太田述正コラム#3282(2009.5.18)
<ポーランド史(その1)>(2009.10.5公開)
1 始めに
 ニューヨーク生まれの英国育ち、オックスフォードを卒業した英国人歴史家、アダム・ザモイスキー(Adam Zamoyski。1949年~)は、ポーランドの名門貴族の末裔です
http://en.wikipedia.org/wiki/Adam_Zamoyski
が、このたび、再びポーランド史、’Poland: a History’ を著しました。
 さっそく、その内容の上澄みをご紹介しましょう。
2 ポーランドの歴史
 
 「・・・17世紀欧州における最も大きい国家の一つが1795年に地図から完全に姿を消し、1918年まで再び姿を現すことがなかった。
 短い独立の突風が第二次世界大戦の時のナチスの残虐行為とソ連の支配によって吹き止んだ。
 そして、やっとのことで、1989年、ポーランドは1939年に失った自由を回復した。
 <この3年前に、ザモイスキーは、初めてポーランドの通史を出版した。>
 それ以後今日までの20年間で、ザモイスキーが言うには、彼のポーランド史への見方は大いに変わったのだ。
 <1989年>までは、ポーランド史は、「失敗国家」の物語として書かれて当然だった。
 しかし、今日においては、それは「独特の社会的かつ政治的文明を創造した社会」の物語として語られるべきであるというのだ。・・・
 1630年に・・・ポズナン(Poznan)のパラティン伯(Palatine)のクルストフ・オパリンスキー(Krzysztof Opalinski<。1609~55年(注1)>)は、ポーランドの隣人達が戦争で消耗しているのを眺めて、「ポーランドは浜辺に安全にたたずんでいる観客であり、暴風雨が彼の面前に吹きすさんでいるのを静かに眺めている」と言った。
 (注1)彼は、極めて興味深い人物だ。ご関心あるむきは↓をご覧いただきたい。(太田)
http://www.absoluteastronomy.com/topics/Krzysztof_Opalinski
 しかし、その後2~30年のうちに、隣人達は侵略を始め、誇り高きポーランド<=リトワニア>連邦(Polish-Lithuanian Commonwealth)は消滅への長い下り坂を転がり落ち始めたのだ。・・・
 ザモイスキーは、ユダヤ人とカトリック教徒たるポーランド人のみならず、ドイツ人、ウクライナ人、白ロシア人を含む、民族的かつ宗教コミュニティーの間の緊張関係に、いかにヒットラーとスターリンがつけ込んだかを語る。
 占領者達は、何世紀もの間存在してきた多民族国家を破壊し、ほとんど単一民族的なポーランドなるものが瓦礫の中から出現するのにまかせたのだ。・・・」
http://www.ft.com/cms/s/2/b463db7e-3b5e-11de-ba91-00144feabdc0.html
(5月18日アクセス。以下同じ)
 「・・・<ポーランドにとっては、2004年のEU加盟より、1999年のNATO加盟の方が>より重要なように見受けられる。
 <NATO加盟>は、EU加盟とは違って、経済的利益をもたらすわけではないが、<それによってポーランドは>絶滅の可能性を免れた感があったからだ。
 ・・・ポーランドがいまだに絶滅の運命を恐れていることは、ここ数年、そのことでロシアからの核恫喝に直面しつつも、米国のミサイル防衛システムを国内に設置することに意を決してきたかに見える点によく現れている。
 NATOが、<その加盟国に対して>攻撃があった場合の相互支援を謳っていることは事実だが、ポーランドの外相のラデク・シコルスキー(Radek Sikorski)は、私<(この書評子(太田))>に対し、昨年、<米国の>軍靴を国内に引き入れることの方が更に良いと語った。「英国は1939年に我々を助けに来てはくれなかった」と彼は続けた。
 「あなた<の国である英国>は、<ナチスドイツに>宣戦布告こそしたけれど、戦争を始めなかった。だから、我々は国内に<米国の>軍事力を置きたいのだ。単に<条約という>羊皮紙だけ<しかないん>じゃ<心許ないんだ>」と。・・・
 ザモイスキーは、戦争の惨禍はポーランドのインフラとそのユダヤ人人口を破壊したけれど、それ以降の45年にわたるソ連の支配も少なくとも同等に重大であり、<ポーランド>を1000年にわたって支えてきた諸観念を破壊した、と言葉巧みに主張する。
 そもそもポーランドとは何ぞや?
 「ポーランドが、民族的、地域的、宗教的、政治的同一性に基礎を置いたことは一度たりともない」と彼は、1860年代のロシアに対する諸蜂起の失敗とポーランドのいくつかの部分への「解体」について説明しつつ、記す。・・・
 ・・・<彼は、>二つの結論<を提示する>。
 第一の結論は、ポーランドは、何度となく隆盛と消滅の間を行き来してきたことであり、消滅しそうになったのは1939年だけでなく、1863年も1795年もそうだったが、戦場における英雄的行為にもかかわらず、隣人達が互いに交わし合う攻撃から<ポーランドが>逃れ通すことはできなかったということだ。
 <ポーランドが消滅しそうになった>時は、毎度、ザモイスキーが形容するところの、「欧州の国家のうちの一つの儀式抜きの解体(liquidation)」を、ポーランドの同盟諸国は、悼みつつも防止しようとはほとんど試みなかった。
 彼の第二の結論は、その軍事的手腕、民族的寛容、国家制度の発展にもかかわらず、何世紀にもわたって、この行き来する運命と馴れ合ってきたというのが、ポーランドの一側面であるということだ。
 勝利寸前というところで敗北をきたすというのが<ポーランドの>民族的性向のように見えるということだ。
 それが何をもたらすかを知りながら、プロイセンから発せられたチュートン騎士団(Teutonic order)<(注2)><への騎士>派遣命令を何度も拒否し続けたこと<等々>・・・
 (注2)正式名称は、Order of the Teutonic Knights of St. Mary’s Hospital in Jerusalem。このくだりが何の事件を指しているのか、この書評だけでは必ずしも明らかではない。(太田)
http://en.wikipedia.org/wiki/Teutonic_Knights
 <米大統領の>ウッドロー・ウィルソンが1917年に「統一された独立のそして自治的なポーランド」への世界的支持を宣言したにもかかわらず、<こんなポーランド人の民族的性向に愛想を尽かして、時の英首相の>ロイド=ジョージは、「ポーランド人達はその隣人達すべてと争いばかりしており応手の平和への脅威だ」と怒りを爆発させたのだ。・・・」
http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/5291529/Poland-by-Adam-Zamoyski-review.html
(続く)