人を拘束しているか、という典型です。
軍隊・戦力だって放棄してしまう、と。
さて、軍隊を持たなくなった日本国の首相はどうするか。
といえば、もう、わかりきったことです。
マッカーサーの言いなりになるしかないでしょう。
これが岡崎氏の答えです。
「吉田ドクトリン」なるものはなく、あるのは、「マッカーサー・ドクトリン」だった、と。
吉田茂は、ただただマッカーサーに従ったのみ、と。
・・・
岡崎氏の説では、何から何までマッカーサーがつくった戦後の日本の形です。
だから、吉田茂は免責です。
我が国の首相は、最高司令官が言うがままに、何もなすすべなく、従ったまで、と。
だから、吉田ドクトリンなどあり得ないのである、と岡崎説ではなります。
ということであれば、吉田ドクトリンとは、対米従属の原点であるとともに、その典型だったということになります。
そして、さらにその根本的理由を問えば、・・・国体の護持、です。
いったん「吉田ドクトリン」体制ができてしまうと、あとは、これを既成の事実として、誰もこれを変えることはできない、となったのが戦後の日本です。
そうすると、あとは、これを前提にしてすべてが発想されることになります。
そこから、なぜ戦後日本人は憲法9条と自衛隊のダブルバインドを解決できないのか、という私たちの疑問が出てきます。
答えは、幾つかあります。
思いつくだけでも、
1 岡崎久彦氏が説いている「左翼」言論。
2 丸山真男氏が説いた「平和憲法」は人類の「最先端憲法」説。
3 井沢元彦氏が説く日本人の「言霊」主義。
4 普通の日本人の多くが戦争を忌避しているという説。
こんな具合に、戦後の日本人が今もなお占領中に作られた体制をキープしていることの説明は幾つかあります。
では、私はどう考えるか。
というと、実務的で言えば、現に自衛隊が存在し、防衛省が存在する以上、憲法9条の文面を少しばかりいじるだけで事は済みます。
太田述正氏によれは、それさえも必要はなく、政府の憲法解釈を変えるだけです。
「新たな9条解釈はこうなる。『わが国は、(個別的と集団的とを問わず)自衛権を保有しており、この行使にあたっては、必要最小限度の武力行使ができる』」『防衛庁再生宣言』P.76
こんな具合に、簡単なことです。
新しく軍隊をゼロから立ち上げることもなく、憲法9条を改正することもなく(岡崎氏によれば、芦田修正が、自衛権も可能であるとの解釈ができるように工夫した、ということです)、政府がちょっと解釈を変えるだけです。
そこで疑問は、なぜ歴代の自民党政府はなぜこんな簡単なことができなかったのか、です。
事実を見れば、自衛隊という軍隊が存在する以上、問題は、文面であり、解釈にあり、ということになります。つまり、戦後の日本人は、なぜ、はっきりと自国の安全保障を担うのは自分たちである、と明言できないのか。
太田氏が自分の体験から自民党政府の態度を批判しています、
「自分の身を守ることなど、当たり前の話であり、どんな動物でも行っていることである。その一方で、動物が決してできない、人として一番尊い行いは、自らの命を顧みずに危機瀕している見ず知らずの他人を救おうとすることであろう。現行の政府憲法解釈は、いわば、他国(他人)のことを見て見ぬふりをしなければならないと言っているに等しい。これは政府によるエゴイズムの奨励であり、戦後日本の道義が廃れる大きな原因の一つになっていると私は思っている。」P.74
そう、日本人が正面切って自分による安全保障問題をすると明言しない理由が、もう一つありました。
5 仏教思想です。ジャータカ精神。
動物と人間を区別するものは何か。
ヘーゲルによれば、思考ですが、仏教思想によれば、違います。慈愛です。餓えたトラの前に、自分の身体を投げ出して、トラの餌になってやるという人間の慈愛の精神。
戦後の日本人は、ソビエトが日本に侵入したいのならしてもいい。ソビエトの前に日本を差し出そう、というジャータカの精神で生きてきました。それに対し、そんな発想はまかりならん、と日米安保を強要したのがアメリカでした。
さて、これから日本人はどうするのか。
