太田述正コラム#3092(2009.2.12)
<在イラク米軍の歴史的大回心(その3)>(2009.8.6公開)
 しかし、その年の11月には米議会選挙で民主党が勝利し、ブッシュがラムズフェルトを首にし、<国防長官を>元CIA長官のロバート・M・ゲーツで置き換えた。ゲーツは、イラク戦争への<それまでの>取り組みに対し疑問を抱いていた。
 そして12月19日、すなわちゲーツが着任した翌日に、ブッシュはイラクで「我々は勝利していない。しかし我々は敗北もしていない」と、彼のそれまでの楽観的な姿勢から衝撃的な転換をやってのけたのだ。
 そのちょっと後で、ゲーツと統合参謀本部議長のペースは、イラクに赴いた。
 バグダッドで彼らは米中央軍のアビゼイド、ケーシー、オディエルノに会った。
 最初の二人の将軍達はオディエルノと角突き合わせていた。新参で若く階級の下の方の将校達は部隊増強を熱望していた。ゲーツはどっちの側に気持ちが動いているかを明らかにしないまま、ひたすら耳を傾けた。ゲートはその後若い兵士達と朝食を共にした。・・・兵力増強を求める声が多かった。
 ワシントンへ戻るC-17軍事輸送ジェット機の飛行中に、ゲーツは・・・ペースと連れだって・・・しけこんだ。
 数日後、オディエルノに対し、ゲーツから、全5個旅団を与えようという言葉が伝えられてきた。・・・
 米国の分析者達は、<サダム・>フセインによる共和国防衛隊の2002年と2003年における首都バグダッドの西部と南部への配備状況を研究し、これは司令官達がクーデターをやる能力を減殺するための配備であったと考えていた。ところが、イラクの将軍達はそうじゃないと彼らに言った。エリート部隊こそバグダッドではなくそこに置かれたのだ、なぜならそここそ問題が起こる場所だからだと。
 そこで、最初に増強された旅団2個は首都に配備されたが、続く3個は主としてバグダッド周辺に配備されることになった。・・・
 ・・・2003年から2004年にかけて、<オディエルノとペトラユース>は隣接する2つの師団それぞれの指揮をとった。オディエルノはティクリットに司令部を置く第4歩兵師団、そしてペトラユースはその北のモスルの101空挺師団を指揮した。
 しかし、彼らは全く異なる指揮の仕方をした。オディエルノは拳を、ペトラユースは開いた手<(=握手)>を用いたのだ。
 そのオディエルノがイラクに再赴任した時に部下達に与えた指示は、彼がどれだけ変わったかを示している。彼は、・・・「計画担当者は、環境を理解し、敵の状況の観点からではなく、環境的観点から計画を練らなければならない」ということをある会合における彼の「メッセージの骨子」としたのだ。
 <もとより、>兵力増強が始まった時点で<、既に他にも良い方向に変化していたことがあったことは事実だ。> 
 シーア派の諸民兵による「民族浄化」<、すなわちシーア派住民地区からのスンニ派住民の追い出し、>が終わっていたこと、それに加えて、反米のシーア派聖職者のモクタダ・アル・サドル(Moqtada al-Sadr)が2007年後半には停戦を宣言したこと、またそれよりもっと重要なことだが、ペトラユースがこの年、スンニ派叛乱者達に、戦闘を止めさせるためにカネを出すという趣旨で米国が給与を払うことを決めたこと、がそうだ。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/02/07/AR2009020702153_pf.html前掲
 「・・・<在イラク米軍司令官として>イラクにいた間中、ペトラユースは上司達をすっとばして直接ブッシュの指示を受けていた。ブッシュとは毎週バグダッドとの間でTV会議を開催したのだ。・・・
 兵力増強は18ヶ月続くことになっていたところ、増強5個旅団の最後が昨年の夏に撤退し<て増強期間は終わりを告げ>た。
 しかし、ペトラユースもブッシュもはっきり言わなかったこともあって、従って議員達も一般国民も、それから軍のお偉方の一部でさえ認識していないことだが、この新しい戦略は、軍事計画者達が呼んでいるところの「長い戦争」へのロードマップ以外の何物でもなかったのだ。・・・
