太田述正コラム#3124(2009.2.28)
<イスラム・中世のイギリス・中世の欧州(その1)>(2009.8.26公開)
1 始めに
 元ロイター通信社の記者で編集者であった、アラブとイスラム世界の専門家の米国人ジョナサン・リヨンズ(Jonathan Lyons)が上梓した’The House of Wisdom: How the Arabs Transformed Western Civilization’の内容をかいつまんでご紹介しましょう。
2 中世の西側世界の状況
 「・・・11世紀末の西側世界はそれはそれはひどい状況だった。人々は日常的に蔓延する暴力沙汰と社会的不安定さの下で呻吟する生活を送っていた。
 傭兵の諸集団が、国王にも神にも責任を負うことなく、田舎をほっつき歩いており、これらの集団の親分だけが土地土地の法だった。
 欧州大陸では、おおむねどこでも、原始的な農法のために人口増に追いつけなかったし、時代遅れの相続法によって多くの人々が困窮し絶望的になっていた。
 中央の政治権力の弱さによって油を注がれた上、カトリック教会の道徳的規律力が弱いためにそれによって押しとどめられることもないことから、暴力が日常を支配していた。・・・
 イギリスでも、ノルマン人による征服からまだ20年しか経っていなかったこともあり、政治的・社会的紛争が絶えなかった。
 また、今日では明確に区別された国家となったところのイギリスとフランスが、何世紀にもわたってアブナイ関係を保ち、間歇的に喧嘩をするというのが中世後期のありふれた様相だった。
 この両者の間には、それと同時に、政治的、文化的、そして個人的な深い紐帯があり、アデラード(後述)が<フランスの>ツール(Tours)で高等教育を受けたり、ジョン司教(後述)のような指導的官吏や廷臣達が欧州大陸で活躍したりしたことも驚くべきことではないのだ。・・・
 エリートが集う大聖堂付属諸学校でも状況はほとんど同じだった。
 野蛮人の西ローマ帝国への侵攻によって4世紀から始まったところの混沌と無秩序は正規の教育制度を破壊し古典的知識の断絶をもたらした。
 その300年後に行われたイスラム教徒による征服は、遠く離れたコンスタンティノープルに拠点を置いていたビザンチンのキリスト教徒達・・そこではギリシャの知的伝統の痕跡がなお残っていた・・と西側世界との交流を断ち切った。・・・
 ローマ帝国の貴族達はギリシャの文人達の書いたものを原文で読めたため、当時はプラトンやアリストテレスの哲学やアルキメデスの工学上の驚異やユークリッドの幾何学をラテン語に翻訳する必要はなかった。
 学術言語としてのギリシャ語が消滅したことは、何世紀にもわたる知識が、ラテン語を公用語としていた欧州の集合的意識の中から消滅してしまうことを基本的に意味した。
 アイルランド、北イギリス、カタロニア、そしてイタリア南部において散在していた修道院という出先において、僧侶達が古典的伝統を生かし続けるべく努力をしていたことは事実だ。
 しかし、その水準は、かつてギリシャ人が達した高みに比べて、またアラブ世界で生み出されていた新しく面白い業績に比べて、極めて低いものだった。
 西側世界の数学研究の中心であった<フランスの>ラオン(Laon)の大聖堂付属学校においても、アデラード(後述)の時代の最高の知性達にゼロを用いるという観念はなかった。
 ラオンの教師達は、12世紀初頭にイギリスとノルマンティーの両方を統治していたヘンリー1世に対し、彼の財務を管理するための最新の手法を教えた。
 このために使われたものの一つが特殊なテーブルクロスであり、チェスの盤面のように縦線と横線が表示されていた。そしてアラブ支配下のスペインから数年前にやってきたところの、算盤の原理が使われていた。・・・
 このような王室の重要な職責であるというのに、ラオンの学術水準は極めて低いものだった。・・・最も単純な計算でさえ間違いだらけだったのだから。
 ・・・もっと悩ましいのは、毎日の時間を計ったり、暦をつくったりすることが出来なかったことだった。
 中世のキリスト教圏の眠りこけたような基準に照らしても、時間は疎かにはできないことだった。<それは、決められた時間に祈りを捧げるという>天上での救済の追求と関連していたからだ。・・・
 これは日中においては比較的容易だった。太陽の位置の変化で時間はおおむね分かるからだ。
 しかし夜間においては、ラテン語圏の西側世界の僧侶達は、自らの無知のために文字通り漆黒な中に置き去りにされたのだ。」
http://online.wsj.com/article/SB123455619169885221.html#printMod
(2月28日アクセス。以下同じ。)
3 イスラム世界の状況
 「イスラム教の信徒達による征服と帝国形成は、巨大なユーラシア大陸における文明の歴史的諸中心の間の古の紐帯の回復もまた伴った。これは、何世紀にもわたる政治的分割によって強制的に分離されていたところの、知的諸伝統・・ギリシャで発展し後にアレキサンドリアに移ったところのヘレニズムの学問と、シュメール、ペルシャ、そしてインドの智慧・・の貴重な「るつぼ」を創り出した。
 イスラム教徒、キリスト教徒、ゾロアスター教徒、星を信仰する<南イエメン及びエチオピアの>シバの人々(Sabaeans)、そして様々な他の異教徒達が、みんな考えと教えを交換することができるようになったのだ。・・・」
http://www.huffingtonpost.com/magda-abufadil/the-house-of-wisdom-how-t_b_163012.html 
(続く)