6 私の考えは、日本人が安全保障を自前で行うと明言できるようになるには、一つのハードルをクリアする必要がある、というものです。
皇軍から国民主権軍へ、です。
この切り替えができるか、どうか。
私の考えでは、これが、すべての核心です。
で、予想は、当分、現状維持が続くだろう、です。
思想の転換は容易なことでは進みません。
<太田>
釈迦の前生譚としてのジャータカ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%AB
に示された考え方は、日蓮宗信者であった宮沢賢治の生き様と「グスコーブドリの伝記」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%89%E3%83%AA%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%A8%98
のような作品を貫く考え方であり、私に言わせれば、集団的自衛権行使の必要性につながる考え方でもあります。
ソ連の侵略を無抵抗で受け容れるなんてやわな考え方ではない、と私は信じているのですが・・。
また、敗戦当時の日本人にとって、戦力放棄はともかく、国民主権が奇想天外であったはずがありません。
英国や日本は君主主権、米国は国民主権ですがいずれも自由民主主義国であることは、大正デモクラシー以降の日本の憲法学者や官僚達にとっては自明のことであり、彼らは、君主主権と国民主権の違いなど、英国や日本にとってはほとんど意味がないことを熟知していたからです。
実際、敗戦後、美濃部達吉や宮沢俊義・・いずれも自由民主主義者・・を始めとする憲法学者の大部分は、国民主権を前提にして憲法を「改正」すべきだとは考えていませんでした。
http://plaza.rakuten.co.jp/kawamurakent/diary/200508180000/
<植田信>(同上)
左翼勢力はなぜ護憲したか。
「いまになって思えば、いわゆる護憲勢力というのは、反安保、反
自衛隊勢力である」 by 岡崎久彦
共産党だけではなく、大学教授も占領という現実を無視できた。
「核兵器の出現によって、戦争は道義的悪となった」 by 丸山真男
戦後日本が国防を放棄したことは、丸山氏の知力を空想の世界に追いやった。
「アメリカ丸投げ」構造は、丸山真男をして空想科学劇場の主人公にした
日本軍が解体されると、平安思想が復活した。
「非武装中立は、戦後の日本では〈論〉だが、平安時代は現実だった」
by 井沢元彦
東京裁判史観を捨てた後に、私たちの前に開ける展望。
東京裁判史観からおさらばしたら、日本人の歴史観はどうなるか。
これは、非常にワクワクする展望です。
第1に、もうアメリカ占領軍がなんだかんだ、どうしたこうしたという議論を行う必要がなくなります。これだけで日本人の知的エネルギーが前向きになります。
第2に、日本国の行く末を日本人が自分でデザインできるようになります。
1945年の夏に受け入れたポツダム宣言では、連合国が日本人の自主性を尊重するとなっていましたが、実態は、マッカーサー主導の占領政策でした。
吉田茂も、首相として、マッカーサーの言いなりになるしかありませんでした。
それも、戦後60年になる今、終わりました。
日本人が東京裁判史観を捨てれば、史観的には「戦後」が終わります。
戦後を終わらせるには、あと、憲法問題と自衛隊問題がありますが、これはまだまだ時間がかかるでしょう。
たとえば、平安時代になぜ日本人は軍隊と死刑を廃止したのか。
平安時代のあと、なぜ武士政権が誕生したのか。
武士政権のあと、なぜ王政復古が起きたのか。
武士と日本軍の関連性はどうなのか。
日本軍と自衛隊の関連はどうなのか。
等々、解決すべき課題がたくさんあります。
太田述正氏によれば、戦後の安全保障の「アメリカ丸投げ」構造は、防衛省はじめ官僚たちを腐敗させているとのことですが、それでも日本人は戦後体制を変えないわけですから、それには、何か大きな、深い理由があると考えられます。
ここを徹底的に解明して、問題を解決してからでないと、安全保障の面での「戦後」は終わらないでしょう。
