太田述正コラム#3455(2009.8.11)
<歴史について(続)(その1)>(2009.9.11公開)
1 始めに
マーガレット・マクミラン(Margaret MacMillan)による’The Uses and Abuses of History’を、「歴史について」シリーズ(コラム#3222、3224)でとりあげたところですが、最近、彼女による、’Dangerous Games;The Uses and Abuses of History’という、紛らわしいタイトルの本が上梓され、前作以上の話題を呼んでいます。
そこで、「歴史について(続)」シリーズとして、各種書評にどのようなことが書いてあるのかをご紹介することにしました。
2 各種書評の内容の紹介
「・・・歴史は「第一に、我々が関わらなければならない人々について、そして第二に・・これは同様に重要なことなのだが・・我々自身を、理解するのを助けてくれる」・・・
時々我々は歴史を濫用し、一方的ないし誤った歴史をつくりあげ、例えば、他の人々をひどく取り扱い、彼等の土地を奪取したり、彼等を殺したりする。
また、歴史が与えてくれるたくさんの教訓や忠告があるが、その中からあなたが欲するものを拾い選ぶことは容易だ。
過去は、あなたが現在行うことを欲するほとんどすべてのことのために、使おうと思ったら使うことができる。
我々が過去についてウソをつくりあげたり、たった一つの見方しか示さない歴史を書いたりした場合、それを歴史の濫用という。
我々は、歴史から教訓を注意深く引き出すことも誤った形で引き出すこともできる。
だからといって、歴史の中に我々が理解、支援、そして助力を見いだすべきではない、ということにはならない。
我々は、用心しながらそれらを見いだすべきだ、ということなのだ。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/07/10/AR2009071001707_pf.html
(7月12日アクセス)
「・・・2003に歴史学教授のジェームス・レーン(James Laine)は、17世紀の<インドの>ヒンズー<教信徒たる>国王シバジ(Shivaji)に関する本を出版した。
その中で、彼は半分真面目に、シバジは彼の父の子ではなかったかもしれないと言及した。
レーンのこのコメントは、シバジの故郷である<インドの>マハラシュトラ州の保守的グループを動かし、オックスフォード大学出版会はこの本をやむなく撤去した。
事態はそれから暴力沙汰へと発展した。
群衆が、レーンが謝辞を記したインド人学者を打擲し、他の群衆はレーンが作業をしたことがある研究所を襲って略奪した。
警察は、レーンと出版会に「暴動を起こす意図をもって理由なく挑発行為を行った」嫌疑をかけた。・・・
・・・17世紀の国王についての豆記事が21世紀の選挙の帰趨に影響を与えたわけだ。・・・」<(コラム#301~303参照)>
http://www.barnesandnoble.com/bn-review/note.asp?note=23363741
(8月10日アクセス)
「・・・極めて多数の東独の人々は、第二次世界大戦の時に彼等の国がロシアとともに戦ったと信じて成長した。
それはソ連がしくんでごまかしを行った事例の一つであり、<ソ連が>同盟相手となった旧敵<東独>のために<両国>共通の歴史をでっちあげようと画策したものであり、それはうまく機能した。・・・
マクミランは、19世紀にいかにギリシャ人達が彼等の古典帝国の境界線をトルコ侵略の正当化のために用いたか、また、20世紀にスロボダン・ミロシェヴィッチ(Slobodan Milosevic)がいかに再生セルビアのアイデンティティーをはるか600年も前の会戦から紡ぎ出そうとしたか、を教えてくれる。
ポルポトは、歴史を完全に否定し、彼の体制をゼロ年から開始した。
中国共産党も、最初に権力の座に就いた時、やはり、儒教の古典を焼き、伝統的諸慣習を非難した。
権力の座が安泰となり、ようやく今になって、その野望に金メッキを施すため、中国共産党は過去からのつまみ食いを始めている。・・・」
http://features.csmonitor.com/books/2009/08/05/dangerous-games/
(8月5日アクセス)
「ヘロドトス(Herodotus<。BC484?~425?年>)は歴史をホメロス的神話から切り離した。
彼は、書かれた典拠を参照し、旅をして聞き書きを行い、読者達に彼が知っていることか彼が単に推測したことかを明らかにした。
しかし、彼は情報の正確性にこだわって物語としての良質さを損なうようなことはほとんどしなかった。
彼は、過去を称えることを超える目的を有していた。
すなわち、彼はギリシャの自治政府がペルシャの専制主義より優れていることを証明しようと思ったのだ。・・・
・・・いずれにせよ、彼女から見て、<このところ、>米国に比べて、英国、フランス、及びカナダにおいて、あらゆる歴史的なものに対する熱中がより明らかに顕在化している。
彼女はこの熱中を冷戦が終わったからだとする。
それにより、2超大国制が打ち壊され、この2カ国よりも弱体な人々と諸国家が、彼等のかつての重要性を思い起こすことを可能にしたというのだ。・・・
<その結果、>歴史戦争における戦闘があらゆるところで勃発した。
<1992年には、>西半球全域にわたり、人々と諸政府は、クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)を、その1492年のアメリカ大陸への旅行に関して祝うべきか非難すべきか決めることができなかった。
ドイツ人達は、同様、フリードリッヒ大王(Frederick the Great)の死後200年の1986年にあたり、彼が啓蒙時代の哲人王であったのかヒットラーのプロト・ファシストたる前走者であったのか、意見が真っ二つに割れた。
<1989年の>フランス革命開始の200周年には、それが始まった時の自由化に注目すべきか、独裁制へと至った大団円に注目すべきか、という議論が再燃した。
日本の歴史家達は、1930年代の日本の軍国主義者達による犯罪を暴く試みを何度も繰り返してきたが、日本の保守的政治家達は、この議論を封殺するか議論をそらすかに努めてきた。・・・」
http://www.nationalinterest.org/Article.aspx?id=21676
(8月10日アクセス)
自分を歴史の父になぞらえるのはおこがましいですが、私はヘロドトス的な歴史へのアプローチをしている、と言ってよさそうです。なお、申し上げるまでもありませんが、私の意図するところは、日本の「独立」です。(太田)
(続く)
歴史について(続)(その1)
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