太田述正コラム#3258(2009.5.6)
<弱者が強者に勝つ方法>(2009.9.22公開)
1 始めに
今回も、典拠が一つだけのコラムなのですが、あしからず。
言い訳を申し上げれば、第一に、コラム#3256に引き続き、才能よりも努力が重要であるという趣旨の話をすることに意義があると思ったこと、第二に、この典拠が、おおむね誰でも知っている典拠に拠っていること、そして第三に、他に適当なテーマを見いだせなかったことです。
2 弱者が強者に勝つ方法
「・・・政治学者のアイヴァン・アレグィン=トフト(Ivan Arreguin-Toft )は、最近、過去200年にわたる強者と弱者との戦闘のすべてを精査した。
すると彼は、ゴリアテ(Goliath)が71.5%勝利したことを発見した。
<何と、片方が軍事力といい、人口といい、少なくとも10倍は強力な場合ですら、弱者が3分の1は勝利しているのだ。>・・・
<そこで彼は、弱者が非在来型(unconventional)戦略をとった場合を調べてみた。>
そんな場合は、ダビデ(David)の勝利の割合は28.5%から63.6%にはねあがった。
つまり、弱者がゴリアテのルールに則って試合をしなかった場合は弱者が勝つ<というわけだ。>・・・
T.E.ロレンス(T. E. Lawrence。あるいはより良く知られているところの、アラビアのロレンス<。1888~1935年>)が、第一次世界大戦の終わり近くにアラビアを占領しているオスマントルコ軍に対する叛乱を率いたやり方を考えてみよ。
英国が、アラブ人達の蜂起を助けるにあたって、最初に狙ったのは、トルコが建設した、ダマスカスから南下してヒジャズ(Hejaz)沙漠を横断する長い鉄道の終点であるメディナだった。
トルコ軍はメディナに大軍を終結させており、トルコ軍がその地域全体を脅かす前に、英国の上層部はロレンスにアラブ人を集めてそこにあるトルコ軍の要塞を破壊することを望んでいた。・・・
ロレンスは、トルコ軍が強い所を攻撃する代わりに、トルコ軍とダマスカスとを結びつけているところの、おおむね防備されていない長い鉄道全体、というトルコ軍にとって弱い所を攻撃すべきだと考えた。・・・
ロレンスの指揮に服していたベドウィン(Bedouin)達は、普通の意味では、練度の高い部隊ではなかった。彼らは遊牧民だった。
この地域における英軍司令官の一人であったサー・レギナルド・ウィンゲート(Reginald Wingate)は、彼らを「訓練されていない群衆であり、その大部分は小銃を撃ったこともない」と形容した。
しかし、彼らは頑健で機動的だった。典型的なベドウィンの兵士は、一丁の小銃と弾100発、小麦粉45ポンド、飲み水1パイントしか携行しなかった。そのおかげで、夏でさえ、沙漠を横切って一日110マイルも旅をすることができた。
ロレンスは、「我々の切り札は速度と時間であり、打撃力ではない」と記している。 「我々が持つ最大の資産は部族の男達だ。彼らは正規の戦争には慣れていないが、その資産は機動、忍耐、個々人の知力、国についての知識、勇気だ」と。
18世紀の将軍、モーリス・ド・サックス(Maurice de Saxe<。ザクセン選帝侯兼ポーランド王の庶子。伯爵。フランスの大元帥となる。1696~1750年>)が、戦争術は武器ではなく脚だと喝破したことは有名だが、ロレンスの部隊は脚しかなかったと言える。・・・
ロレンスの偉大なる一撃は港町のアカバ(Aqaba)への攻撃だ。
トルコ軍は、アカバ湾を哨戒している英軍の艦艇による西側からの攻撃を予期していた。
ところがロレンスは、そうではなく、無防備の東側の沙漠からこの都市を攻撃することを決心した。そしてそのため、彼は大胆不敵にも、配下を率いて600マイル迂回した。
まず、ヒジャズからシリア沙漠まで北上し、それからアカバまでとって返したのだ。
これは夏のことだった。しかも、中東において最も人間にとって厳しい土地をいくつか横切らなければならない。わざわざロレンスがダマスカスの郊外までの余分な遠征を行ったのは、トルコ軍に自分の意図を気取られないためだ。・・・
彼らが最終的にアカバに到着した時、ロレンスの数百人の戦士達は1,200人のトルコ軍を殺害しまたは捕虜にしたが、わずか2人しか失わなかった。
トルコ軍は、彼らの敵が、沙漠からやってくるなどというキチガイ沙汰をしでかすとは思ってもみなかったのだ。
これはロレンスの偉大なる洞察力を示すものだ。
ダビデは、才能(ability)を努力(effort)で代替させることによってゴリアテを倒すことができたわけだ。
<これ>は、いかなる分野においても、弱者が勝利する定跡なのだ。・・・
