太田述正コラム#3402(2009.7.18)
<皆さんとディスカッション(続x543)>
<南>
一日投稿をお休みにしました。昨日は家に帰るなりバタンキューでした。それを考えると、コラムを毎日書き続けている太田さんはすごいですね。広いだけでなく深いコラムを書くのは大変かと思います。
さて、ここに来て太田さんの言う「漢人王朝の支配」の内容が、当初の文面から推測されるものから変化しつつあるようです。議論がかみ合うように、以下の点を明確にしていただければと思います。(1) 「漢人王朝の支配」とは何なのか、(2) その定義で「漢人王朝の支配」を議論することにどのような意味があるのか。
<太田>
お忙しいとは思いますが、せっかく投稿されるのであれば、前回や今回のように、典拠ゼロというのは困ります。
また、典拠としては、最初の頃のように、単行本ではなく、なるべく、私や読者が簡単に検証できるネット上のものをお願いしますね。
さて、私が言う漢人王朝(広義)とは、科挙
http://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_examination
に合格した官僚が、漢人地域の行政を行ったところの、支那における王朝を指します。
この定義に照らせば、隋以降清に至る、支那中核部をおおむね統一していた王朝すべて(ただし、元を除く)が漢人王朝である、ということになります。
なお、支那中核部の外にあった遼
http://en.wikipedia.org/wiki/Liao_Dynasty
や、清時代の支那中核部内の地域政権であった太平天国
http://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_examination上掲
でも科挙に合格した官僚が漢人地域の行政を行ったところです。
しかし、これらの漢人王朝も、遊牧民(私の言う半遊牧民(後述)を含む)地域に対しては、原則、間接統治を行ったわけであり、このような意味における一国二制度
http://en.wikipedia.org/wiki/One_country,_two_systems
がもう一つの漢人王朝の特徴です。
なお、私が清を漢人「的」王朝とするのは、遊牧民地域の間接統治について、責任を負う形で漢人が関与しなかったからです。(ですから、遡って遼についても、漢人「的」王朝・・支那中核部外だったので正確には漢人「的的」王朝・・とするわけです。)
<南>
既に申し上げているように、現代のウイグル人に対する漢人の支配は、起源が19世紀終わりにまでしかさかのぼれない近代的な代物です。それ以前の歴史を議論することは、現代の問題を考える上ではあまり意味がありません。近代以前は環境の影響が強く、漢人の統治方式を周辺地域に適用しなかったし、しても成功しなかったわけです。逆もまた然りで、非漢人の統治方式は支那では成功しませんでした。
<太田>
19世紀後半以降の清のウイグル統治は、直接統治であったという意味では、漢人王朝(漢人的王朝を含む)による遊牧民統治の例外です。
清のウイグル統治は、既に述べたように、18世紀に始まるのであって、伝統的な間接統治として始まったところ、19世紀後半の12年間の統治中断期間の後、直接統治に切り替えられた、ということです。
<南>
太田さんは新たに契丹と女真の例を挙げていますが、整理の仕方がまずいですね。漢人がその成立からして多民族の混淆だったことは今更確認するまでもないことですが、問題は血統ではないのです。
<太田>
私は、もちろん血統のことなどを言っているのではありません。コラム#3398で引用した
http://books.google.co.jp/books?id=jqb7L-pKCV8C&pg=PA199&lpg=PA199&dq=A+history+of+Chinese+civilization%3BMongolia+and+Central+Asia&source=bl&ots=VRPE6MNKCw&sig=TOTx7jaDGUjUXBNJLRls-ZqLA18&hl=ja&ei=ysxeSrKIDKTm6gOaxdSSCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2
も記しているように、漢人文明は、農耕地帯の狭義の漢人文化とステップ地帯の遊牧民文化の総合(synthesis)である、ということを言っているのです。
<南>
契丹人は史料が少なく実態が分からない部分が多いし、その後が追えないので議論しません。女真の場合は、いわゆる猛安・謀克制を採用したわけですが、征服先の支那でそれを維持しようとして失敗したわけです。
それに対して、満洲北部に残った女真人は漢化せず、後世の満洲人となりました。
その満洲人もまた、支那を征服した後、支那で固有の文化を維持しようとして失敗しました。
鮮卑もそうですし、突厥の碑文にも「富につられて支那に行ったら彼らの奴隷になってしまう」といった内容が記されていたと記憶してます。
