太田述正コラム#3212(2009.4.13)
<キリスト教・合理論哲学・全体主義(続)(その1)>(2009.9.14公開)
1 始めに
かつて、「キリスト教・合理論哲学・全体主義」シリーズ(コラム#1865、1866)で、共産主義やファシズムがキリスト教の変形であると(竹山道雄以外では)グレイが初めて主張したといった趣旨のことを記しましたが、グレイ(John Gray)がこのたび上梓した、’Gray’s Anatomy: Selected Writings’ の書評等を斜め読みしたところ、そうではないことが分かりました。
そこで、このことも含め、グレイの主張について改めて掘り下げたいと考えました。
ちなみに、グレイは、現在LSEの教授を辞めて、バースの自宅で、日本古物商の日本人の奥さんと暮らしながら、著述活動を続けています。
彼は、オックスフォードの教授、ハーバードやエールの客員教授もやったことがあります。
2 コーンの主張とそれにグレイが付け加えたもの
(1)コーンの主張とそれにグレイが付け加えたもの
「私<(グレイ)>が初めてノーマン・コーン(Norman Cohn)の「千年王国を追い求めて(The Pursuit of the Millennium)」を読んでから40年以上が経つ。
1957年に出版されたこの本は、中世末期と近代初期の欧州における千年王国的宗教運動を取り扱っているところ、この千年王国的な物の考え方は宗教の衰退によっても終わることがなく、20世紀の世俗的な全体主義運動において類似の形態の物の考え方を立ち現れている、ということを明らかにしている。
共産主義者達もナチ達も歴史的大変動、すなわち、人間の生活が完全に変化してしまうところの歴史における破断(rupture)を予期していた。
両者とも在来の宗教に対しては、執念深いほど敵対的だった。それにもかかわらず、コーンが示したように、両者は、中世キリスト教の強力な諸特性(strand)と構造的に瓜二つであるところの、集団的救済なる黙示録的概念の複製を作り出したのだ。
世界に救済をもたらすのはもはや神ではなかった。
「人間(Humanity)」もしくは、とくわけ進歩的または人種的に優れている考えられるところのその上澄みの部分が、奇跡的変容を引き起こすとされた。
信条の中身こそ世俗化に伴って修正が施されたが、思想の構造は変わらなかった。
歴史は相変わらず、黙示録的な用語で、善と悪との間の闘争として語られたのだ。
この闘争は、極度に激しい紛争を経てからではあるものの、善の勝利でもって終わると考えられた。・・・
私がノーマン・コーンに出会った時、面白いと思ったのは、彼のこの本は、捕虜になったナチスの人々が交わした会話がヒントになったという点だ。
彼は、第二次世界大戦中、諜報業務についており、その一環として捕虜の会話を盗聴していたのだ。
<つまりコーンは、>全体主義諸運動の宗教的起源<を主張したというわけだ。>・・・
・・・<それだけではない。>対イラク戦争の支持者達のかなり多くは終末論的(eschatological)発想を抱いている。
この対イラク戦争をハルマゲドンへの序章であるとして支持した米国のキリスト教原理主義者のように、終末論的な考え方は明確に宗教的様相を帯びることがある。
しかし同じ発想がネオコンによっても表明された。
ネオコンは、<イラクの>体制変革を「全地球的民主主義革命」の出発点と考えたし、リベラルの介入主義者は、サダム・フセインを打倒することは、人権によって治められる新しい世界秩序を構築することになると夢想した。
どちらにせよ、イラクの特異性、すなわち、植民地時代に作り出され、深く巣くっている<シーア派、スンニ派、クルド人>相互間の敵意によって分裂しているところの、複合国家としての状況、は無視され、内戦とアナーキーの危険性は軽んじられた。
<イラクの>歴史が発する警告は、新しい世界についての直覚的悟り(epiphany)の前に右から左に聞き流された。
全体主義的イデオロギーは、黙示録的及びユートピア的思考から形作られたということを受け容れる考え方の系譜はあるが、<その系譜の人々は、>同時に、自由主義的ヒューマニズムは全く違った物だと主張してきた。
ナチスや共産主義者の連中は、思い違いをしていて非合理的だったかもしれないが、我々のような啓蒙された改善説論者(meliorist<=人間の努力によって世界が改善されるとする説を唱える人>)は、頭の中から神話を放逐したのであるというのだ。
しかし実は、リベラルな合理主義を活性化するところの倫理と政治における進歩という信条は、それ自体が神話なのだ。
リベラルな合理主義は、キリスト教の信条におけるところの、一回限りの変容なる出来事という観念抜きではあっても、信仰に立脚する人間の救済の物語たる罪のあがないのプロセスであると歴史を見る<点ではキリスト教の黙示録的思考と変わりがない>。
もちろん、人間の生活が時には改善されうることは言うまでもないことだ。
しかし同時に、こうして得られたものは通常時間の経過とともに失われてしまうものなのだ。
歴史が改善のプロセスであるという観念は、信仰の部類に属するのであって、観察と推論の結果ではないのだ。・・・」
http://www.newstatesman.com/books/2009/02/norman-cohn-john-gray-world
(4月13日アクセス)
(2)コメント
竹山が、『見て 感じて 考える』(創文社。1953年)に収録されている「進歩思想について」を上梓したのは1952年(コラム#2577)ですが、竹山の当時記した主張を今振り返ってみると、コーンより5年も早く、しかも、はるか後の2009年にグレンが付け加えた改善説(進歩史観)批判を織り込んだ形でコーンと同じことを指摘していたことになります。
わが日本には、大変な人物が戦後直後にいた、ということになりますね。
(続く)
キリスト教・合理論哲学・全体主義(続)(その1)
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