太田述正コラム#3284(2009.5.19)
<ポーランド史(その2)>(2009.10.6公開)
 「・・・1311年にクラクフ(Krakow)でポーランド軍は、急速に増えつつあったドイツ語をしゃべる人々と外国人達・・テュートン騎士団の存在による・・たる住民をかなりの数集め、彼らにポーランド語の発音しにくい文句を口ずさめと命じた。どもったり、つまずいたり、つばをまきちらした者は首を刎ねられた。・・・
 ザモイスキーの最初のポーランド<通>史の著作である ‘The Polish Way’ (1987) は、要は、同国の過去を失敗の連続として描いたものだった。・・・
 ノーマン・デーヴィーズ(Norman Davies)の、読みやすい<ポーランド通史である> ‘God’s Playground’ <(注3)>は、ポーランドを欧州における殉教者とみなしたが、この見方はロマン主義の詩人であるミキエヴィッチ(<Adam Bernard> Mickiewicz<。1798~1855年。ポーランド三大詩人の一人>)が、この国を欧州大陸における<十字架に架けられた>キリストとして描いて以来のものだ。・・・
 (注3)オパリンスキー(前出)の言葉。(太田)
 第二次世界大戦勃発後70年近くが経過した現在、英国のメディアによってほとんど見過ごされているところの、ポーランド人の連合国の戦争努力に対する巨大な貢献に留意すべき時がやってきたと言えよう。・・・
 600万人のポーランド人がこの戦争で殺害された。インテリに至っては、3分の1が殺害されたのだ。また、ポーランドの国家資産の実に38%が破壊された。(これに対し、英国は0.8%に過ぎない。)
 それだけではない。
 <ポーランドに>帰国した英雄達は、共産主義者達によってしばしば投獄されたり射殺されたりした。
 その時、共産主義者達による厳しい44年間の統治は始まったばかりだった。
 ザモイスキーは、「欧米諸国の人々の共産主義との恋愛関係」を正しくも嘲っている。・・・」
http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/reviews/poland-a-history-by-adam-zamoyski-1654131.html
 以上は、書評からの抜粋ですが、最後に、ザモイスキー自身の言です。(太田)
 「・・・ポーランドは、通常、現在我々が失敗国家(failed state)と呼ぶところのものの一例として、一種の歴史的冗談として語られてきた。
 当時の私の唯一の慰めは、イタリアもまた、冗談めいた感じで取り扱われていたけれど、イタリアはどう考えても、それなりの歴とした理由で、研究するに値する国であったことだ。・・・
 当時、研究するに値すると見なされていた諸国の大部分とは違って、ポーランドは、民族に立脚した政体であったにもかかわらず、中世から近代初期の時代にかけて、その歴史的な領域の保持とその人的物的資源の活用について、いいかげんな態度をとり続けた。
 ポーランドは、中央政府諸制度の建設、統制のための諸機関の創造、インフラへの投資を怠り、自身の武装またはその市民達への課税を過小に抑えたのだ。
 18世紀におけるポーランド国家を叙述する時、外国の観察者達は、アナーキー(anarchy)という言葉を、その本来の、政府の不存在という意味で用いたものだ。
 ポーランド人自身は、このような状況に誇りを抱いていた。
  「Polska nierz dem stoi(ポーランドの力は政府の不在にある)」は、政治的多数派のスローガンだった。
 中世初期から、ポーランド人は、特にそれが少数の手に集中している場合、あらゆる権威に対し明確なる嫌悪を示してきた。
 (ドイツ的及びボヘミア(チェコ)的世界と対照的な存在たる)ポーランド的世界が存在しているとの強い意識があったものの、それを定義する明確な自然国境がなかったことに加え、この世界に在住していた様々な民族集団と、<ポーランド人によって>歓迎されたところの新参者たるユダヤ人、アルメニア人、及びタタール人が、この世界を堅く結合しようとした歴代の国王に対して反抗を繰り返した。
 中世の終わりまでには、ポーランドの郷紳(gentry)は、国王の権力を規制する発達した議会制度を確立しており、<欧州>最低の課税率と欧州の他のいかなる人々よりも大きな個人的自由を享受するに至っていた。
 彼らは、自分達の国を「連邦(the Commonwealth)」と呼び、それを彼らの共有財産とみなしていた。
 中央政府に対する彼らの猜疑心は、ポーランドの国境外で起こっていたことへの反応によってより強化された。
 東においては、イワン雷帝(Ivan the Terrible)の、桎梏から完全に解放された権力が、強力なモスクワ(Muscovite)国家を生誕させるために生じせしめた人的犠牲がいかに慄然たるものであるかについての証拠を提供した。
 北と西においては、彼らは、スウェーデン、ブランデンブルグ及びプロイセンの政治階級及び議会が次第に去勢され廃止されて行くのを眺めることができた。
 また、ポーランド人は、宗教の話について見解を異にすることを合意していたというのに、ポーランド以外の欧州の大部分の所では、君主の絶対的支配が、宗教改革と反宗教改革を血の雨へと変容させた。
 強力な中央政府は市民的自由に対する脅威である、というポーランド人の信念は、常備軍なるものに対する心底からの嫌悪を相伴っていた。
 彼らは、この二つは、結局のところ基本的に不必要なものであると主張した。
 地方の諸議会は、行政長官(magistrate)達や役人達を選挙し、必要な資金を調達することができた<からだ>。
 軍隊の不在は、ポーランドが誰の脅威にもならないことを意味し、よって、彼らに言わせれば、攻撃を誘発することがなかった。また、徴兵軍(levee en masse)<の建設>に取り組まなければならないということが、<軍隊を保有する>意思を阻害した<ということもつけ加えられよう>。
 18世紀の中頃になって、ポーランド社会が、効果的な中央政府と軍隊の<二つの>不存在は絶対主義の隣人達に対して無防備であるに等しい、という事実に目覚めた時には、既に遅すぎた。
 ポーランドは、急いで連邦を、自らを保全できる近代国家へと変貌させようとする試みに乗り出したが、時間切れとなり、ロシア、プロイセン、オーストリアという三つの隣人達によって猛烈な攻撃を受け、分割されてしまった。・・・
 ポーランドの過去300年間の歴史に関する主要問題は、従って、それが2008年には生育可能な国家たりえたというのに、どうして1708年(あるいは1988年)にはそうでなかったのか、ということになるだろう。・・・」
http://www.standpointmag.co.uk/node/921/full
3 終わりに
 ポーランドは、ドーバー海峡によって欧州大陸から切り離されていなかったイギリスである、と思ってはなりません。
 イギリスは個人主義社会(=資本主義社会)であったのに対し、ポーランドは階級社会であり、郷紳は、農奴に等しいような農民の上に君臨するとともに、国王を無力な傀儡化していたのです。
 結局、ポーランドが生き残るためには、隣人達同様、自らを絶対王制へと変貌させる必要があったところ、それを怠ったために、滅亡を含む、悲惨な近現代史を歩むことになったのでした。
(完)