<同時に銘記すべきことがある。それは、>叛乱者達は<バッチ方式ではなく>リアルタイム<方式>の作戦を行ったという点だ。
ロレンスは、1917年春の一連の作戦において、ほとんど毎日トルコ軍を攻撃した。というのは、彼は戦闘のペースを加速させるほど戦争が忍耐力の勝負になることを知っており、忍耐力の勝負は叛乱者側に有利だからだ。・・・
<そして、繰り返しになるが、>ロレンスは、トルコ軍の強い所であるメディナではなく、弱い所である鉄道を攻撃した。・・・
これを、消耗戦略(exhausting strategy)という。・・・
・・・202回の決定的な力の差がある戦闘で、弱者は、ゴリアテに普通のやり方で挑んだ152回のうち、119回敗北した。
1809年にペルー人達がスペイン軍に正面から挑んで敗北した。1816年にはグルジア人達がロシア軍に正面から挑んで敗北した。1817年にはピンダリ(Pindari<。マラータ同盟(コラム#301、302、303、729、1677)と共に戦った非正規騎兵>)達が英軍に正面から挑んで敗北した。1817年のカンディアの(Kandyan)叛乱<(セイロン島中央部にあったカンディア王国の英軍との戦い)>ではスリランカ人達が英軍に正面から挑んで敗北した。1823年にはビルマ人達が英軍に正面から挑むことを選び敗北した。
このように失敗の事例は尽きることがない。
1940年代に、ベトナムでの共産主義叛乱はフランス軍を悩ませ続けたが、1951年にベトミンの戦略家のボー・グエン・ザップ(Vo Nguyen Giap)が在来型戦争へと切り替えた途端、何度も敗北する憂き目に遭った。
ジョージ・ワシントンは同じ過ちを米独立革命でしでかした。紛争の初期において植民地人側に大いに貢献したところのゲリラ戦術を放棄するという過ちを。・・・
その結果、彼は何度も敗北し、あわや敗戦の憂き目を味わうところだったのだ。・・・ 我々は能力(skill)は稀少な資源であるのに対し、努力なんてものはありふれたものだと思いがちだ。
しかし、その逆が正しいのだ。
努力は能力(ability)に対する切り札になりうるのだ。サックスの言うところの、脚は武器を圧倒することができるのだ。つまり、たゆまぬ努力は、実際のところ、見事に洗練された調整的行動を行いうる能力よりも稀少な存在なのだ。・・・
<このように>叛乱者達はゴリアテよりももっと頑張る<ことによって勝利を収めうるわけだ。>
もう一つ、叛乱者達が有利なのは、「社会的に身の毛がよだつこと」をやるという点だ。つまり彼らは、どのように戦闘が行われるべきかについての通念(conventions)にとらわれず、これに挑戦するということだ。・・・
T.E.ロレンスは、・・・まともな英軍士官とかけ離れた存在だった。
彼は<オックスフォード大学卒であり、>英陸軍士官学校を・・・卒業したわけではない。
彼はもともとは考古学者であり、夢見がちな詩人だった。
彼はサンダルを履き、完全なベドウィンの服装をして彼の上官達に会いに行った。
彼はアラビア語を母国語のようにしゃべれたし、らくだにずっと乗ってきたかのように乗ることができた。
ダビデは、羊飼いであったことを思い出して欲しい。
彼は投石機といったものを携えてゴリアテと相まみえた。それはこれらの道具が彼の仕事道具だったからだ。・・・」
http://www.newyorker.com/reporting/2009/05/11/090511fa_fact_gladwell?printable=true
(5月6日アクセス)
3 終わりに
ロレンスは、士官学校こそ出てはいませんでしたが、イギリスの上流階級(父親は準男爵(Baronet))の一員としての家庭教育や学校教育の中で、士官としての素養教育、すなわちリーダーとしての素養教育を受けていたと思われます。
http://en.wikipedia.org/wiki/T._E._Lawrence
いずれにせよ、軍人としての専門教育を受けなければ軍事指揮官が勤まらないどころか、リーダーとしての能力があれば、傑出した軍事指揮官たりうることが、ロレンスの例からも分かります。
結局、部隊の強弱は、部下の力を十二分に引き出すことができる能力を指揮官が持っているかどうかによって決まるのであって、このような能力のない指揮官が、努力だけでもって薄弱な能力を代替することはできない、ということではないでしょうか。
よって、部隊の強弱は能力ではなく努力によって決まる、というこの記事の筆者の指摘は、やや雑駁過ぎるように私は思います。
弱者が強者に勝つ方法
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