<Chase>(http://blogari.zaq.ne.jp/fifa/)
安全保障アメリカ丸投げ政策の起源は太田テーゼとして今や著名となった我が国の安全保障アメリカ丸投げ政策であるが、その起源は、憲法9条論と絡めて意外に古いことが、井沢元彦氏や植田信氏らが、常々言及されている平安時代の桓武天皇の政策を踏まえれば看取される。
私は、やはり小室直樹氏のリフレインが若いころの頭に残っている。ちょっと紹介したい。ネットでなく著作から文字を書き写すことは骨が折れるが、氏の著書「アメリカの逆襲」から若干を引用してみる。
(引用はじめ)
戦争放棄ということは、外国にはまったく例がないが、日本にはちゃんと例がある。平和憲法は戦後の特産物ではないのである。
その第一の例が、平安朝においてである。桓武天皇は平安京に都をさだめるや、たちまち、延暦3年、少しの例外を除いて、常備軍を全廃してしまう。日本は、784年に、すでに戦争を放棄したのであった。
(中略)
そのうえ、戦争だけでなく、外交まで放棄してしまった。
当時の外交として最重要なものは対唐外交であるが、延喜4年、菅原道真の進言によって遣唐使を廃止し、ここに定常的な対唐外交は廃止され、それ以来、本格的なものとして復活することはついにないのである。
(中略)
平安朝時代の日本は、戦争も外交も放棄してしまったので、政治指導者はその分野において業績をあげることができない。業績をあげるどころか、やるべき仕事もないのである。
(中略)
時代は、摂関政治の確立、荘園システムによる経済システムの再編など、政治的にも経済的にも、歴史の転換期であり、難問は山積していた。それにもかかわらず、光源氏をはじめ、国政にあたるべき堂上の人々に、政治的関心も経済的関心もまったく見られないのである。
(中略)
軍事、外交、法と治安維持という国家であればいかなる国家であってもなさなければならない最小の必須条件に、平安王朝はまったく無関心であった。これが、日本国家の原型となり、フロイトの言う幼児体験のごとく、永く日本人の行動を規定することになる。
(引用おわり)「アメリカの逆襲」(126~130頁)
本件について植田信さんが、・・・「平安時代になぜ日本人は軍隊と死刑を廃止したのか」との問いを立てておられる。
井沢氏はその理由を、”当時の刑部省と兵部省が、軍事と警察は、もはや必要ないと考えた”とあっさり述べている。「日本史集中講義」70頁)。植田さんは、このような表層的な解釈には納得されないかもしれないが…。
<太田>
私は、縄文時代と平安時代と江戸時代を基本的に「軍事と警察」抜きの手弱女ぶりの時代と見て、これを縄文モードの時代と名付け、日本史は、縄文モードと、これと対蹠的な益荒男ぶりの弥生モードの時代が交互に訪れるユニークな歴史である、と考えるに至ったわけです。
さしあたり参照していただきたいのは、コラム#206、2200です。
<植田信>(http://8706.teacup.com/uedam/bbs)
<戦後の安全保障の「アメリカ丸投げ」構造<を>日本人は・・・変えないわけですから、それには、何か大きな、深い理由があると考えられます。>
しかし、東京裁判史観は違います。
今すぐにやめることができます。
冷戦が終わった以上、日本国内の左翼言論にも、その基盤が消滅しました。
というわけで、占領軍はいまはもういないし、占領軍の政策を主権回復後も護持してきた国内左翼の言論も消え失せています。
だから、東京裁判史観がなくなったら、日本人はいかなる史観を立ち上げるだろうか、という時期が来ます。
今から始まります。
これがワクワクする時代の開幕でなくて何なのか、と私は思います。
誰よりも一足早く東京裁判史観を捨てたのが岡崎久彦氏です。『吉田茂とその時代』を拝見して、私はそう思いました。
そこで、東京裁判史観から抜け出した人は、現代日本史をどう見るのか、ここが興味深くなります。
というと、ここはやはり岡崎氏といえども、「失敗」問題を最優先させています。
・・・
『吉田茂とその時代』P.323
岡崎氏の場合は、日英同盟の廃棄が大失敗だったとしています。
