太田述正コラム#3445(2009.8.7)
<日本のリーダー論(2001年レジメ)>
今回ご披露するのは、2001年11月17日に東京での勉強会で話をした際に用意したレジメです。
一度ネット上で公開したのですが、現在のブログに移行する過程で落ちてしまっていました。
文章に起こしてご披露したいところですが、あしからず。(太田)
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–日本の閉塞状況打開のために・・リーダー論の試み (古典と軍事の視点から)–
<始めに>
・ 太田著「防衛庁再生宣言」=国の自立論、と日本の閉塞状況論との関係
・ 日本の閉塞状況論の貧困・・最近の日本経済だけを見る議論は不毛。他方、そうではない説(例えば小室直樹説)にも見るべきものがない。
・ 古典(=比較文明、歴史)と軍事に対する造詣の重要性。(例えば、国家(=近代国家=国民国家)は軍事抜きに理解はできない。)
1 リーダー不在の日本
(1)リーダー輩出の条件(アングロサクソン社会を手がかりに)
ア リーダーは、多様な、自立した個人の中から生まれる。換言すれば、リーダーは、多様な、自立した個人をfollowersにして、初めてリーダーたりうる。
(アングロサクソン以外に個人主義社会なし。しかし、個人主義は個人の自立の必要条件ではない。)
イ リーダーは、教育、選別システムを通して育てられる。(英国のパブリックスクール。米国の大学・・学力だけで選別しない(多様性を確保。教養主義))
ウ リーダーは、国事(なかんずく、安全保障。stakesがhigh)に携わることで鍛え上げられる。
(2)現在の日本
ア 自立的な個人たるfollowersがいない。(小泉・田中ブームを見よ)
(ア)多元的価値が並存していない(=pluralismなし)
権威、権力、富の同時獲得を目指す「立身出世主義」のみ
(イ)regionalな多様性がない。
(ウ)ethnicな多様性がない。(同じような国は韓国くらい)
イ リーダーの教育、選別システムが機能していない。(東大法学部を見よ)
ウ 国が自立していない。(=植民地人シンドロームの蔓延・・政治家→外務省・厚生労働省・農水省の役人→被規制・被保護産業の経営者を見よ)
2 日本がリーダー不在に至ったプロセス
(1)幕末・維新期にはリーダーが輩出した(その典型が福沢諭吉)のはなぜか
ア 自立的な個人群が江戸時代に準備されていた。維新の結果、彼らが一挙に束縛を取り払われ、「解放」された。
(ア)多元的価値の並存
「・・「中古武家の代に至り・・至尊必ずしも至強ならず、至強必ずしも至尊ならず」・・その結果、「民心に感ずる所にて、至尊の考と至強の考とは自から別にして恰も胸中に二物を容れて其運動を許したるが如し。既に二物を容れて其運動を許すときは其間に又一片の道理を雑へざる可らず。故に、神政尊崇の考と武力圧制の考と、之に雑るに道理の考とを以てして、三者各強弱ありと雖ども、一として其権力を専にするを得ず。之を専にするを得ざれば、其際に自から自由の気風を生ぜざる可らず」(「文明論の概略」(明八年)岩波文庫版PP38)
権威は公家に、権力は武士に、富は町人に帰属。(丸山真男)
(イ)藩regionalismが存在
(ウ)なし(但し、琉球とアイヌの存在あり)
イ 幕藩体制下のエリートは武士(軍人)だった
武士は藩校教育(中国古典と軍学)。ちなみに、町人は寺子屋教育(個人別教育)
ウ 疑似国際環境下の藩生存競争の中で武士はもまれた
藩の経営に失敗すれば、とりつぶしの恐れがあった
(2)明治維新の「負」の側面
ア 価値の一元化・・総括
「西洋諸国の人も官途に熱心するの情は日本に異ならずと雖ども、其官途なる者は社会中の一部分にして、官途外自から利福栄誉の大なるものありて、自ら人心を和すべし。・・王政維新三百の藩を廃してより、栄誉利福共に中央の一政府に帰し、政府外に志士の逍遙す可き地位を遺さずして其心緒多端なるを得ず、唯一方に官途の立身に煩悶して政治上の煩を為すのみならず、政府の威福は商売工業の区域にまでも波及して、遂には天下の商工をして政府に近づくの念を生ぜしむるに至り、其煩益堪べからず」(時勢問答、全集八)」(丸山眞男「福沢諭吉の哲学」(岩波文庫2001年6月。原著は1942-1991年)PP100より孫引き)
イ 政府
