太田述正コラム#3307(2009.5.31)
<芸術論(その2)>(2009.10.9公開)
「・・・ダットンの出発点となったアイディアは、1990年代から姿を現し始めた進化心理学(evolutionary psychology)から来ている。
人間の行動のいくばくかは、我々が石器時代の環境において成功し繁殖する<ために必要なこと>・・・が遺伝子に組み込まれている、という事実によって説明できるといった話を聞いたことがあるとすれば、それが進化心理学の最も粗っぽくかつ俗っぽい説明だ。・・・
・・・<進化心理学にイチャモンをつけることはそうむつかしくはない。>
人間心理のいくばくかの起源は石器時代より古いかもしれないし、1990年代に考えられていたよりも進化は早く進みうると考えられるようにもなった。実際、我々の頭の中の配線は引き続き発展を遂げつつあるのかもしれないのだ。・・・
・・・世界中で8歳の子供達が好む風景画は、遠い祖先がそこで繁栄した生活を送った平らでサバンナのような光景だ<(後出)>。
また、アーサー・ルービンシュタインについて、「彼が演奏会の時本当に好んだのは、舞台の近くに座っている可愛い人を見つめながら、彼が彼女だけのために演奏していると想像することだった」と認めたと書かれたものを読むと、潜在的な番の相手に印象づけることが我々のご先祖様の間に芸術的技術を広げるという役割を演じたというダットンの理論を興味深く思い出さざるを得ない。・・・
<つまり、ダットンは、いわば>ダーウィン的美学<を唱えているわけだ。>・・・
<ちなみに、ダットンは、>どうして音と色の芸術はあっても臭いの芸術がないか<についても説明している。>・・・」
http://www.nytimes.com/2009/02/01/books/review/Gottlieb-t.html?_r=1&pagewanted=print
「・・・1993年にヴィタリー・コマール(Vitaly Komar)とアレキサンダー・メラミッド(Alexander Melamid)という二人のロシア人芸術家は、10カ国で、好みに関する統計学的に非の打ち所がない調査を行った。
彼らは、アイスランドから支那に至る人々が、芸術について似通った意見を持っているという結論を下した。
すなわち彼らは、どこの誰でも、水が多かれ少なかれ伴うところの、青を基調とする風景を好む、と言明したのだ。
メラミッドは、これは、青の風景が人間の遺伝子に刻印されていることを意味する、ということを示唆した。
彼は、これは我々全員が密かに記憶している極楽なのかもしれない、と思いを巡らせた。
恐らく、「我々は青の光景からやってきたため我々はそれを欲しているのだ」と。
・・・更新世(Pleistocene era)において、我々のような人間へと進化した者達は、サバンナと森林地帯において、アフリカの青い空の下で生活していた(と広く信じられている)。
このタンパク質が豊富な地域は良い狩猟地だった。
この風景の中で棲息した者達は、「生存上の優位」に立っていた。
彼らは繁栄し、子供達を持ち、彼らの遺伝子を次々に受け渡して行った。
このプロセスは、我々がほとんど想像もつかないほどの時間・・約160万年ないしは8万世代の間・・続いた。・・・
例えば、普遍的に見られるところの、物語ること(storytelling)に係る強迫観念だ。
すべての文化(これには、狩猟採集生活を今でも送っているごく少数の人々の文化を含む)において、物語(narrative)は不可欠な要素となっている。
それは、楽しみの源泉であるとともに、情報を伝達する手段でもある。
この性向と才能を持った者達は、更新世において特別なる「生存上の優位」に立ったのだ。・・・
チャールス・ダーウィンによる、音楽の音とリズムは我々の祖先の求愛の一環であったとの示唆もこれあり 恐らく、音楽的な音は、言語の発明を促したのだろう。
ダットンは、このような理論をもっともらしいと考え、音楽と舞踊は、「共感、協力、そして社会的連帯」を構築したことを示唆する。
彼は、音楽、舞踊、物語ること、及びその他の芸術の形態は、「狩猟採集集団の社会的健康の強化のために特に進化した」と想像を巡らす。・・・」
http://www.nationalpost.com/story-printer.html?id=1e575d03-385b-4190-a32d-5b2949bd830c
「・・・世界中の人々は、不気味なまでに、美しいものを創造する衝動にかられている。
これらの美的な作品は完全に無用なもの・・W.H.オーデン(Auden)が指摘したように、これらは「何も起こらせる」ことがない・・であり、にもかかわらず、我々は空調完備の博物館に礼拝の対象のようにこれらを飾り、<アンディー・ウォーホルの>スープ缶のシルクスクリーンに数百万ドルも支払う。
フランスの<アルタミラ等の>洞窟の壁の何頭かの馬が人間の強迫観念へと発展を遂げたのだ。・・・
我々が最も美しいと感じる風景は、単にそこから我々が進化を遂げたところの風景なのだ。
仮に我々が前景に短い草が生えている絵画を好むとすれば、それは、肉食の類人猿<たる人間>にとって決定的に重要な事柄であるところの、平方マイルあたりタンパク質をより多く含む生態系であるからなのだ。・・・
ダットンは、現代芸術家達に最も厳しい批判を浴びせる。
連中は、「絵画における純粋抽象、音楽における無調、ランダムな語順の詩、<ジェームス・ジョイスの>フィネガンス・ウェイク(Finnegans Wake)、そして」マルセル・デュション(Marcel Duchamp)で有名になった逆さ小便器のような「レディーメード(readymades)」をもたらしたと。
このような不快な芸術作品は、ダットンに言わせると、「文化に対する無規則的(blank-slate)見解」から着想を得ており、我々の心は、どんなものであっても前向きに鑑賞できるようになる、という前提に立っているのだ。
こうして、現代芸術家達は難解であることに喜びを見いだすに至り、彼らは、我々がジョージ・ワシントンのような有名な人物を配した草一杯の風景を本当は欲しているというのに、抽象的な作品を我々に与えてきた、というわけだ。・・・」
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/01/08/AR2009010802865_pf.html
→この現代芸術に関するダットンの主張には、私は全く同意できません。
まさにこのことが、私の6月6日のオフ会での「講演」のテーマなのです。(太田)
(続く)
芸術論(その2)
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