しかし、はたしてこれは失敗と断ずるべきものなのでしょうか。
「失敗」というのは、自分の側で何らかの主導権がある場合です。そのうえで、何かしらのミスがあって、日英同盟は廃止になってしまった、という結果になった、と。
しかし、ワシントン会議での日英同盟の廃棄は、アメリカとイギリスが望んだものでした。日本が出る余地はありませんでした。
こういう場合、「失敗」というべきなのか、と私は疑問に思います。
必要なのは、国際情勢が変わった以上は、その変わった情勢に対しての新しい対処の立案です。
で、クリスファー・ソーンの『満州事変とは何だったのか』と『太平洋戦争とは何だったのか』を読み始めたのですが、東京裁判史観を捨てた後に出てくるのが、ソーンが説明しているような当時の国際環境のなかでの極東事情です。
日本中心史観から、ちょっと視点をずらしてみよう、となります。
<ところで、10>日の日経新聞に、「パターン死の行進」の記事が出ています。
「第2次世界大戦中にフィリピンを占領した旧日本軍が捕虜を数日間歩かせ、多数が死亡したとされる〈パターン死の行進〉をめぐり、日本政府が駐米大使を通じ、元米兵捕虜の団体に謝罪していたことが9日、分かった。行進の現場〈パターン半島〉に日本が言及して謝罪したのは初めて。同団体の会長は『これまで長かったが、公式な正式の謝罪が得られてうれしい』と歓迎している。
この団体は〈米バターン・コレヒドール防衛兵の会〉で、会長はアリゾナ州立大名誉教授のレスター・テ二ーさん(88)。メンバーの高齢化で今月末に解散する。
謝罪は昨年12月、藤崎一郎駐米大使がテ二ーさんへの親書の形で通知。『我が国がパターン半島とコレヒドール島で悲惨な経験をした人々に、途方もない損害と苦しみを与えたことを心から謝罪する』と表明した。今年2月にも親書を送り、謝罪は『注意深い考慮の結果であり、日本政府の立場を完全に反映している』と補足した。」日経新聞2009.5.10
なにはともあれ、いいことです。
で、これと同じことを日本政府が日本国民に対して行えば、昨日整理した4番目の問題は解決するでしょう。
なぜ普通の日本人が戦争を忌避するか。
それは、たとえば山本七平氏の戦争体験談を見れば、簡単に分かります。
日本軍が主導する戦争など、二度としたくない、と誰もが思うことでしょう。
山本氏の体験によれば、パターン行進など、日本兵の行進に比べたら、なんてことはないものだったということです。
では、なぜ日本兵はその後その事実を沈黙し、アメリカ兵は今に至るまで主張し続けるのか。
答えの一つが、当時のアメリカ軍にとっては、ジープやトラックでの移動が当たり前でした。
一方、日本軍は大砲も人力で引いていました。日本兵にはそれが当たり前だったわけです。
同じことがアメリカ兵には虐待となりました。
技術の進歩の違いです。それと経済力の違いです。
・・・
・・・この問題が明白に解決されない限り、普通の日本人はいつまでも戦争を忌避し続けるでしょう。
そしてこの普通の日本人の戦争忌避が、もっとも強力な、太田述正氏の言う「吉田ドクトリン」が今もキープされている原因である、と私は考えます。
識者がなんだかんだと言っても、日本政府が普通の日本兵士とその家族に謝罪しない限り、戦後の日本国の安全保障問題の「アメリカ丸投げ」が続くことでしょう。
デモクラシーは普通の日本人が政治家を選ぶ政体ですから、識者の意見は少数意見でしかありません。だから、普通の日本人がいかに悲惨な体験をしたか、です。今も、戦争忌避が続くのは、そのことの直接の結果です。
<太田>
旧軍が降伏すべきところで降伏せず、いたずらに兵を玉砕させたこと等について憤りを抱いている復員者がおられるであろうと思いますし、また、絨毯爆撃や原爆投下で一般市民が多数犠牲になったことで、一般市民の間に戦争忌避感情が醸成されたとも思います。
(ただし、米軍が車両で移動するところを旧軍では歩かされたことに憤りを抱いている復員者がいるとは思いません。)
旧軍にとっても、米軍にとっても日本兵や日本の一般市民の命がいかに安いものであったか、ということです。