 ペトラユースとオディエルノが、その二度目のイラク在任中にやったことは、2007年に時間を稼ぐためにブッシュ政権の、イラクを中東の民主主義の灯台にするという野心に水をさすことだった。・・・
 「我々は、ジェファーソン流民主主義の聖杯をイラクで追い求めてはいない」とペトラユースは後に下院外交委員会で証言した。「我々は米兵達が戦闘を止める(disengage)ことができるような状況を追い求めているのだ」と。・・・
 当時、米議会や米軍のペトラユースに批判的な人々は、彼が何のための時間を稼ごうとしているかを理解していなかったようだ。
 それは、戦争を終結に導くための時間ではなく、単に、米国の人々が長く米軍をイラクにとどめることに異を唱えなくなるような、真に状況が改善したことを示すための時間だったのだ。・・・
 <しかし、予期せぬ問題が生じた。>
 <同じ頃中央軍司令官に任じられた>ファロン<海軍大将>とペトラユースは、何ヶ月にもわたって、資源、戦略、そしてイラクから部隊をどれだけ早く撤退させるかをめぐって衝突を繰り返すことになったのだ。・・・
 中央軍司令官として、ファロンは形の上ではペトラユースの新たな上官だった。もちろん実際には、ペトラユースは上司達をすっとばして、南北戦争の時以降では総司令官と前線の司令官との間の恐らく最も直接的な関係と言えるが、直接ブッシュの指示を受けていたわけだ。
 しかし、ファロンは戦略的思考者であることに誇りを持っており、ペトラユースがブッシュと直接やりとりしているからといって、簡単に引き下がるような男ではなかった。
 ファロンは・・・「私はイラクの米軍部隊がは多すぎると思う。我々はこれを見直さなければならない」という考え・・・<だった。>・・・ファロンは、米軍を戦闘からはずし、もっぱらイラクの部隊の訓練にあたらせるべきだという考え<だった。>・・・
 ファロンはペトラユースを説得するためにバグダッドに飛んだ。
 その数日後、ブッシュがこの論争に決着を付けたようだ。彼は、ペトラユース<の肩を持ったのだ。>
 ファロンは最後まで知らなかったようだ。・・・ペトラユース、オディエルノとライアン・C・クロッカー(Ryan C. Crocker)駐イラク米大使がスクラムを組んでいたことを。
 彼らはファロンだけでなく、統合参謀本部よりも力があったのだ。・・・
 <このペトラユースが米議会で証言した時、>一番彼の神経を逆なでしたのが<当時の>クリントン<上院議員>だった。「あなたは我々の多くが失敗するに決まっていると思う政策の事実上のスポークスマンにさせられたのね。私は、信じがたいという気持ちを抑えつけない限り、あなたの報告には首肯できないわ」と言ってのけたものだ。・・・
 <しかし、ペトラユースの議会証言は米国内のムードを一変させた。>
 聴聞会の前は、ワシントンで投げかけられた問いは、最小限の損害でいかにイラクから脱出するかだったが、聴聞会の後では、問いは、いかに最小限の損害で米軍の駐留を続けるか、に変わったのだ。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/02/08/AR2009020802321_pf.html前掲
4 終わりに
 いささか、払った犠牲が大き過ぎましたが、(ペトラユースの「協力」の下での)オディエルノの回心により、米国は、ようやくのことで、イラクの泥沼的状況を打開することができたのでした。
 こういう柔軟な戦略転換ができるのが米国の凄さです。
 同じことが、米国そのものの泥沼的状況(=ファシズム化的状況)についても、そのちょうど1年後に、オバマを新大統領に選出することによって打開することができた、と言ってよいでしょう。
 これで、ここ当分の間、なお米国の時代が続く可能性が出てきました。
 イラクとパレスティナが小康状態となった現在、オバマにとっての当面の最大の課題は、アフガニスタン問題と米国の経済不況にどう取り組むかでしょうね。
(完)