「・・政府の事は都て消極の妨害を専一として積極の興利に在らず」(安寧策、明二二、全集十二)」(丸山 前掲書PP121-122より孫引き)、「「政権を強大にして確乎不抜の基を立るは政府たるものの一大主義にして・・」(時事小言、全集五)」(前掲書PP123より)、「「日本政府は・・自家の権力は甚だ堅固ならずして却て人民に向て其私権を犯すもの少なからざるが如し」(安寧策、全集十二)」(丸山前掲書PP129より)
ウ 政党
「「政敵と人敵との区別甚だ分明ならず」(藩閥寡人政府論、全集八)・・当時の政党・・主義と主義との争い<なし>・・「政治家の政党にして国民の政党に非ざる・・」(政治家の愛嬌、明二四、全集十二)」(丸山 前掲書PP131-132より)
エ 実業界
「「実業社会は、今日尚ほ未だ日本の外に国あるを知らずと云ふも過言に非ず」・・日本の実業は、「今尚ほ鎖国の中に在り」(実業論)」(丸山 前掲書PP267より)
オ 学界
「西洋諸国の学問は学者の事業にて、其行はるるや官私の別なく唯学者の世界に在り我国の学問は所謂治者の学問にして恰も政府の一部分たるに過ぎず。」(福沢 前掲書PP228)
(3)にもかかわらず、なお「戦間期」にリーダーが出たのはなぜか。(北一輝、高橋是清、石原莞爾、岸信介、宮崎正義)
ア 自立的な個人群がまだ存在
(ア)価値の並存(軍と民)
(イ)植民地・保護国在留邦人のregionalism
(ウ)植民地・保護国の存在によるethnic pluralism
イ リーダー教育がそれなりに機能:旧制高校、陸士・海兵教育
ウ 危機的な内外環境
(参考)「米国のジャーナリストのアーチボルド・マクリーシュは、一九三六年の『フォーチュン』誌の日本特集号に次のような記事を書いている。「日本の産業制度は、・・資本主義・・国家主義・・共産主義・・(といった)同時代のどんな国の制度とも似ていない」「日本はどの国家よりも統一された産業計画をもって(いる)」「日本の産業の頂点にあるのは、・・産業統制である」「日本(の)・・金融システム・・は、われわれのものとは(違い)・・産業資本と銀行は対等・・ではない」「日本(は、)・・国際競争力の優位(に向けて、)国が一丸となって努力する・・それは、どの国もまねができない」と。
そして、日本は、欧米諸国が大恐慌以降の経済停滞に悩む中で、最も早く高度成長軌道に乗っていた。」(太田述正「防衛庁再生宣言」日本評論社2001年 PP234-235)
(4)にもかかわらず、日本のリーダーの大部分が、国際政治・軍事環境を読み間違ったのはなぜ
・ 民主主義の陥穽・・民主制アテネ、大革命期フランス、ドイツ帝国末期
・ 劣悪すぎた内外環境
(5) 戦後リーダーが払底したのはなぜか
ア 自立的な個人群の消滅(cf. ドイツ)
(ア) 価値の完全一元化・・軍の抹殺
(イ) 植民地・保護国からの引揚げと連邦制の不採用:吉田茂の責任一
(ウ) 植民地・保護国の放棄とethnic鎖国主義の採用
イ リーダー教育の放棄:旧制高校、陸士・海兵の廃止。中途半端な大学振興。
(大学院振興回避。学校群制度導入。):吉田茂の責任二
ウ 国の自立性の放棄(吉田ドクトリン):吉田茂の責任三
以下、もっぱらウについて述べる。(ア、イについては、質疑応答の中で触れたい。)
3 吉田茂の最大の過ち・・国の自立性の放棄
(1)血統と国体の混同:当時の日本の指導層が共通に抱いていた錯覚。
「英人・オランダ荷蘭人が、東洋の地方を取りて、もと旧の酋長をば其のまま差し置き、英・荷の政権を以て土人を支配し、兼ねて其の酋長をも束縛するが如き、是れなり。」(福沢、前掲書PP45)
「英人が東洋諸国を御するに、体を殺して眼を存するの例は少なからず」(福沢、前掲書PP46-47)
「古代ローマ帝国が異民族を侵略し、支配したときにまず最初に奪ったのは軍事権と外交権=条約締結権であった。(石母田正「国家史のための前提について」より。(中村政則「近現代史をどう見るか–司馬史観を問う」岩波ブックレットNO.4271997年より孫引き。同書PP32-33))
(2) 国の自立の最優先性(経済の手段性)についての無理解
「先ず事の初歩として自国の独立を謀り、其の他は之れを第二歩に遺して、他日為す所あらんとする・・」(福沢、前掲書PP301)
「この時に当て日本人の義務は、ただこの国体を保つの一箇条のみ。国体を保つとは、自国の政権を失わざることなり。」(福沢、前掲書PP48)