しかし、それだけで、戦後一貫して続く日本人の戦争忌避感情を説明できません。
例えば、
・・・<As for> the Battles of Rzhev, a series of offensives launched by Soviet forces against the Germans between January 1942 and March 1943. ・・・ <A Russian TV> exposed the number of Soviet soldiers killed, which was much higher than most Russians believed–around a million compared to around 500,000 on the Nazi side–and ・・・ <and also> a negative interpretation of Soviet tactics by, for example, showing how shocked German soldiers who had fought in the battles were at the way Soviet troops were thrown into the fight with little regard for their lives.・・・
http://www.time.com/time/printout/0,8816,1896927,00.html
と、ソ連だってソ連兵(やソ連一般市民)の命をムチャ粗末に扱ったにもかかわらず、ロシア人の間で戦争忌避感情は見られません。
先の大戦で日本は敗れたけどソ連(ロシア)は勝利した?
いや、それを加味したとしても完全に説明することはできないでしょう。
結局、既述の縄文/弥生モード論を援用することになるのです。
<δαδα>(「たった一人の反乱」より)
≫弱毒性でも死者が多数?(スペイン風邪)≪(コラム#3265。唯我独尊)
いや、トリに対して弱毒、ってことだったと思うよ。
人から人へ感染するうちに高病原性へと変異したそうで。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%97%E5%8E%9F%E4%B8%8D%E9%80%A3%E7%B6%9A%E5%A4%89%E7%95%B0
スペインかぜは抗原不連続変異を原因とする株によるものと信じられていたが、最近の研究ではトリのインフルエンザウイルス株の抗原連続変異により、ヒトに対して効果的に感染できるようになったために発生したものであることが示唆されている
<太田>
記事の紹介です。
「・・・民主党の小沢一郎代表が、西松建設の献金事件について国民に直接、説明する姿勢をいまだに見せていない。鳩山由紀夫幹事長が国民との対話集会の開催を進言しても、小沢氏の腰は重いままだ。・・・」
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2009051190065809.html
「・・・民主党の小沢代表が公設秘書の起訴後も続投していることに「納得できない」という人は71%で、「納得できる」22%を大きく上回った。
「納得できない」は前回調査(4月3~5日)の66%、起訴直後に行った前々回(3月25~26日)の68%を上回り、これまでで最高となった。・・・政党支持率は自民26.8%(前回27.2%)、民主23.4%(同24.2%)だった。・・・」
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090510-OYT1T00656.htm
<δααδ>(「たった一人の反乱」より)
民主・小沢代表、辞任の意向
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090511/stt0905111502006-n1.htm
やったね、おーたん。
おーたんの望んだ通りの展開になってきたよ。
これで民主党の勝利も確実だよね!?
