太田述正コラム#3275(2009.5.15)
<皆さんとディスカッション(続x487)>
<globalyst>
≫女性は女性を主としてパワハラの対象にしている≪(コラム#3273。太田)
のは
≫人間は基本的に戦争も残虐行為も大好き≪(コラム#3168。太田)
だからですよ。
≫我々<人間>のほとんど全員は残虐行為に魅了されているのであり、時には残虐行為を娯楽と受けとめる時さえある≪(コラム#3168。太田)
 ならば、女性が他人にパワハラ(軽度の残虐行為)しても何ら不思議はなく、ただ、その場合、女性のパワハラの対象は、体力的に女性に勝りパワハラを受けたときに物理的実力で抵抗することが多いと考えられる男性ではなく、
≫”less likely to respond to aggression with aggression.”≪(コラム#3273。太田)
な女性であることが多くなる、ということなのでしょう。
 パワハラに関連してですが、「イラク米兵が同僚5名を殺害」という記事がありました。
http://www.wired.com/dangerroom/2009/05/why-soldiers-dont-frag/
 記事そのものは所謂「フラッギング(fragging)」(嫌な上官や同僚を、火器など軍隊の武器で殺傷すること)についてですが、この中で、
 「ロシアの徴兵制による軍隊<では>…先に徴兵された兵士たちは、新しい訓練兵に残忍な仕打ちをする権利が認められていた。盗みや強奪、殴打、さらにはレイプまでが日常茶飯事だった。」 というロシア軍内部パワハラ、ロシアでは「Dedovschina」(デドブシーナ;「祖父たちの規則」と呼ぶそうです、に触れられていました。  ロシア軍は、先輩が後輩にパワハラすることは「権利」みたいです。  女性のパワハラからは逸脱してしまいましたが、きっと自衛隊でもそうなんでしょうね(コラム#2912、#2970、#2993など)。 <太田>  お見事です。  何かコラム書いてごらんになりませんか? <ΑΗΑΗ>(「たった一人の反乱」より) ≫何で岡田が人気があって鳩山が人気がないのか分からないねえ。 それぞれとの直接接触の度合いが少なくなればなれほど、人物の真価が分からなくなる、という典型だね。≪(コラム#3273。太田)  今日の報ステの2ch実況スレでの鳩山評だけど、こんな感じで3スレ消化されたw  ディベートがダメなんだなあ。NEWS ZEROの実況スレでも同じ感じだった。 ・鳩山歯切れ悪いな ・鳩山の小物感は凄いな  喋れば喋るほど小物に感じる ・なんかキョドってるぞ ・ポッポは落ち着きがないな ・ぽっぽ山出る番組出る番組で傀儡扱いされてカワイソスwwwwwww ・なんで挙動不審なの?  なんで政権交代しか言えないの? ・ぽっぽしどろもどろwwww ・声小さくなったwwwwwwwwww  ぽっぽ、声が震えてるぞwwww ・鳩が豆鉄砲くらった顔してるよwwwwwwwwww ・攻められると弱いな、鳩山  なにが言いたいのか全然わかんねw ・もうやめてあげてwwwww  ポッポ泣きそうwwwww ・フルタテごときに負けるなよ。  情けねえwwwwww ・古館ごとき雑魚にここまで言いくるめられちゃあなwww <ΑΑΗΗ>(同上)  岡田さんの顔には「私、官僚ですぅ~」と、デカデカと書いてある。  庶民は見た瞬間にイヤな気分になる。前回、大敗したのもそのせい。  岡田さんは頑固で志操堅固でよろしい!などと悦に入ってる人たちは、庶民感覚とは無縁な、官僚的な人種である。  コレ、リトマス試験紙のようなもの。自分に問いかけてみるとよい。  岡田さんの顔とか話しぶりを見て、なんの違和感もない人は「官」の側の人だ。 <ΑΗΗΑ>(同上)  鳩山~好きだな。   『愛です』なんて、素面で正面きって言い切る人間 ざらにいない。(一寸間違えば危ないが)  若手からの突っ込みに対し、間違っていたら 直ぐ素直に“ごめん”と謝罪するし、善い意味でのお坊ちゃまなんだと感じた。(政治家(屋)にはいない性質)  昨日テレビ観ていて、雰囲気が細川に似ているとおもった。  真面目なんだろう・・良くも悪くも…。  でも、この真面目さは好感もてるが、国会答弁では 適当に流す(かわす)ってことができそうにないよな~。 つっこみどころマンサイだし。  おーたんじゃないが、鳩山も煽り耐性に問題がありそーだし 心配汁。  ま、どっちにせよ世界も日本も動き出している。  いよいよ~米国破綻+世界大恐慌・・・激動の世だ。  疎開するべ。 <太田>  最後の二つの投稿は、典拠なしだけど、私の感覚に近いので、オマケ転載させていただきました。  では、記事の紹介です。  本日は、以下の一つの話題だけで必要にして十分でしょう。  4年前に亡くなった趙紫陽(Zhao Ziyang。1919~2005年)元中共総書記(現在の主席)の残した回顧録テープを本にした“Prisoner of the State: The Secret Journal of Premier Zhao Ziyang,” が米国で19日に発売され、漢語版も香港で発売されようとしています。  「「私は自分自身に言い聞かせた。私は軍隊を動員して学生達を弾圧する中共総書記になることは拒否するぞと」と<趙>は回顧録の中で言っている。  彼は、この録音の中で未来を展望しつつ、欧米の議会制民主主義を賞賛し、「もし我々がこの目標に向かって進まなければ、中共の市場経済の異常な諸状況を解決することは不可能だろう」と警告している。  趙は、<これを、公安の目を盗みつつ、>・・・2000年前後に約30時間も、京劇や子供向けの音楽のテープに上書きする形で録音した。  この30本のテープは、中共の3名の元高官達によって中共外に密かに持ち出された。・・・  「トウ小平は、党の長老達の中で最も独裁の意味について強調していた人物だった。彼は、しばしば人々にその有用性を指摘していた。」・・・  トウの民主主義についての観念「は、空虚な言葉以上のものではなかった」・・・」 http://www.guardian.co.uk/world/2009/may/14/zhao-ziyang-china-tiananmen-memoirs
 「<趙は、>1989年5月に北京内外に戒厳令を敷いた決定は違法であり、党の指導者達は騒擾の平和的解決を交渉によって容易に達成することができた、と主張する。・・・
 中共の当時の指導者のうち、趙の批判を免れることができた者はほとんどいない。
 彼は、中共を欧米に開放しその経済改革を開始したトウ小平を酷評する。
 天安門の悲劇当時の陰気な国務院総理(首相)であった李鵬(Li Peng)、強硬派の党理論家のトウ力群(Deng Liqun)、元国家主席の李先念(Li Xiannian)、そして、趙の長年の盟友で、その1989年4月15日の死が学生の主導する抗議運動を引きおこした、胡耀邦(Hu Yaobang)さえも・・。・・・
 「トウ小平の支援なくしては」改革は何一つとして「可能ではなかっただろう」と認めつつも、趙はトウは慈悲深いゴッドファーザーであって実務的な(hands-on)企画者ではなかったと言う。
 <改革の>最も重要な企画、例えば、人民公社の解体、<結果的に>巨大な成功をもたらした輸出主導経済成長モデルの提示、中共の共産主義者達をして資本主義を奉戴させるためのイデオロギー的手品の考案、は趙の行ったところだった。
 中共では、趙が、重大なる経済上の変化、及び天安門事件の際の弾圧へと至った一連の政治的事件、において果たした役割は歴史から抹消されてしまっていた。・・・
 
≪一度くらい全面邦訳サービスをしようと思ったけど、これくらいでご勘弁を。(太田)≫
 ”Reading Zhao’s unadorned and unboastful account of his stewardship, it becomes apparent that it was he rather than Deng who was the actual architect of reform,” wrote Roderick MacFarquhar, a professor of Chinese history at Harvard University, in a foreword to the book. ・・・