「元は全く漢化しなかった」というのも誤りです。元の大きな内乱には、支那に住みついた皇族とモンゴル高原に駐屯していた皇族との対立という構図が少なくとも2回出てきます。さらに、支那から撤退した後のモンゴルには、ほとんど漢文化の影響が見られません。
支那から遠く離れた同時代の日本では、ほとんど直接交渉がないのに漢文化の影響が深化していたことを考えれば、環境の影響は驚くべきほどです。
<太田>
果たしてそうでしょうか。
上記典拠には、(漢人文化と関わりを持った)遊牧民も(狭義の)漢人文化の影響を強く受けた、という趣旨のことが記されていますよ。
<南>
このような認識に従えば、「中共が、北朝鮮のような血縁による首長継承制に堕さなかったのは、かかる歴史があったからこそではないか、と私は見ており、この伝統を掘り起こすことで、中共が今後自ら民主主義化する可能性がないわけではない」という何とも属人的 (?) な見方に与することはできません。
同じ意味で、正直なところ「縄文モード・弥生モード論」に魅力を感じません。
だって、歴史を研究する大きな理由の一つは未来の予測なのに、どういう条件で発現するか分からなければ、後付けの説明にしかならないじゃないですか。
<太田>
すべての歴史は現代史(コラム#1602)であり、未来を構築するためにこそ、歴史が掘り起こされ、再解釈、再構築されてきたのです。
明治維新が王政復古として断行されたのが卑近な例です。
私は、トウ小平が一国ニ制度なんてものを思いついたのも、(狭義の)漢人と遊牧民の統治を区別していた漢人王朝の歴史を掘り起こしたのだと思っていますよ。
私は、チベットや新疆・ウイグル地区に一国二制度を適用し、これら地区に香港、マカオ並の大幅な自治を中共は与えるべきだと思っています。
これは、ダライラマの主張でもありますがね・・。
「(問)・・・視聴者から猊下に、「香港のように、チベットに合った一国二制度を望んでいますか」という質問がありますが、・・・。
(ダライラマの答え)・・・中国のような大国には、過去20年間に多くの動乱や浮き沈みがありましたが、「一国二制度」の概念を採用することが賢い選択なのです。・・・」
http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/message/030911_voa.html
縄文モード/弥生モードの話には、ここでは立ち入りません。
<南>
残りは細かい事実関係の誤りの中で目立った点について。
また古代ウイグル人が「今のウイグル族の先祖」と書きましたね。一度指摘しましたのに。現代ウイグル人が古代ウイグル人の子孫と見なすのは無理があります。言語的に直接的に繋がっていると見るのは難しく、両者は同じテュルク系でも別系統のようです。もちろん血のつながりはあるでしょうが、それを言い出せばトカラ語話者の子孫でもあるでしょう。文化的にも、イスラム化による大きな断絶がありますし。
本当に古代ウイグル人の子孫らしい人々としては、中国に裕固族という認定を受けた集団がいます。裕固族は、同じ民族に認定されているのにテュルク系言語を話す者と、モンゴル系言語を話す者がいるという妙な状態になっていて、言語学的には興味深いのですが、政治的には無力な人口1万ほどの本当の少数民族です。それはともかく、「裕固」という語は「ウイグル」から来ていて、実際に古代ウイグル人の末裔らしく、しかもイスラム化をまぬがれています。
<太田>
明白に歴史的事実について誤認ないしは事実捏造がない限り、あらゆる人、あらゆる民族には、歴史を掘り起こし、再解釈し、再構築する権利があります。
現在のウイグル人は、自分達自身でウイグルという、血がつながっている昔の民族の名前を復活させたのであり、新疆ウイグル地区という名称からして、これを中共当局もまた追認したわけです。
<南>
女真人が「半遊牧民」というのはよくある誤解です (日本語版ウィキペディアの「女真」の記事にはそんなこと書いてませんよ)。
女真は遊牧しません。興安嶺東麓の遊牧民 (モンゴル人) なら、補助的に農耕を (場合によっては現代も!) やっていましたけど。
<太田>
コラム#3396で英語ウイキをコピペした中で、女真人を半遊牧民(semi-nomads)としていたのをご記憶かと思います。よって、再度典拠はつけなかった次第です。
さて、女真人を、半遊牧民どころか、遊牧民であるとする記述↓だってありますよ。
例えば、Jacques Gernetは、その著書 ‘A history of Chinese civilization’ の中で、’・・・the world of the cattle-raising nomads・・・’の一環として、女真人について、’・・・The ancestors of the Jurchen, Tungus tribes of the horse-breeders living in eastern Manchuria・・・’と記しています。
http://books.google.co.jp/books?id=jqb7L-pKCV8C&pg=PA350&lpg=PA350&dq=Jurchen%3Bsemi-nomads&source=bl&ots=VRPE7RIKAz&sig=A_fZM8gIg8IiJNeGgHybqrG7UC8&hl=ja&ei=IQNhSsmWNpiI6wPU4oWrDw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=3
