太田述正コラム#3130(2009.3.3)
<イスラム・中世のイギリス・中世の欧州(その4)>(2009.8.31公開)
5 欧州のイスラム受容と反発
「イスラム思想と学問は中世のキリスト教圏を見違えるように変貌させた、とリヨンズは記す。
一番重要な輸入物は自然哲学・・近代科学の前駆者・・とそれと一緒に入ってきた考え方・・大学が知的、文化的、かつ社会的制度であるとする観念・・だった。
13世紀のイギリスの科学者にして哲学者であったロジャー・ベーコン<(コラム#46)>は、イスラム支配下のスペインをアラブ人の服装で旅して歩き、パリで自然哲学を教えた最初の人々のうちの一人だった。
これらの輸入物なかりせば、ルネッサンスは不可能だっただろうし、我々が知っているような欧州の「進歩」は想像することもできなかっただろう・・・。
アラブ人達は、欧州に彼らのイデオロギー的かつ知的アイデンティティーを与えた。実際、リヨンズは、「西側世界」そのものがイスラムの創造物であることを示唆する。
しかし、西側世界のイスラム世界への感謝の念は、そのアラブの遺産を意図的に忘れ去る形で表明された。
このプロセスは、アデラードとスコットの後継者達によって始められ、4つの中心的テーマがあった。イスラム教は神の言葉を歪曲した、それは刀のみによって普及した、それは人間の性を乱れさせる(perverts human sexuality)、そしてその預言者ムハンマドは山師でアンチキリストだ、<の4つだ>。
そこで、アラブの学問を歴史から抹消し、学問はギリシャから<西側世界に>直接伝わったとする必要が生じた。
14世紀の反アラブ知識人達の中で最も著名なペトラルカ(Petrarch)は、「私はアラビアから何か良いものがやってきたなどということは全く信じない」と宣言した。
スコットはアラブの学問に通暁したが、このため、ダンテ(Dante)は彼を地獄の下の方の深みに魔法使い達とともに投げ入れた。・・・」
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/book_reviews/article5569107.ece前掲
「・・・アラブの学問の力は、・・・欧州の知的風景を一新した。この影響は16世紀、そしてそれ以降にまで及び、コペルニクスとガリレオの画期的業績を形作った。
このことがキリスト教の欧州を太陽が宇宙の中心にいるという事実と直面させた。
イスラム支配下のスペインの哲学者兼裁判官であったアヴェロエスは、古典哲学を西側世界に説明し、かつ合理論的思想を紹介した。
アヴィケンナの「医学大全(Canon of Medicine)」は1600年代に至るまで欧州で標準的な<医学>教科書として用いられた。
アラブの光学、化学、そして地理学の書籍も同様に<欧州で>長く用いられた。
しかし、イスラム文化の受容(openness to)は、<イスラム世界との>軍事的かつ政治的紛争、とりわけ累次の十字軍によって相殺された。この間、欧州の人々のイスラムに対する態度は大きな変化をきたした。
西側世界のアラブの遺産に対する意図的忘却は、累次の十字軍の影の下ででっち上げられた反イスラム・プロパガンダが、その近代科学の発展に果たした深甚なる役割についての認識を薄れさせ始めたところの、数世紀前に始まっていた。・・・
アデラード・・・がかつて「もちろん神が宇宙を支配しておられる。しかし我々は、自然界の探求をしてもよいし、しなければならないのだ。アラブ人達がこれを我々に教えてくれた」という見解を述べた<にもかかわらず・・。>・・・」
http://www.historybookclub.com/ecom/pages/nm/product/productDetail.jsp?skuId=1033481506&cat1=3160401&browse=3160124、
「今の言葉だとしても全く不思議ではない言葉が900年前に十字軍の記録者たるギルベール・ド・ノジョン(Guibert de Nogent)によって記されている。すなわちイスラムを攻撃するためにはイスラムについて何も知らなくてよいと。・・・
11世紀までは、イスラム教徒達は、西側のキリスト教圏の大部分にとって、バイキングやマジャール人のような野蛮人的迷惑者でしかなかった。
ところが、1095年に十字軍の呼びかけがなされ、その準備がなされるにつれて、すべてが永久に変わってしまった。
その時点からは、イスラム教徒達には、西側世界の理想や価値観の鏡に映った反対像たる社会的、政治的、そして宗教的な様相が帯びさせられることになったのだ。・・・
西側世界の科学史家達は、おおむね<ペトラルカ>的な科学史を記述し続けた。
すなわち、その多くは、アラブ人達を、ギリシャの知的業績の親切だが効果的かつ中立的な管理者に過ぎず、古の人々の業績をほんの少し前進させるかあるいは全く前進させなかったかどちらかであるとした。
こうして古典的学問が西側世界によって「再発見」されたという一貫した観念が生まれた。
これは、古典的業績はキリスト教の欧州が生まれた時から受け継いでいたものであって、古典的業績は中世において単に忘れられていた(misplaced)だけだ、という明確な含意があった。・・・」
http://hnn.us/roundup/entries/60619.html
(続く)
イスラム・中世のイギリス・中世の欧州(その4)
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