太田述正コラム#3240(2009.4.27)
<パキスタン解体へ(?)(続)(その1)>(2009.6.8公開)
1 始めに
米国の主要メディアは、引き続きパキスタン情勢を追っかけています。
そのいくつかをご紹介しましょう。
2 タリバンの「撤退」
「・・・25日時点での事実を踏まえれば、<タリバンがブーネアー地区を去ってなどいないことは明らかだ。>
一日中、<タリバンの>軍事要員達は、黒いターバンを巻き、着物を頭からかぶり、車両に乗って自動小銃を振りかざしつつ、市場や主要道路を徘徊していることが見てとれた。
彼らのステレオは宗教的な歌をがなりたて、枢要な交差点等の戦略的地点において彼らのプレゼンスは特に目立った。・・・
・・・<ただし、>軍事要員の多くがスワトに戻った24日以来、緊張は緩和した。
引き続き哨戒している者は大部分、地元の男達だ・・・。<住民は、>24日の撤退は物語の終わりを意味しないのではないかという懸念を抱いている。
<一つには>、「タリバンは、志願者を募り始め、若者達は自発的にタリバンに加わりつつある」からだ。・・・
・・・<また、ブーネアーでは、タリバンの張り巡らした>垂れ幕が、女性に市場に行くなと警告している。
タリバンの軍事要員達は、女性は、家の中にとどまり、教育を受けず、彼女達の夫達や兄弟達と一緒でなければ外に出てはいけない、と信じているわけだ。・・・」
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-pakistan-buner-scene26-2009apr26,0,4028712,print.story
(4月27日アクセス)
「・・・<更に言えば、>地元のタリバンは、ブーネアーの枢要地域を依然支配下に置いており、引き続き店やガソリンスタンドやその他の財産の略奪を続けている。・・・」
http://www.nytimes.com/2009/04/27/world/asia/27pstan.html?hp=&pagewanted=print
(4月27日アクセス)
3 パキスタン軍の「反撃」
「パキスタン軍の部隊は、26日、武装ヘリコプターの掩護を受けつつ、マルカンド郡(Agency)内のタリバンの軍事要員達を攻撃した。これは、叛乱者達が・・・先週、ブーネアーを支配下に置いて以来、軍部がとった最初の顕著な行動だ。・・・
この作戦は、タリバンが支配しているスワト渓谷の西に位置する下ディール(Lower Dir)地区で実施され、30人の<タリバン>軍事要員と一人の<パキスタン>治安部隊の兵士が死亡した・・・。・・・
http://www.nytimes.com/2009/04/27/world/asia/27pstan.html?hp=&pagewanted=print
上掲
「・・・軍部は、・・・下ディール地区のラル・キラ(Lal Qila)地域を・・・完全に確保したという声明を発した。・・・
<しかし、>この作戦は、政府が相当数の歩兵を送り込まない限り、恐らく軍事的に成功することはないだろう・・・。
そして・・・政治的にも、得られたものは一時的に過ぎない可能性がある。
というのは、パキスタン社会は、イスラム教軍事要員達と戦うという問題について、真っ二つに分裂しているからだ。・・・」
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-pakistan-military27-2009apr27,0,2054762,print.story
(4月27日アクセス)
4 首都等に迫るタリバンの影
「・・・昨年9月に、<イスラマバードで過去最大の>爆弾の爆発があった。爆薬を満載したトラックが豪華なマリオット・ホテルに突入し、52人の人々が殺されたのだ。・・・
これほどはではないが、同様に人々の心を悩ませる攻撃が先月起こった。
上流階級の居住地区の中にある小さな公園における、治安部隊の非番の警備員達の出入り自由の駐屯地に一人の若い男が近づいた。この男は自爆し、彼自身と5人の警備員を殺した。・・・
2007年までは平穏な場所であったイスラマバードにおいては、このような緊張状況は比較的新しい現象だ。
しかし、2007年の夏、この静けさは、赤のモスク<(コラム#1867、1868、1883、2739)>の急進的な指導者達・・彼らは、イスラマバードの中心にあるこのモスクの境内を武装キャンプに変えてしまった・・との暴力的な対決によって粉みじんに砕かれてしまった。
<長期の>にらみ合いの後、治安部隊がこのモスクを強襲し、約100人の人々を殺した。これに対し、モスクの>指導者達は復讐を誓った。
それ以来、テロリスト達による襲撃、爆破、誘拐が、パキスタン全土で日常茶飯事的に起きるようになった。
標的となったのは、ベナディール・ブット、国連職員達、<アフガニスタン向けの>NATOの補給品を運ぶ車列、警察の検問所、ビデオ店、少数派セクトのモスク、イスラマバードのイタリアンのレストラン、そしてラホールにやってきたスリランカのクリケット・チームだ。
宗教学校やマドラッサ・・その中にはイスラム教について急進的な見解を信奉しているものもある・・の数も増えた。
今月、<上述の>死者をたくさん出した包囲戦から二年近く経って、赤のモスクの元首席聖職者が拘留から釈放されてこのモスクに現れた。そこには5,000人の人々が集まったが、<彼>は、興奮した弟子達に対し、パキスタンに「真のイスラム制度」をもたらそうと呼びかけた。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/04/26/AR2009042602646_pf.html
(続く)
パキスタン解体へ(?)(続)(その1)
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