太田述正コラム#3325(2009.6.9)
<改めて民主主義について(その3)>(2009.7.9公開)
最後に、ダン自身が語るところに耳を傾けることにしましょう。
「・・・諸基本原理(principles)の多くは、長年の間に、互いに極めて痛々しく相対立することがはっきりしてきた。
その例として、堅固に守られた財産と経済的諸権利、社会正義と公共の安全、の二組をすぐあげることができる。
その他の諸基本原理・・例えば、対話(dialogue)のエートス、疑問の提起(questioning)、信頼(trust)、道徳的覚醒(moral awareness)・・は、制度的ないし法的な基本原理として認めることは困難だ。
しかも、核心的な(core)諸価値(value)でさえ、適用する段になると極めてしばしば相互に衝突しあうものなのだ。・・・
政治に関する基本的諸問題の中には、民主主義なる観念が本来的に答えを出せないものが少なくない。
<その事例は以下のとおり。>
・特定の個人は、どの国家に帰属すべきか、はたまた住むべきか
・特定の個人は、何を、いかなる条件下で所有することができるか
・いかなる権限と責任を政治家、裁判官、公務員に逐わしめ、その残りを一般民衆に逐わしめるべきか
・安全の追求の必要性が生じた時、それが個人の自由と衝突したとして、どちらがどちらに譲るべきか・・・」
→書評も分かりにくかったけれど、ダン自身が書いたにもかかわらず、このあたり、実に分かりにくいですね。
あなたは、これに続く文章↓(の最初の方のセンテンス)を果たして訳せますか?(太田)
What values (if any) should hold binding authority for human beings independently of how many of the community to which they belong consciously share them or feel them with any force? If democracy has an answer to that question, the answer, as Plato long ago pointed out, is none. ・・・
私の考える正しい訳は次のとおりです。
「あるコミュニティーに属する人々のうちのどれだけが意識的に共有している<諸価値である>か、または強く気にしている<諸価値である>かにかかわらず、一体全体いかなる諸価値が、これらの人々に対して拘束的権威を持つべきだろうか。
民主主義はこの問いに対して答えを持っているのかと言えば、プラトンが大昔に指摘したように、答えは全く持ち合わせていないのだ。」
→いかがでしたか。あなたは上のように訳せましたか?
訳せたなら大変結構ですが、訳せなかったとしてもがっかりすることはありません。
とにかく、元の英文が悪文なんですから・・。
それに、ここのくだりは、訳すのが容易ではない悪文であるだけでなく、たとえ訳せたとしても、なおその意味するところがはっきりしないからやっかいなのです。
思うにダンは、米国やフランスで初めて導入されたところの、いわゆる憲法(=拘束的権威を持つ基本法)など不必要であるという、イギリス人にとっては常識ではあるけれど、我々を含むイギリス人以外の人々にとっては、仰天するようなことを、韜晦を施しつつ述べているのです。
(ついでに言っておくと、イギリス人は、何が実体的に正義であるかについては、不可知論の立場をとるけれど、古来からの判例法の中にちりばめられている様々な手続き的正義についてのルールについては、これらに拘束されると考えます。これがアングロサクソンの法意識ってやつです。)
さあ、続けましょうか。(太田)
「言葉または理念の集合体としてのその歴史の大部分において、民主主義とは、その一定ではない割合が極めて貧しかったところの、多くの、いや大部分の、自由な成人男性が政治的決定に積極的な役割を果たすことを明確に意味していた。
また、この歴史の大部分の期間において、政治について最も事情通である評論家達は、民主主義を、コミュニティの生活を組織しその運命を決定するためには危険なまでに不安定的な方法であると考えてきた。
実際、民主主義が、近代期において、おおむね裏口から、すなわち米共和国の形成に際して、そしてフランス革命の騒動の中から不気味な様相を帯びて(alarmingly)、<約2000年ぶりに>政治に再登場した時、政治思想についての古典ギリシャ人達の主要諸著作の中に苦労して記されたところの様々な不幸のすべてが再生されただけでなく、よりひどく再生されたのだ。
しかし、民主主義に関連した諸理念の政治的魅力(appeal)は、より多くの聴衆の心を劇的にとらえるに至った。・・・
粗っぽく言えば、民主主義の政治的魅力は、政治的平等の実現というその主張にあった。
(だからこそ、あえて言うが、民主主義なるものは、潜在的な政治的脅威だったのだ。)
文言上では、米合衆国憲法は、かつてのソヴィエト社会主義諸共和国の憲法(、あるいは現在も引き続き存在しているところの朝鮮人民共和国憲法)に比べて、政治的平等をより良く保障しているわけではない。
それらのすべての憲法は、恐らく英国の憲法として通っているものに比べれば、文面上明確な規定がなされていることだろう。
しかし、現実においては、誰もが知っているように、事情は全く異なる。
それにしても、このような違いを、我々はいかなる意味において明確に民主主義に帰せしめることができるのだろうか。
法の上では、私の理解するところによれば、私は英国市民のほとんど全員と政治的に同等であって、(少なくとも私にとっては、)同等ではないごく例外的なケースなどどうでもよいことだ。
しかし、実際には、英国の政治に関する限り、私はメディア界の大立て者であるルパート・マードックと政治的に同等であるとはとても言えない。
このルパート・マードックは、(私が知る限り、一度も)英国市民であったことすらない。・・・
過去2000年以上にわたって、民主主義は、言葉として、そしてまた理念の集合体として、経済的不平等に対する脅威であると考えられてきた。
しかし、過去の4分の3世紀で、このような判断は時代遅れであることが決定的なものとなった。
しかし、それは、民主主義を一つの理念として、または民主主義を具体的な制度的諸形態の中で、実現することによってではなく、経済的不平等を発生させ再生産させる格別に効果的な方法に係る諸条件を民主主義に押しつける(superimpose)ことによってだった。・・・
近代の代表民主主義は、ごく最近において、二つのバージョンの専制主義(autocracy)に対する唯一の擁護しうる代替物としての正統的支配のための正規の(canonical)全地球的形態となった。
専制主義の第一は、前近代的であるために、全地球的資本主義が機能するための諸前提を充たすことが困難であることから、そのもっともらしさが資本主義が民衆の日々の生活に及ぼす影響によって継続的に掘り崩されつつある。
専制主義の第二のバージョンは、社会主義、すなわち「弱者につけ込んだ賭け(wager on the weak)」だが、それは様々な経過をたどりつつ、一定期間存続したものの、今では地上からほぼ消え去ってしまった。・・・」
http://www.opendemocracy.net/democracy-opening/focus_2944.jsp
→私が、所々で挿入した「解説」を踏まえて、書評子やダン自身が言うことを咀嚼されれば、ああそういうことか、結構腑に落ちたのではありませんか。
甘いかな?
あー疲れた。(太田)
(完)
改めて民主主義について(その3)
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為になるコラム読ませていただきました。
民主主義が自由主義とは別なのがわかりました。
イギリスの不文憲法と日本の「規範性の無い」憲法で思ったのが、日本がアングロサクソンと最も親和性のあると別のコラムで書いてありましたが、なぜ日本に憲法なるものができたのでしょうか。もしかして、日本の憲法は日本国民の為というより、日本以外の国へ見せるための「建て前」ってやつなのでしょうか?
すみません、「建て前」ではなく「建前」でした。