太田述正コラム#3499(2009.9.2)
<イギリス大衆の先の大戦観(その4)>(2009.10.1公開)
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I:http:
//entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article6733178.ece?print=yes&randnum=1251872798765
という新たな書評を見つけたので、
「6 ヒットラーについて (1)総論」の冒頭近くに、下掲を挿入。(太田)
 「<また、ナチスは、そのイデオロギーのために、>外国人に対する正式の友
好的挨拶であるところの、パンと塩を持参しての侵攻<ドイツ>部隊への伺候を
行ったウクライナの多くの村の長老達を友人にすることを拒絶した。
 ウクライナ人達は、半人間(Untermenschen=submen)であって、一種の上級
荷役牛なので、彼等とは、SSとはもちろんのこと、ドイツ軍だって友情を取り結
べないというわけだ。
 その結果、侵攻者達は、物資の供給にずっと苦しむことになった。
 すなわち、小縮尺の地図を使って巨大な距離を横切る際に、背後を敵対的な
ポーランド人に脅かされ、周り一面を敵対的なソ連の臣民達に囲まれることを予
見できなかったのだ。
 ロバーツは、名高いドイツ参謀本部についても、同様、歯に衣を着せず批判する。
 <例えば、>ロシアの冬の厳しさに対し、ドイツ軍を備えさせなかったことだ。
 要するに、彼等の総統が、東方戦争は10月末までには終わるだろうとのたまっ
たから<、何の備えもしなかったの>だ。・・・」(I)
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 「ヒットラーは、戦争を早く始めすぎる<という過ちも犯した。>
 <また、>例えば、もっと多数、性能の良い潜水艦を持っておれば、英国を飢
えさせ、不具にすることができたはずだ。・・・
 <日本の>真珠湾<攻撃>の後に、彼がやった、得るところの全くない、対米
宣戦布告は、もう一つの大失策だった。(彼は、米国を軍事的虚弱者と見てい
た。)・・・」(D)
 
 (2)先の大戦の開戦
 「・・・実際には、<ヒットラーによる>様々な失策は、宣戦布告がなされる
以前からさえ始まっていた。
 仮にヒットラーが、ポーランド侵攻・・1939年の夏の終わりに攻撃をする戦略
的必要性はなかった・・を数年先延ばしにしておれば、ドイツは、戦術的にも戦
略的にもずっと強い立場に立つことができたはずだ。
 また、数少ない潜水艦で海上戦に突入する代わりに、彼は、もっと大きな外洋
向けの潜水艦が開発され、それを英国を屈せしめるだけの数、保有するまで待つ
べきだったのだ。
 1945年には、ドイツ海軍は463隻の潜水艦を持つに至っていたが、その時では
既に遅過ぎたのだ。
 空戦についても同じことが言える。
 <宣戦布告時には、ドイツでは>長距離重爆撃機は生産されていなかったし、
ジェット推進戦闘機と戦略ミサイルが遅れて生産された時には、数が少な過ぎ、
また、到来が遅過ぎたため、戦況にほとんど影響を与えることができなかっ
た。・・・」(B)
 (3)ダンケルク
 「・・・チャーチルは、「私は、ドイツ軍が英軍をダンケルクで片付けなかっ
た理由を永久に理解できないだろう」という所見を述べた。
 ヒットラーは、25万人以上の捕虜をとらえ、抑留することで、<この捕虜を>
英国政府に<高く>買い戻させることができたというのに、彼は戦車部隊にダン
ケルク手前で停止するよう命じたのだ。
 総統は、恐らく英国との和平を欲していたのであろうと考えられているが、ロ
バーツは、ヒットラーの作戦司令部の長であるアルフレッド・ヨードル(Alfred
Jodl<。1890~1946年>)が発した手書きの文書を発見したところ、その内容か
らは、ナチスが全連合軍を殲滅する決意において何の躊躇も抱いていなかったこ
とが見て取れる。
 ヒットラーによる停止命令は、彼の犯した最初の戦略的失策だった。・・・」
(A)
 「・・・1940年5月、士気の衰えた英軍がダンケルクに逃げ込んだ。
 ヒットラーは、フォン・ルンドシュテッツ(<Karl Rudolf Gerd >von
Rundstedt<。1875~1953年。この時大将、翌年元帥>)にこの袋小路の手前で
停止せよと命じた。
 彼は、それが戦車に向いていない地域であることから、彼の機甲師団群が足を
取られてしまうことを心配したのだ。
 彼はまた、2週間もの激しい戦いを経て、兵士達が消耗しきっているであろう
ことから、再集結が必要だと考えたのだ。
 これは、ヒットラーの、第一次世界大戦の間の塹壕での伍長としての体験から
導き出されたものの考え方である、とロバーツは、憐憫を込めて述べる。
 しかし、この悪名高い「停止命令」によって、<ドイツは、>英国を戦争から
脱落させる千載一遇の機会を逃すことになったのだ。・・・」(B)
 「・・・英国は、ダンケルク作戦では、せいぜい45,000人しか救出できないと
計算していた。
 ところが、もっぱらヒットラーのこの介入により、1940年の5月26日の日曜日
の明け方から6月4日の火曜日の午前3時30分の間に、338,226 人の連合軍の兵
士達が救出された。
 これは、史上最大規模の軍事的撤収だった。・・・」(F)
(続く)