太田述正コラム#3242(2009.4.28)
<パキスタン解体へ(?)(続)(その2)>(2009.6.9公開)
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3 パキスタン軍の「反撃」<補注>
「<パキスタン陸軍のタリバンに対する攻撃は、引き続き27日にも行われ、>2日間の戦闘で死者は50人近くに達した。・・・」
http://www.guardian.co.uk/world/2009/apr/27/taliban-swat-valley-peace-collapse
(4月28日アクセス)
「・・・<スワト取引の仲介者たる>マウラナ(Maulana)・スーフィ・ムハマッド<(前出)>・・・は、27日、スワトの西の下ディール地区における軍事作戦に抗議するため、仲介を中断した・・・。・・・
<パキスタン>政府は、下ディールの<タリバン>軍事要員達に対して行動を起こしたのは、その地の警察官と行政官が殺害されたからだと述べている。・・・
<他方、>タリバンの軍事要員達は、イスラム教法廷がつくられ、機能し始めるまで武装を続けると主張している。・・・」
http://www.nytimes.com/2009/04/28/world/asia/28pstan.html?ref=world&pagewanted=print
(4月28日アクセス)
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5 再びタリバンについて
「・・・<あるパンジャブ州のビジネスマンは、>「<タリバンが>スワトでやっていることはパシュトン文化ってやつなのさ」と・・・・言った。
「イスラム教では、教育はすべての男性と女性にとって必須のものだとしている。そして、我々パンジャブ州人は、連中のような<けったいな>文化とは無縁だと。
私は、同じようなナイーブな主張を、TVのトーク・ショーやウルドゥー語の新聞で目にする。いわく、タリバンのイデオロギーは健全だ、連中は手段さえ変えればそれでよいのだ、と。
あたかも人々は、イスラム主義者達が、ラホールやイスラマバードに進軍してきた暁には、突然イスラム教は平和の宗教であって、音楽は良いものであり、少女達は学校に行くことを認められなければならないと覚るであろうことを望んでいるかのようだ。・・・
タリバンは、少女達の学校を爆破し、プロの踊り子の死体を・・・に捨てた。
女性達は、私にこれらの話を、閉めたドアの内側で、新たに購入したブルカの下から、そして常に名前を明かさないとの約束を引き出した後に語ってくれた。
「我々は自分達の家の中に閉じ込められた囚人になった。我々は食料や雑貨を買いに出て行くことすらできないの。我々にとっては、もうすべては終わりよ」と一人は私に語った。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/04/24/AR2009042402315_pf.html
(4月27日アクセス)
6 タリバン流のイスラム教解釈批判
「・・・スーフィ・ムハマッド<の主張とは違って>・・・コーランはイスラムについて何の言及もしておらず、いかなる政府の形態についても指示はしていないし、イスラム教における宗教的権威の所在と性格についてさえ沈黙している。(だからこそ、イスラム教にはスンニ派とシーア派への永久の分裂が続いている。それは、誰が預言者ムハンマドの後継者になるのか、そしてどのようにこの承継がなされるべきかについての意見の違いから始まった)・・・
コーランは繰り返し、信仰に関することについての個人的責任を強調している。
「<アラーの>お導きを受け容れる者は自分自身にとってよかれと思ってそうするのであり、<アラーから>遠ざかる者は自分自身にとってそれが危険であることを承知の上でそうするのだ。人間は誰も他の人間の重荷を担う<(=宗教上の罪を犯した者を処罰する)>ことはできないし、我々<(私)>が使者を使わすまでは処罰されることもない。(17:15)
ここには、国家ないし司法制度が<宗教上の>罪人に対し処罰を下すという感覚は見あたらない。
その代わり、そこには正しいことへの誘いがある。そしてそこにもし処罰があるとすれば、それは神が下されるのだ。しかも、神が慈悲深くも使者をお使わしになり、人々に警告を与えられた後でだ。・・・
このテーマは、コーランで36:17において再び登場する。
そこでは、敵対的な群衆に対し、彼らを正しい道へ引き返させるべく使わされた神の使者達が語りかける。「我々の任務は、ただ単にお前達に伝言を伝えることだ」と。
また、35:18-26というコーランの別の箇所で、我々は預言者の使命が要約されているのを見いだす。
すなわち、彼は良い知らせと警告を伝えるべく託され、送られてきた者なのだ・・・。
処罰は、これらの神の代表者達の手に委ねられてはいない。
彼らは「単に警告する」ために送られてきたのであって、一人一人の人間は、自分自身の重荷を担い、自分自身の運命に責任を負わなければならない。
宗教的信条に関し、強制(coercion)が行われてはならない。
コーランは、このことを力強く2:256で記している。「宗教において強制(compulsion)があってはならない」と。・・・
過激派のイスラム教徒の若干がイスラムを捨てる者に対する正しい罰は死のみであると主張していることは事実だが、コーランにおいては、真の信仰を捨てる者について嘆き悲しみはしても、この世において棄教に対して処罰が下されることはない、というのが本当のところなのだ。
実際、このことは4:137から明らかだ。
そこでは、信仰から去り、再び信仰に戻り、それからまた去った者達への言及がなされている。つまり、棄教者達が、信仰者達の共同体の中で平和に、かつ乱暴狼藉の対象となることもなく生活しているということが前提になっているわけだ。
そう解さなければ、二度も棄教することを説明できまい。・・・」
http://newsweek.washingtonpost.com/onfaith/georgetown/2009/04/talibans_coercion_betrays_quran.html?hpid=talkbox1
7 終わりに
我々は「タリバン流のイスラム教解釈批判」を信じてはなりません。
そもそも、コーランの文言には、様々な解釈を許す余地があります。
そのことは、私自身が()書きで、あえてこの論者の論旨に沿ってコーランの記述に手を加えたことをご覧になれば、お分かりではないでしょうか。
決定的なことは、キリスト教の大部分の宗派とは違って、イスラム教には、スンニ派であろうとシーア派であろうと、宗教上の議論に決着をつける中枢と手続きが存在しないことです。
つまり、タリバンの指導者達とこのような論者との間の論争は、永久に水掛け論が続く、ということです。
結局、タリバン的な存在に対しては、武力で対処した上で、タリバンの指導者達を必要に応じて拘禁し、更に場合によっては逆洗脳をかける等によって、タリバンを無理矢理世俗的秩序に従わせる以外に方法はないのです。
それにしても、パキスタンの政治家や軍人の認識の甘さと優柔不断さには困ったものです。
(完)
パキスタン解体へ(?)(続)(その2)
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