実態がどうであったかと言いますと、女真人・・ただし、平野の女真人・・は、牧畜を主、農業を従として営む定着民であったわけです。↓
’According to the Cambridge History of China- Vol.6 : Alien regimes & border states (907-1368), the Jurchens were a Tungusic people that originated in the forests of eastern Manchuria, south of the Amur river in what is now Russian territory. In the 10th century they spread to the plains of central Manchuria and established settlements along the Sungari river. The Jurchens of the plains bred animals (mostly cattle) and practiced agriculture while the Jurchens of the forests hunted, fished, and also dabbled in agriculture. Both types lived a sedentary lifestyle. ・・・’
http://chinahistoryforum.com/lofiversion/index.php/t816.html
このような女真人が半遊牧民や遊牧民と記述されるのは、どうしてなのでしょうか。
各種英語ウィキ↓にあたるまでもなく、契丹人や蒙古人を(もっぱら牧畜を営む)遊牧民とすることに誰も異議は唱えない
・・・The Khitan people ・・・, or Khitai, were a nomadic people, originally located at Mongolia and Manchuria (the northeastern region of modern day China) from the 4th century.・・・
http://en.wikipedia.org/wiki/Khitans
・・・Temujin, the son of a Mongol chieftain, who suffered a difficult childhood, united the nomadic, previously ever-rivaling Mongol-Turkic tribes under his rule through political manipulation and military might.・・・
http://en.wikipedia.org/wiki/Mongol_Empire
であろうところ、女真人が直接接触した契丹人や蒙古人にだって、ご指摘のように、牧畜だけでなく農業も併せ営んでいた定着民的な者が少なくなかったであろうことが一つあります。
しかし、より重要なことは、女真人が、契丹人や蒙古人の遊牧民的エートスを身につけていたことです。↓
・・・Like the Khitans and Mongols, ・・・the Jurchens・・・took pride in feats of strength, horsemanship, archery, and hunting.・・・
http://en.wikipedia.org/wiki/Jurchen_people
このようなことが、冒頭に言及した英語ウィキが、女真人を半遊牧民(、そしてGernetが女真人を遊牧民)とした理由でしょう。
私自身、このような意味で、女真人を半遊牧民と記すことは誤りではない、と考えています。
<植田信>(2009.7.10)(http://8706.teacup.com/uedam/bbs?OF=20&)
・・・上山信一氏、出てきました、霞が関官僚に宣戦布告した人です。・・・
・・・京大法学部卒業後、旧運輸省、マッキンゼー共同経営者等を経て現職。大阪府特別顧問、大阪府改革評価委員。大阪市出身。近著に、大阪市の事業分析に取り組んだ記録『行政の経営分析 大阪市の挑戦』(時事通信社)などがある。・・・
この人もメンバーの一人という「脱藩官僚」の本を注文してしまいました。・・・
気になるのは、太田述正氏がなぜこの「脱藩官僚」組に名を連ねていないのか、です。
いつかのプロクでその理由を書かれていたのかな。
国家の安全保障問題で脱藩したのは、国内要因での脱藩理由とは違うゆえなのか。
私には気になるところです。・・・
<太田>
前にも似たような話があった時に書きましたが、お呼びがかからなかったというだけのことです。
どうしてかは、それこそ皆さんにお考えいただきたいですね。
<植田信>(2009.7.11)(同上)