「英に千艘の軍艦あるは、ただ軍艦のみ千艘を保持するにあらず。千の軍艦あれば、万の商売船もあらん。万の商売船あれば、十万人の航海者もあらん。航海者を作るには、学問もなかるべからず。学者も多く、法律も整い、商売も繁盛し、人間交際の事物、具足して、あたかも千艘の軍艦に相応すべき有様に至て、始て千艘の軍艦あるべきなり。武庫も台場も皆かくの如く、他の諸件に比して割合なかるべからず。割合に適せざれば、利器も用を為さず。・・武力偏重なる国に於ては、動もすれば前後の勘弁もなくして、妄に兵備に銭を費し、借金のために自から国を倒すものなきにあらず。」(福沢、前掲書PP296-297)
4 では、どうすればよいのか
(1)吉田茂自身の痛惜の念をかみしめる
吉田の遺著とも言うべき「世界と日本」(番町書房1963年)の中で、吉田は次のように述べている。
「再軍備の問題については、[これが、]経済的にも、社会的にも、思想的にも不可能なことである[ことから、]私の内閣在職中一度も考えたことがない・・しかし、・・その後の事態にかんがみるに連れて、私は日本防衛の現状に対して、多くの疑問を抱くようになった。当時の私の考え方は、日本の防衛は主として同盟国アメリカの武力に任せ、日本自体はもっぱら戦争で失われた国力を回復し、低下した民生の向上に力を注ぐべしとするにあった。然るに今日では日本をめぐる内外の諸条件は、当時と比べて甚だしく異なるものとなっている。経済の点においては、既に他国の援助に期待する域を脱し、進んで後進諸国への協力をなしうる状態に達している。防衛の面においていつまでも他国の力に頼る段階は、もう過ぎようとしているのではないか。・・立派な独立国、しかも経済的にも、技術的にも、はたまた学問的にも、世界の一流に伍するに至った独立国日本が、自己防衛の面において、いつまでも他国依存の改まらないことは、いわば国家として片輪の状態にあるといってよい。国際外交の面においても、決して尊重される所以ではないのである。」(PP202)「今日、一流先進国として列国に伍し且つ尊重されるためには、自国の経済力を以って、後進諸国民の生活水準の向上に寄与する半面、危険なる侵略勢力の加害から、人類の自由を守る努力に貢献するのでなければならぬ。そうした意味においては、今日までの日本の如く、国際連合の一員としてその恵沢を期待しながら、国際連合の平和維持の機構に対しては、手を藉そうとしないなどは、身勝手の沙汰、いわゆる虫のよい行き方(ママ)とせねばなるまい。決して国際社会に重きをなす所以ではないのである。上述のような憲法の建前、国策の在り方に関しては、私自身自らの責任を決して回避するものではない。憲法審議の責任者でもあり、その後の国政運営の当事者でもあった私としては、責任を回避するよりは、むしろ責任を痛感するものである。」(PP206)「日本の国民意識が世界の現実からややもすると遊離するのを見て、今さらのように寒心にたえぬものがある。苛烈なる国際政局と対決する意欲はほとんど見られない。わが国民は行楽ムード、太平ムードにおぼれているらしいが、これは隣家が燃えているのに安閑と昼寝をしているようなものである。この結果は国民意識が停滞し、国家目的が忘却されることにもなるであろう。」(PP128)とも書いている。
(注)アンダーラインは太田による。以下同じ。
(2)「保守本流」よさらば・・政界再編のための臨時二大政党制を
宮沢喜一は、1959年に、寺沢一東大教授(当時)のインタビューに答えて、次のように語っている。
「[旧]安保条約を改定しようという議論・・は、一種の不平等条約だ、ということから起こったように思うのです。しかし、[旧安保の内乱条項はなくした方がよいが、]私は元来、形式的な不平等ということをあまり問題にしないし、またする必要がないと思うのです。ことに、集団安全保障とか、核兵器の時代になってきて、形式的に平等であると言ってみたところで、実益はあまりない。・・それが吉田さんの作り上げた体制だと思うのです。・・条約を平等にするということを仮にやるとすると、それは日本も、アメリカがピンチに陥ったとき守ってやるんだ、というそういう約束を日本国民がする気持ちがあるかといえばないにきまっている。したがって、名誉な条約とは思わないけれども、そのまま残しておくしか方法がない。・・私は、[岸首相等の、第九条を改めて、何とか軍隊というものを持ち得るものにしようという]意見に反対であるというばかりではなく、[そもそも、]そういうことは絶対に出来ませんよ。・・[旧安保でも]たとえば板付から飛行機が発った。