太田述正コラム#3313(2009.6.3)
<芸術論(続)(その2)>(2009.10.12公開)
ボイド本人は次のように言っています。
「・・・進化論的な考え方は、最近では生物から人間世界へ、そして<人間世界にあっては、>最初は社会科学から始まり、最近では人文科学と芸術へと拡大されてきた。・・・
少なくとも7万年前からの<人間の>重要な儀典(ritual)と、初期の諸文明の記録という証拠において見られる死への恐怖と不死への願望から判断する限り、死への関心が明確な人間文化の出現以来、<人間の心中に>大きくわだかまってきた<ことが分かる>。・・・
自然淘汰が性<の雄と雌への>分化を遺伝的多様化増進の手段としてきたように、自然淘汰は、芸術を行動的多様化増進の手段として進化させてきた。・・・
我々の<発達した>脳が我々が<捕食サイクルの最高の頂点に君臨する>超捕食動物になることを可能にしたことによって、我々がその環境において支配的地位を占め、我々が覚醒している時間より少ない時間で必要な食料を獲得することができるようになった時、我々は、自由時間という「問題」を、他の<捕食サイクルの>頂点に位置する捕食動物、すなわちライオン、虎、または熊のように、エネルギーを節約するために眠って過ごす形でつぶすようなことはなかったのだ。・・・
眠っている間にさえ、我々の巨大な脳は<どのみち>我々のエネルギーの大きな割合を消費しており、かつまた、それが他の種<の動物>や他の人間達に対する我々の優位を最もよく与えてくれることから、我々は、安全でヒマな時において、脳をできるだけ休ませるのではなく、<活用し、>発達させることで効用を得てきたのだ。
芸術は、知覚的遊びとして、潜在的に有意なパターン化された情報への我々の欲求に訴え、我々の関心を自己報酬的な形で惹き付け、そのことによって、我々にとって最も重要な情報に係る我々の脳の処理力の強化を促してきた。・・・
ほとんどの社会において、芸術は集団的かつ活発<な営み>だったが、現代の諸都市においてさえ、舞踊と歌は依然としてそのような営みであり続けている。
<しかし、>芸術が集団的(communal)以上に個人的である傾向のある所では、他人の興味をかき立てるような才能のある者達は、関心、感謝、そして地位を確保させてくれるところの技を発達させる強い追加的誘因を持った。・・・
<とはいえ、>芸術が個人的なものとなり専門的なものとなった所でも、それは<同時に>高度に社会的なものであり続けた。
芸術は、我々の個人的な知覚選好(cognitive preferences)を活性化させるだけでなく、それを我々の社会性を通じて調整し拡大させる。
最初から、母親等は幼児達と、高度に調和しかつ相互的な多様相的な社会的遊びを行う。
我々は、本能的に、小さい子供達にとって学習が楽しいものとなるよう、芸術が喚起するところの知覚的選好に訴えることによって、遊びを芸術化する。
人生の間中、(演者になることで)能動的に、あるいは(観衆になることで)多かれ少なかれ受動的に、集団的な形での芸術的諸活動に参加することで、我々は芸術による感情的充足を増大させ続ける。・・・
仮に芸術が「非自然的」変異(variation)であるとすれば、科学は「非自然的」淘汰(selection)だ。
芸術は、しばしば地方的文化によって変容を加えられつつ、我々の種としての選好と我々の直感的理解に訴え続ける。
他方、科学は、我々の種としての選好と我々の直感的理解はもちろん、それが地方的文化によって変容されたものでさえ、拒絶する。
科学は、アイディアを人間の選好によってではなく、人間のために設計(design)されたわけではないところの、一筋縄ではいかない世界によって検証する。
その検証の手法は、論理、観察、そして実験によるのであって、自明のように見え、伝統によって繰り返し明白に再確認されたアイディアでさえ、我々に対し、それらを拒絶せよと促す。・・・
芸術家と観衆もまた、それぞれ淘汰されるとはいえ、芸術は主として変異のプロセスであることから、科学において生じるような、よりよい設計(design)が徐々にため込まれて(racheted)集積するといったことは生じない。
だから、数千年前の芸術だって、ホメロスやノク(Nok)の彫刻家達のように、現在生み出される芸術作品の大部分より、創造性の事例として、様々な意味でより優越しているということがありうる。
というのは、簡単な話、ホメロスやノクの匠達は彼らの時代からそう大きくは変化していないところの、彼らが深く理解しているところの、<人間の>選好に訴えることができたからだ。
宗教は、芸術と科学の両方の要素を取り入れている。・・・
科学が、この世界の代替的、自然主義的(naturalistic)説明を提供し始めるに至って、初めて宗教と芸術は、<科学と>大きく分岐し始めた。・・・」
http://www.theamericanscholar.org/purpose-driven-life/
最後に、再び書評からです。
「ボイドいわく、芸術は遊びの一形態なり、と。
これは面白い考えだ。
近年、遊びを研究している生物学者達は、それが知的動物が、適応目的で、精神的・肉体的な技を脅威のない環境において培うためのもの、と見るようになった。
これは、フィクションが知覚、協力、及び創造性を養うとのボイドの主張と完全に合致する。
一点だけボイドの考え方に弱点があるとすれば、遊びはもっぱら相互的(interactive)な営みであるのに対し、物語ることは、どちらかというと観客に向けた<一方的な>営みであるというところだろう。
ただし、ボイドは、物語においては作者と聴衆の両方が必要であることを認め、それぞれが進化において異なった役割を果たしたと分析する。
費用・便益アプローチをとりつつ、彼は、時間とエネルギーの点で物語を創造するプロセスは高く付くかもしれないけれど、それはパターンが大好きである我々の脳に訴えることで本質的に報酬を与えてくれるものであると主張する。
物語は、脳を再形成し、問題解決における想像的アプローチを促進し、物語る人物の社会的地位を増進させる。
他方、聴衆は、自分達の時間という代価を支払わなければならないけれど、見返りに社会と他の個人達の脳に関するより深い洞察力を獲得する。
しかし、この知覚的交換は、関心を抱いていなければ行うことは不可能だ。・・・
<だからこそ、>驚きが必要不可欠なのだ。
それは、フィクションは、予期しないことに関心を払うという選好を進化させた我々に訴えるものでなければならないことを意味する。
またそれは、我々の感情をかき立てるとともに、ファンタジー・・読者達を「ここ」と「今」から超えたものへと誘う能力、及び、彼らの内心に深く潜むパターンに惹かれる気持ちに訴える力・・という要素も備えていなければならないのだ。・・・」
http://www.newscientist.com/article/mg20227091.900-review-how-storytelling-shaped-humanity.html
3 終わりに
ここまでご紹介してきた、ダットンの芸術<起源>論もボイドの芸術<起源>論も、いずれも演繹的であって、そこに限界があるわけですが、二人のうちではボイドの方が、アングロサクソンの目利き評論家達にはうけが良いようです。
それは、ヴィクトリア朝的性禁忌に彼らの潜在意識がなおしばられているからではないか、と私は勘ぐっています。
もう一つは、ボイドは、フィクション(文学)しか論じていないために、コミュニケーションの手段としての論理性を持つところの言語なるものを用いて創作されるという、フィクションの特殊性に引きずられて、芸術全般の本質に十分目を向けることができていないのではないか、という気もするのです。
とにかく、芸術の学問的研究は遅れています。
日本で、芸術の研究者が質量両面でもっと増えることを願って止みません。
(完)
芸術論(続)(その2)
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