太田述正コラム#3385(2009.7.9)
<新疆ウイグル自治区での騒乱(続)(その1)>(2009.8.9公開)
1 始めに
本日の英米主要メディアの電子版を読んでいて、表記についての私のスタンスがほぼ固まってきました。
私がこれまで抱いていた基本的な疑問は次の2点でした。
どうして中共当局は、外国のメディアをいち早く現地に連れて行ったのか?
どうして、今回の騒乱の端緒となった広東省でも、また騒乱の本舞台となった新疆ウイグル地区でも、漢人はあれほどウイグル人に対して激高しているのか?
おいおい種明かしをして行きますが、この2つの疑問への解答は実は同じなのです。
解答のヒントは、以下の二つの記事のそれぞれ一節です。
「・・・<どうしてチベットの時と今回とで中共当局の外国メディアへの対応が>かくも変わったのかははっきりしない。
新疆には、もともとチベットに比べて<外国人が>入り易かった。
当局としては、まだ死者の<民族別>リストを公表していないとはいえ、殺されたのは大部分漢人であったように見えることから、国際的な同情が集まると思ったのかもしれない。・・・」
http://www.guardian.co.uk/world/2009/jul/08/china-xinjiang-ethnic-violence-media(7月9日アクセス。以下同じ)
「・・・<1989年の天安門事件の時の学生リーダーの一人であったウイグル人の>ウーアルカイシ(Wu’er Kaixi)・・・は、<漢人達は、>自分達が<中共における>主要勢力であって、自分達はよりよい生活をウイグル人にもたらすことができる<と信じ込んでいる、>と指摘した。
「・・・私はこの種の議論には懐疑的だ。そんな議論が論理的に成り立ちうるとすれば、1930年代の日本による支那の侵略を支持した方がマシだったというこになりかねない。
いや、実際そういった議論をした者の方が正しかったという結果になっていたかもしれないのだ」と・・・」
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/jul/08/china-protest-uighur-deaths
以上のヒントをしっかりと記憶にとどめておいて下さい。
2 トリビア
「・・・トルコ族の遠戚であるウイグル人は、大部分がイスラム教徒であり、中共の全イスラム教徒の半分以上を占める。
この集団は、トルコ語グループのアルタイ分派(Altaic branch)に属する独自の言語を持っているが、書き言葉はアラビア語の文字をベースにしている。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/07/08/AR2009070802718_pf.html
トルコ族と来れば、コラム#3367の最後で私が言及した不気味な話を思い出して下さい。
「・・・<今回の騒乱でウイグル人に、結婚を目前に控えた25歳の一人息子を殺されたところの漢人たる>父親は、息子の遺体を探すために警察署で遺体の写真を100枚以上見たが、その圧倒的多数は漢人であり、またその大部分は頭に傷を負っているか頭をぶち割られていた、と語った。・・・
「<息子を>火葬してから、遺灰を持って郷里に戻る」と<その父親は>言った。
彼は、床一面にまき散らされたタバコの吸い殻を凝視しながら、「<私と家内は>二度とここに戻っては来ないだろう」と述べた。・・・」
http://www.nytimes.com/2009/07/09/world/asia/09han.html?_r=1&hp=&pagewanted=print
まさか、ニューヨークタイムスが取材した(取材を許された)この人物は中共当局の諜報工作員が扮していたのではないか、とまで疑り深くなる必要はなさそうです。
当局ないし漢人によるウイグル人の虐殺、と今次騒乱を単純に総括するのは控えた方がよさそうだ、ということになります。
3 レビア・カディーアについて
コラム#3383、3384で登場しているレビヤ・カディーア(62歳)は、チベット人におけるダライ・ラマに準えられる人物である以上、彼女についてもっとよく知る必要があります。
彼女は、少なくともダライ・ラマとは全く異なった人間です。
「・・・早い時期から、カディーアが決意が固く抜け目がないビジネスウーマンだったことは議論の余地がない。
彼女は、必要とあれば路傍で袋から商品を出して売ろうとするし、また、チャンスだと思えば何千もの羊の毛皮や木材を売買しようとする人物だった。
中共の経済が開放された1980年代に、彼女は、不動産業も始め、成功を収めた。
1990年代までには、彼女は中央アジア一帯でいくつも商社を経営するようになっており、有名な女性バザールをつくり、次いで新疆地区の首都であるウルムチに7階建てのデパートをつくり、更にウイグルの女性のための慈善団体を切り盛りした。
彼女は、このようなキャリアにおいて、様々な個人的コストを払った。
ウイグルの習慣の考えられない違反であって、親戚達を怒らせつつ、彼女は一時に何ヶ月間も自分の小さい子供達を共働きの夫か親戚達に預けて旅行した。
「もちろん女性たる私として、子供達を残していくことは困難なことだった」と彼女は語る。「しかし、私はお金が国家の運命にとって極めて重要であることに気づき、このお金を見つけてやろうと決心したの」と。
彼女の子供達のうちの5人は現在米国におり、みんな今週はパソコンや電話で昼夜を問わず忙しく立ち働いていると彼女は言う。
更に5人が、牢獄に入っている2人を含め、中共に残っており、最後の1人はオーストラリアに住んでいる。
1990年代の半ばには、中共の役人達は、彼女を少数民族の成功例として触れ回り、彼女を全国協商会議の議員にまでしたけれど、彼女は、変革を起こすために仕事をしたいと思い、政治的夢を見失うことは決してなかった・・・。・・・
・・・彼女は、ウイグル人が抱える様々な問題について訴え始め、反体制派として米国に居住するに至っていた彼女の夫との絆を維持し続けた。
1999年に彼女は投獄された。・・・
現在彼女は、・・・二つの組織を率いている・・・。
一つはウイグル米国協会(Uighur American Association)であり、もう一つは世界ウィグル会議(World Uighur Congress)だ。
どちらも、米国の国家民主主義基金(National Endowment for Democracy<。その資金の大部分は米国政府が負担している>)から資金援助を受けている・・・。・・・」
http://www.nytimes.com/2009/07/09/world/asia/09kadeer.html?pagewanted=print
「・・・1997年までに、彼女は、ウイグル人女性を支援する組織をつくり、ウイグル語の学校もつくった。
後者は、十分すぎるほど分離主義的なにおいがしたため、彼女は中共の治安諸機関に目を付けられることになった。
1999年8月にカディーアは、彼女が代表となって米国の議会スタッフ何名かとウルムチで会おうとした時、拘引された。
彼女は、国家機密を外国人に漏らした廉で有罪となり、牢獄で8年間過ごした。
米国政府と世界中の人権団体が彼女の釈放を求めた。
2005年、中共政府は彼女を牢獄から釈放し、北バージニア州行きの飛行機に乗せた。」
http://www.taipeitimes.com/News/world/archives/2009/07/09/2003448179
果たしてこれがカディーアの望むところであったかどうかはともかく、現在は彼女は米国政府お抱えで中共反体制活動を行っている、ということです。
(続く)
新疆ウイグル自治区での騒乱(続)(その1)
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