・・・太田述正氏のプログについて。
最近は私はとびとびに拝見しているのですが、海外ニュース記事を紹介するその姿勢。
この点では、太田氏は、渡部昇一氏が予言したことの実現者です。
70年代、まだ渡部氏が『知的生活の方法』などの右翼言論とは関係ない本を出していた頃です。いつぞや、どこかの本で日本人の英語能力の話題がありました。
氏によると、日本人で普通に『ニューズウィーク』や『タイム』など、英文記事を読め、それを日本語で紹介できる人が200人もでてきたら、日本は変わる、と予言しました。
そう、これも私は待っていました。
そしたら気がつけば、太田述正氏が今、これをやっていました。
私は、太田氏と言えば、「丸投げ論」「属国論」のところにばかり目が行っていたので、渡部予言の実行者でもあることに気がつきませんでした。
日本は、着実に変わっています。
・・・
上山氏や太田氏は、この変化のムーブメントの真っ最中にいます。・・・
<太田>
いいことを言っていただきました。
<植田信>(2009.7.14)(http://8706.teacup.com/uedam/bbs?OF=10&)
・・・佐藤<優>氏は外務省勤務だった人なので、その分野では、戦後に生きている日本人ならどうしたって持つはずであろう、太田述正氏が言う「丸投げ」問題について自分の考えがあってよさそうなものなのに、どうも私にはここの問題が彼の思考には省略されているように感じられます。
もちろん状況問題としては吉田茂体制のことは認識しているわけですが、それが日本人の意識、思考、精神にいかに深刻な影響を与えているか、というここの点です。
私が知る限りでは、この点で第一級のセンスを持っているのが太田述正氏です。・・・
<太田>
過分のお言葉をいただき、恐縮です。
では、記事の紹介です。
朝日とファイナンシャルタイムスによる金正雲訪中報道は北朝鮮による謀略であったことを示唆した産経の報道↓は面白い。
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090718/chn0907180804001-n1.htm
最後に、週末でしかも3連休なので、一人題名のない音楽会です。
日本にもすばらしい青年ピアニストがいます。
尾崎有飛(1989年~)です。 (ホンモノの「題名のない音楽会」に出演したことがあるようです。)
彼による、ラフマニノフ(Rachmaninoff)作曲「パガニーニの主題による狂詩曲(Rhapsody on a theme by Paganini」の演奏をお聴き下さい。
この曲は第18変奏(Variation 18)が飛び抜けて有名なのですが、彼の演奏にかかると、すべての変奏が名曲に聞こえます。
(第18変奏は、後者の前半3分の1くらいのところからです。)
http://www.youtube.com/watch?v=pNPMUQJrUWA&feature=channel
http://www.youtube.com/watch?v=FmLPTKmatEw&feature=fvw
稀代の大ピアニストのルービンシュタインによる、この曲の演奏と聴き比べてごらんなさい。
尾崎の方がむしろ勝っていると言えるかもしれませんよ。
http://www.youtube.com/watch?v=aIu-pR06okM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=ASR8dgqIU-g&feature=related
なお、この第18変奏のバイオリン演奏でユーチューブにアップされているもののうち、私が一番いいと思ったのが、マイケル・ラビン(Michael Rabin)による演奏です。
http://www.youtube.com/watch?v=Ef8YL9ZxTMM&feature=related
さて、尾崎の演奏をもっと聴いてみたいという方のために、私が比較的好きな曲を以下に掲げておきました。
スクリャービン Scriabin :練習曲 嬰ハ短調 Op.2-1
http://www.youtube.com/watch?v=JePahofvgnw&feature=related
ベートーヴェン=リスト:「アテネの廃墟」の主題によるカプリッチョ
http://www.youtube.com/watch?v=UJGQGU_Azlg&feature=channel
リスト:オペラ「ファウスト」のワルツ
http://www.youtube.com/watch?v=A560d-Oi6a4&feature=channel
シューベルト=リスト:菩提樹
http://www.youtube.com/watch?v=OO6mRuHOy14&feature=channel
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太田述正コラム#3403(2009.7.18)
<米国における最新の対外政策論(その1)>
→非公開
皆さんとディスカッション(続x543)
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