太田述正コラム#3495(2009.8.31)
<イギリス大衆の先の大戦観(その2)>(2009.9.29公開)
3 日本について
「・・・こ<の本>は、1939年8月のグライヴィッツ事件(Gleiwitz incident)(注1)からその6年後の長崎への空襲<(原爆投下)>に至る、単純明快な戦争の物語だ。・・・」(C)
(注1)ポーランド人を装ったナチスの工作員達が、第二次世界大戦の始まる直前の1939年8月31日に、ドイツの上シレジアのグライヴィッツ(1945年以降はポーランド領)のゼンダー(Sender)・グライヴィッツ・ラジオ局を攻撃した事件。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gleiwitz_incident
というのに、
「全18章のうち、たった3章しか対日戦争に充てられていない。・・・」(H)
というところに、ロバーツが、というか、イギリス人が、いかに対日戦を思い出し、語ることから逃げ回っているかが分かろうというものです。
イギリス人からすると、対日戦は、必ずしも正義の戦いではなく、しかも、その結果、大英帝国は崩壊することになったのですから、その気持ちは分かりますが・・。
いずれにせよ、
「これは全球的紛争であったのであり、ロバーツは・・・太平洋と東南アジアにおける対日戦に関し、欧米の人種差別主義的態度について、厳しい言葉を投げかけている。・・・」(H)
という限りにおいては、大変結構なのだけれど、それは、
「・・・日本の初期におけるいくつかの軍事的成功の後、それ以前まで、<日本人に対して>侮蔑的であった外国人達は、考えを変え、「欧米人の眼で見たガニ股で近眼の東洋のこびとから、日本の兵士達は突然無敵の勇敢なスーパーマンへと変貌した。」(D)
という程度の話のようですし、彼は、
「何が日本人達をして、このうような恐るべき敵に仕立て上げたのか。それは、彼等独特の自己犠牲の能力だ。ある証人が、「英国人は生きんがために戦ったのに対し、日本人は死ぬために戦った」と喝破したように・・。・・・」(E)
という、それこそ、人種差別主義的な戯言しか吐けないのですから、何をか言わんやです。
それどころか、
「・・・帝国陸軍の手に委ねられた欧州の捕虜達の身の毛がよだつような様々な体験は、<同じく帝国陸軍が引き起こした>南京事件(Rape of Nanking)に比べればものの数ではない。この事件では、日本人達は、20万人の支那人を虐殺した。」(H)
なんて、ありえない数字を引用するとはね。
しかも、今度は、
「また、婉曲的に名付けられたところの大東亜共栄圏内において、23万人のインドネシア人たる強制労働者達が死んだ。」(H)
などと言い出す始末です。
それにしても、この話は初耳ですね。誰か情報提供してくれないものか。
「・・・他方で、ロバーツは、広島と長崎への原爆投下については、戦争を早期に終わらせる手段として、完全に賛意を表する。
彼は、それこそが、日本の最高司令部が<敗戦を>受け入れるための、唯一の良薬であったと言ってはばからない。・・・」(B)
に至っては、ハセガワの本(コラム#2657、2659、2661、2667、2669、2675)を読んでいないのか、それでよく先の大戦史が書けるものだ、と呆れるばかりです。また、
「彼は、<日本の都市に対する>絨毯爆撃(area bombing)を弁護する。彼は、ローズベルトによる日系米国人の強制収容にも半ば同意する(half-endorse)。」(E)
というのですから、何でもありって感じですね。
なお、対日戦でも、彼の杜撰さは以下のようなところに現れています。
「ロバーツは、シンガポールの<英軍の>陣地防御についての神話をそのまま維持してさえいる。
北部海岸に設置されていた火砲群が陸上にも指向可能であったことを指摘していないのだ。すなわち、真の問題点は、<陸上に指向しても、>その<装甲車等を撃破するための>徹甲弾では、<装甲車などには乗らずに徒歩で動く>日本軍に対しては有効ではなかったところにあったことを。・・・」(E)
4 フランスについて
「・・・ドゴールについては、「奇妙で無骨なキリンのような男」と形容されている。
(フランス人は、たびたびこの著者の怒りを惹き起こすようだ。)・・・」(C)
「・・・怠惰であるとされている、フランスのヴィシー政権だってドイツのスパイを処刑した<一方で>・・・連合国側で戦ったフランス人よりも枢軸国側で戦ったフランス人の方が多い<とロバーツは記す。>・・・」(D)
ジャン・コクトー(Jean Cocteau)の警句である、「恥ずべき平和よ万歳」を引用しつつ、ロバーツはフランス人について容赦がない。
40万人にも及ぶフランス人が様々なドイツの軍事組織に組み込まれていた。
1941年には、わずか3万人のドイツ軍部隊でフランスを従属させるには十分だった。
ヴィシー政権は、ベルリンによってそうするように要請されるより前にさえ、反ユダヤ的諸措置を実行に移した。
アブヴェール(Abwehr)<(1921年から1944年まで存在したドイツの諜報機関)>から押収された600の箱が1999年に開けられた時、数千人のフランス人が、哀れなほどわずかのカネと引き替えに同胞達のスパイを進んでやっていたことがはっきりした。
ヴィシー政権の警察は身の毛がよだつほど残虐だった。
ロバーツはその例をいくつもあげている。
しかも、彼は、<ヴィシー政権の首魁たる>ペタン(Petain)が1944年4月に<パリを>訪問した時、彼を歓迎するために集まった群衆の数は、その3ヶ月後にドゴールを歓迎するために集まった群衆の数より多かったということを教えてくれる。・・・」(F)
この種の話を、様々な機会にこれだけ取り上げてきたのですから、疑い深い方々も、いいかげん、イギリス人が、トーバー海峡の向こう岸から野蛮が始まると考えている、と私が口を酸っぱくして言い続けていることの正しさがお分かりになりつつあるのではないでしょうか。
欧州大陸を代表する人々であるドイツ人に対しても、そしてフランス人に対しても、両者についてニュアンスこそ異なれども、イギリス人は嫌悪の念を抱いているのです。
5 スラブ人について
「ロバーツは、ソ連人に関するいくつかのぞっとするような事実についても指摘している。
ヒットラーが対ソ開戦をした1941年6月からその年の10月までの間に、スターリンは、26,000人のロシア人を逮捕し、そのうち10,000人を射殺した。
1942年の時点でさえ、収容所(Gulag)にはまだ400万人が収容されていた。
スターリングラードの戦いの間、<ソ連の諜報機関の>NKVDは、13,500人のロシア人兵士を射殺した。
彼等は、処刑の前に軍服を脱ぐよう命ぜられた。「気持ちが滅入るほどたくさんの弾穴が開かないようにして軍服を再利用するため」だ。
全部合わせると、スターリンは、自分の兵士達135,000人を射殺したが、これは12個師団相当だ。
このほか、400,000人が一群の「懲罰大隊」に配置された。・・・」(F)
「・・・ポーランド人達は、<ドイツによる>彼等の国への侵攻に対し、ドイツ系の一般住民7,000人を虐殺する形で答えた。
その報復として、ドイツ軍は、ポーランドの531の町と村を焼き、数千人のポーランド人捕虜を殺害した。・・・」(G)
ロバーツ、ひいてはイギリス人は、スラブ人は、生来的に残虐だ、と見ているようですね。
(続く)
イギリス大衆の先の大戦観(その2)
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