 Following Hu Yaobang’s death on April 15, 1989, students who believed that conservatives in the party had unfairly treated the more liberal Hu began demonstrating. Zhao took a soft line against the protests and, he says in the book, they started to die down. Then, on April 26, while Zhao was visiting North Korea, Li Peng masterminded a meeting of the Politburo Standing Committee during which Li and others convinced Deng that the protests threatened the party. Li then ordered publication of an editorial in the People’s Daily that termed the protests “premeditated and organized turmoil with anti-Party and anti-socialist motives.”
 Li thought the editorial would cower participants, Zhao says. Instead, “those who were moderate before were then forced to take sides with the extremists,” and the marches ballooned to more than 10,000 people in Beijing and spread nationwide. On his return to China, Zhao attempted to make peace with the protesters, offering dialogue with student groups and the establishment of a special commission to investigate corruption charges.
 But, Zhao says, “Li Peng and others in his group actively attempted to block, delay and even sabotage the process.”
 Zhao requested a meeting with Deng to try to convince China’s leader that they needed to retract the April 26 editorial. On May 17, he went to Deng’s home, thinking it was going to be a private meeting. Instead, the whole Politburo Standing Committee was present. Zhao advocated modifying the editorial. President Yang Shangkun<(楊尚昆)> suggested imposing martial law. Ultimately, Deng decided on martial law; there was no vote, according to Zhao.
 The question of whether the Politburo’s five-member Standing Committee took a vote is the only place where Zhao’s version of events clashes significantly with the one provided in “The Tiananmen Papers,”<(注)> a collection of party documents published in 2001 that is considered the most definitive previous account of the crackdown. “The Tiananmen Papers” reported that there was a split vote of 2 to 2, with one abstention, and that retired Communist Party leaders were called in to decide.
 (注)「天安門文書 The Tiananmen Papers」–張 良 Liang Zhang 編、山田耕介・高岡正展訳、文藝春秋刊
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E6%96%87%E6%9B%B8-%E5%BC%B5-%E8%89%AF/dp/4163581308
 Zhao’s contention is that because there was no vote, the crackdown was illegal, even by the party’s own rules. And once again, he notes, the hard-liners around Li Peng miscalculated. The martial law declaration prompted even bigger protests.
 ”A more intense confrontation was made inevitable,” Zhao says. “On the night of June 3rd while sitting in the courtyard with my family, I heard intense gunfire. A tragedy to shock the world had not been averted, and was happening after all.”
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/05/14/AR2009051400942_pf.html
 
 One striking claim in the memoir, scholars who have seen it said, is that Mr. Zhao presses the case that he pioneered the opening of China’s economy to the world and the initial introduction of market forces in agriculture and industry–steps he says were fiercely opposed by hard-liners and not always fully supported by Mr. Deng, the paramount leader, who is often credited with championing market-oriented policies.
 In the late 1970s, as the party chief in Sichuan Province, Mr. Zhao had started dismantling Maoist-style collective farms. Mr. Deng, who had just consolidated power after Mao’s death, brought him to Beijing in 1980 as prime minister with a mandate for change.・・・
 Mr. Zhao’s central role in devising economic strategies, including some, like promoting foreign trade in coastal provinces, that he had urged on Mr. Deng, rather than the other way around.・・・
http://www.nytimes.com/2009/05/15/world/asia/15zhao.html?_r=1&hpw=&pagewanted=print
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
太田述正コラム#3276(2009.5.15)
<日進月歩の人間科学(続x4)(その3)>
→非公開