太田述正コラム#3497(2009.9.1)
<イギリス大衆の先の大戦観(その3)>(2009.9.30公開)
6 ヒットラーについて
(1)総論
「・・・ロバーツは、ヒットラーのイデオロギー的な様々な妄想が、開戦だけ
でなく、戦いの推移、そしてその究極的な結末、のすべてを支配していた
(paramount)と主張する。
彼は、「ヒットラーがこの戦争に負けた理由は、そもそも、彼がこの戦争を始
めた理由と完全に同じ」であり、要するに、彼がナチス(Nazi)だったからだ、
と結論づける。
この一見単純過ぎるような結論は、実際には結構穿ったものがあり、多くの歴
史家達やシロウト戦略家達が大好きな、「たら」「れば」理論の多くを瞬時に葬
り去ってしまう。
ナチスは、自分達がやったことをやったのであり、そのイデオロギーのために
様々な誤りをおかしたのだ、とロバーツは主張する。
彼等は、それ以外のことはできなかったのだと・・。・・・」(C)
「・・・ナチスの指導者達のしくじりは、彼等がその反ユダヤ的修辞を実行に
移し、ドイツの再興の頭脳の多くを亡命へと追いやったことから始まった。
連合国が勝ったのは、「我々のドイツ人科学者達が彼等のドイツ人科学者達よ
り優秀だったからだ」というのが、チャーチルの側近中の側近の一人たるサー・
イアン・ジェイコブ(Ian Jacob)による、戦争の帰結についての簡潔だが含蓄
のある要約だ。
卓越したドイツの工学と強制労働力の容赦ない使用だけでは、かくも多くの頭
の良い人々を亡命に追いやったり強制収容所に送り込んだりしたことによる損失
を補い得なかったのだ。・・・」(D)
「・・・ヒットラーがドイツ軍を支配下に収めていなかったなら、彼はこの戦
争に勝っていたかもしれない。・・・
・・・この本の始まりは、ドイツ軍の長であるヴェルナー・フォン・ブロムベ
ルグ(Werner von Blomberg<。1878~1946年>)大将がヒットラーに送った苛
ついた文書の紹介から始まる。
この文書は、ヒットラーと結んだ自分を権力の座に就けるとの秘密協約を思い
起こさせたものだった。
ロバーツが示すように、ヒットラーは、速やかにこの目障りな存在をクビにし
て陸軍の支配権を奪取した。
ナチスは中傷作戦に長けていた。
ブロムベルグは、彼の妻がポルノ的な写真のためにポーズをとったことが暴か
れることによって辞任を強いられた(注2)。・・・」(A)
(注2)妻に先立たれていたブロムベルグは、1938年、彼が59歳の時に、26歳
のタイピスト兼秘書と2度目の結婚をする。しかし、彼女が1932年にポルノ的な
写真のためにポーズをとったこと、更には、彼女に売春婦としての前歴があるこ
とが一人の警察官の手で判明し、このことが、かねてよりブロムベルグを疎まし
く思っていたゲシュタポの長、ゲーリングによってヒットラーに伝えられた。
ヒットラーはこの結婚の解消を命じたが、ブロムベルグはこれを拒否し、ゲーリ
ングがこの事実を公表すると脅したため、ブロムベルグは全役職を辞任した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Werner_von_Blomberg
「将官達は、定期的に、クビにされ、また復職させられた。
また、ヒットラーのすべての問題に対する返答は、「持ちこたえて死ね」とい
うものだった。
この命令は、スターリングラード<(現ヴォルゴグラード)での(1942年から
1943年にかけての)戦い>に際し、また、その数ヶ月前には、エル・アラメイン
(El Alamein<。エジプトのアレキサンドリアの106西方の地中海沿岸の町>)
<での(1942年の)戦い>に際して発せられ、この二つの戦いでの敗北は、後に
やって来るナチスドイツの崩壊の先触れとなった。・・・」(B)
「・・・ヒットラーは、なまじ専門家然とした(geeky)武器についての知識
を持っていたため、いつも彼は、将官達に対し、後知恵での批判を口にした。
ロバーツは、「列車マニアが自分のノートに列車の種類を書き留めることがで
きたとしても、それは彼が列車を運転できるということを意味しない」と記して
いる。・・・」(D)
「・・・ヒットラーの、戦略家としての「枢要なる過ち」は数多い。
最初のものは、ダンケルク(Dunkirk)近傍における「進軍停止命令」だ。
これにより、25万人にものぼる英国の遠征軍は本国に引き揚げることができ
た。(後述)
次には、バトル・オブ・ブリテン(Battle of Britain<。ドイツによるイギ
リス本土上陸作戦の前哨戦としてイギリスの制空権の獲得のために行われた、
1940年7月から1941年5月にかけての一連の航空戦>)の最中における、英国の
飛行場の爆撃から都市の爆撃への説明不可能な転換だ。
それ以外に、ロバーツは、ヒットラーの失策として、日本からソ連攻撃という
形での協力を取り付けることに失敗したこと、彼が地中海を枢軸諸国の湖とし、
中東を征服し、石油供給を絶つことによって英国を負かす、という、ドイツの、
より想像力に富む将軍達と提督達によって推されていた代替戦略を却下したこと
をあげる。
ソ連への攻撃は、その後でなければならなかったのだ。
ところが、ヒットラーは、アングロサクソンを人種的従姉妹であると尊敬して
いたことから、彼にとって人種的敵であるところのスラブ人達への攻撃を優先さ
せたのだ。
しかし、彼の東方における帝国的野望は、彼の抱いていたユダヤ人とスラブ人
を絶滅させたいという欲望によって挫折することになるのだ。・・・」(H)
(続く)
イギリス大衆の先の大戦観(その3)
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