そうすると板付そのものが敵性を帯びる、したがってこれは報復されても国際法上では、相手が違法であると言いきれるかどうか、私は疑問と思います。・・[ところが、新安保では、日本国内の米軍基地への攻撃を日本に対する攻撃とみなすというのだから、日本が自国に全く関わりのない戦争に巻きこまれる恐れがあるという意味での]危険性は深まるのではないか、と・・思います。・・[新安保は、]技術的問題で、かなり改善されているところ[は]あると思います。・・[いずれにせよ、]この秋に来そうないろいろな事態[(=安保改正反対運動)]を想像してみると、これだけの事態を呼ぶのにこんどの改正が価するかということになれば、・・私などは、安保条約を改定する必要はないという論者です。」(寺沢一「安保条約の問題性 増補改訂版」有信堂 1969年 PP121-130。なお、引用部分は、1960年の旧版のまま。)
1997年に至っても、宮澤氏は依然としてこの見解を繰り返している。「安保騒動の直接の原因となった日米安保条約の改正案は、岸さんらが当初意図した双務性が最終案では外されていたわけですから、冷静に考えれば大した改正じゃなかった。」(宮澤喜一・中曽根康弘「対論 改憲護憲」朝日新聞社 1997年9月 PP59)
そして、旧社会党ばりの発言も行っている。「[憲法]九条のもつ一番大事な意味は、これだけ自由で立派になった国が、「外国で武力行使はしない」というプリンシプル(原則)で、ここまで生きてこられたということです。核兵器が発達して手詰まりになり、通常の武力行使もなかなかやりにくくなってきたいま、日本のこういう生き方が歴史的にともかくこの五十年間成功して、こういう立派な存在になった。しかも、世界の大勢も戦争否定に傾きつつある。日本の在り方は一つのモデルだと思いたい。」(宮澤・中曽根 上掲 PP21)
<終わりに・・リーダーに期待するもの(同時多発テロ・文明の衝突・国家戦略)>
(1)アングロサクソンと日本は運命共同体
明治の有力政治家の星亨は、1897年、駐米公使時代に米国知識層を対象として書いたと思われる英文草稿を残している。有泉亨の紹介によれば、彼は、「ペリー来航以前の日本<は>徳川将軍と天皇の二重主権というべきもので、権力と権威が分離しており、将軍と大名との関係も直接支配・被支配ではなく、大名は広汎な自治権をもち、さらに農・工・商階級も、範囲は狭いが、共同体的自治により行政を分担してきた。このことが国民のなかに自主性と法の支配の観念を育て、明治維新を用意し、また維新後のさまざまな試練を乗り越えるのに役立ったと説」き、「日本人は古代から外来宗教に寛容で、外来の宗教と固有信仰を共存させてきた。近世初頭のキリスト教禁圧は、宗教的非寛容からでなく、宣教師の布教の仕方がもたらす治安妨害に対する政治的処置として行われたものであった」との趣旨を記しているという。(有泉貞夫「星亨」朝日新聞社1983年 PP225)
(2)日本文明の持ち味とその普遍性
ア Secularization の最前線に立つ日本
「其善を善とし悪を悪とするの點に於て・・我輩・・自から今の所謂宗教を信ぜずして宗教の利益を説く」(「福翁百話」(明三十)角川文庫版PP36)、「「今日に在て苟も有知有徳、以て社会の実用を為す可き人物は、啻に宗教を信ぜざるのみならず、其これを信ぜざること愈固ければ、愈以て人品の貴きを表するの証と為す可きに至れり・・「宗教の外に逍遙してよく幸福を全ふするは、我日本の士人に固有する一種の気風・・」(通俗国権論、明十一年)」(丸山前掲書PP243-244より)
→Huntington のキリスト教に偏向した考え方は危険。小室も同様。
イ 人間(じんかん)主義の日本
スタンフォード大日系Ike教授の説、「個人のアングロサクソン、階級の西欧、人間の日本」。そして、家族・種族のその他の社会
個人主義の非普遍性=米国の裸の個人主義の異常性
(3)脱亜入欧から脱亜入アングロサクソンへ
但し、反グローバリズム、反米国unilateralism の潮流の下、bastard Anglo-Saxon たる米国をいかに「善導」するかが問題。
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引用文だけでも、参考にしていただけたら幸いです。(太田)
日本のリーダー論(2001年レジメ)
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