<太田>
おお、臨時ニュースが入ってきた。
よかった、よかった。
岡田や前原が次の代表にならなければの話だけど、これで次期総選挙での民主党の勝利は間違いないでしょう。
<弩懿>
結果論になりますが、辞めるのであればやはりもう少し早めに辞めていた方が、民主党にとっては傷が小さかったように思います。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090508-00000505-san-pol
<太田>
小沢がいかに政治家として無能であったか、これで日本人の大部分が骨身に染みて分かってくれたと思いたいところです。
それでは、記事の紹介を続けます。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090507/193921/?top
は、無署名記事ばかりの主要新聞の問題点を指摘しており、それだけでも一読の価値はありますが、『諸君!』廃刊について記している部分が特に興味深いものがあります。
「・・・『諸君!』は今から40年前に、当時の文藝春秋社長だった池島信平の肝いりで・・・<彼直筆の>巻末の「創刊にあたって」の言葉<でもって>・・・創刊された。・・・「・・・戦後24年、考えてみれば、4分の1世紀に当たります。この間に、新しく民主主義が日本の土壌に植えつけられ、育てられたのですが、果たしてこの新しい考え方、生き方は、わたくしたちの身体のうちに、しっかり定着したでしょうか。・・・」・・・
<また、池島は、著書『雑誌記者』の中で、次のように記している。>
いまもって不思議なのは、新体制という言葉があたかも万能のお札であるかの如く担ぎ回られ、その内容をくわしく検討するものもなく、絶対のもののようにして各界を横行したことである。新体制と号する、いろいろの報国会が、雨後のキノコのように簇生(そうせい)した。
雑誌は思想戦の弾丸として、米英精神を国内的に打破する目的をもつものと、いつの間にか信ぜられるようになった。いままでの雑誌の編集を左右した機構では、時代の進展に間に合わないというので、社内の新体制運動が起こってきたのである。・・・・・あの前後の陰惨な空気は、いま思い出してもゾッとするが、しかし社会全体がそういう空気なのだから、なかにいて、カレコレ批判しても、いつの間にか、その思潮のなかに押し流されてしまう。
戦後、怒濤のように押し寄せた民主化運動、その多くのものは階級闘争と社会革新のスローガンを掲げて、一挙に古い日本を粉砕しようとしていた。・・・・きのうまで神州不滅とか、天皇帰一とか、夢のようなことをいっていた連中が、一夜にして日本を四等国と罵り、天皇をヒロヒトと呼びすてにしている。にがにがしいと思った。よろしい、みなさんがその料簡なら、こちらは反動ではないが、これからは保守でゆきましょうと思った。」
『諸君!』は、「右」の総合論壇誌の中では最もマシだったと思いますが、創刊者の志がこんなものだったとすれば、そんなものがこれだけ続いた方が不思議に思えて来ます。
「戦後・・・新しく民主主義が日本の土壌に植えつけられ、育てられた」ことと、戦前、「新体制という言葉があたかも万能のお札であるかの如く担ぎ回られ、その内容をくわしく検討するものもなく、絶対のもののようにして各界を横行したこと」とは矛盾しています。
後者は、まさに民主主義社会でしか起こり得ないことだからです。
戦前の日本が自由民主主義社会ではなかったという誤った認識・・占領軍が注入した認識と言ってもよい。これは司馬遼太郎/自由主義史観でもある・・でもって創刊された論壇雑誌である以上、同誌が、吉田ドクトリンの片棒を担ぐ存在に堕してしまうこととなったのは当然だと言うべきでしょう。
先の大戦中、ドイツ以外が「自主的」に行ったホロコーストだってかなりのものだったようです。
・・・how much of a pan-European phenomenon the Holocaust was, as for instance when he notes that the 280,000 to 380,000 Jews killed by the Romanians constituted the largest number murdered by an independent European country apart from Germany itself. ・・・
また、(当たり前のことですが、)生産力からみて、米国が参戦した時点で、ドイツの運命は決せられていた、ということです。
In 1944, for instance, despite the efficient Albert Speer’s reorganization of the aircraft industry, Germany was producing fewer aircraft than each of its major enemies, and together the United States, the United Kingdom and the Soviet Union outbuilt Germany by more than five to one. The statistics for other modern industrial weapons were similar・・・
The writing was already on the wall in 1942,・・・ and by 1944 “it was clear for all to read.・・・
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/05/08/AR2009050801413_pf.html
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太田述正コラム#3268(2009.5.11)
<テロリズムの系譜(その2)>
→非公開
イランのアメリカ人ジャーナリスト解放の背景には、アメリカがアフガン戦争において、イラン経由のロジスティックスルートを開発せざるを得ない状況があり、オバマ政権の対イラン融和外交の一端とも受け取れませんか?