太田述正コラム#3327(2009.6.10)
<革命家トマス・ペイン(その1)>(2009.10.27公開)
1 始めに
今年は、『コモンセンス』の著者として有名なトマス・ペイン(Thomas Paine。1837~1809年)の没後200年にあたります。
そこで、昨日読んだBBC電子版記事
A:http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/8089115.stm
(6月9日アクセス)と、4年前に上梓されたハーヴェイ・ケイ(Harvey Kaye)の ‘Thomas Paine and the Promise of America’ の書評
B:http://www.nytimes.com/2005/07/31/books/review/31ELLISL.html?_r=1&pagewanted=print
C:http://www.thomaspainefriends.org/nelms-timothy_review-of-harvey-kaye.htm
D:http://www.yesmagazine.org/article.asp?ID=1444
(いずれも6月10日アクセス)
をもとに、ペインについて思いを巡らしてみようと考えました。
2 ペインについて
「・・・<イギリスの>ノーフォーク(Norfolk)のゼットフォード(Thetford)・・・で1737年に生まれたペインは、その成人時代の初期をコルセット製造職人や学校の先生として過ごし、政治とはほとんど無関係だった。
その後、間接税務局(Excise)吏員を務めていた時に、彼は同僚達の給与と労働条件の改善を求めた21頁のパンフレットを著した。これが彼の最初の政治的行為だった。
たまたま、<北米英植民地人たる>ベンジャミン・フランクリン・・米国の建国の父の一人・・に1774年にロンドンで出会ったことが、ペインの人生と、更には米国の歴史を変えることになる。
フランクリンの大西洋を渡るようにという勧告に従い、ペインは1774年の11月に米国の<フィラデルフィアの>地に降り立った。その頃、米国人の革命家達は、英国から分離すべきかどうかについて、激しい議論をしている最中だった。・・・
1776年1月に、彼は、彼をして米革命の父という称号を獲得せしめた短いパンフレットを出版した。・・・『コモンセンス』<だ>・・・。・・・
この本はセンセーションを巻き起こした。最初の3ヶ月で12万部も売れたのだ。
当時北米英領植民地には200万人の自由人しかいなかったことを考えると、これは、現在の米国人の著者が最初の3ヶ月間で1,500万部売り上げたに等しい。
この本は歴史も変えた。
「1776年には大陸会議(Continental Congress=米革命のための政治組織)の代表のわずか3分の1しか英国からの独立を宣言するという考え方をとってはいなかった。」・・・
ところが、そこへペインが、植民地の「母国」からの即時かつ完全な分離を主張した『コモンセンス』を出版したわけだ。
彼の予見的で非妥協的な言葉は公衆の想像力をとらえ、人々からの圧力の下で、個々の植民地は彼らの代表達に独立に票を投じるように指示し始めたのだ。・・・
・・・<しかし、>ペインは、<その後、フランス革命においても活躍し、>フランスの最初の民主主義議会の議員に選出され、ナポレオン・ボナパルトを含む多数の彼のファンが<フランスにさえ>できたというのに、彼の出版した次のパンフレットである『理性の時代(The Age of Reason)』は、彼の初期の崇拝者達の多くにとっていささか過激に過ぎた
<その中でなされた>既存の宗教(organised religion)への攻撃と「自由かつ合理的糾問(rational inquiry)』の擁護から、この著作を契機に、ペインは米国の建国の父の地位から微妙にはずされて行くこととなった。
彼が1809年6月8日にニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジで亡くなった時、葬儀にはわずか6人しか出席しなかった。・・・
・・・<ペインはまた、所得再分配の必要性も訴えた。>『人間の権利(The Rights of Man)』の中で、彼は、若年者と老人は彼らの政府から金銭的な保障を与えられなければならないと主張した。・・・」
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/8089115.stm
(6月9日アクセス)
「・・・ペインは、建国時代の世代の一人として、1776の<独立宣言に体現された>米国の約束の神髄を理解していた。
その革命的ビジョンが奴隷制の汚点によってぼやけてしまっていたところの、あのトーマス・ジェファーソンよりも、ペインはもっと洞察力がある急進派だった。
<ペインの残した最も>枢要な史料は『コモンセンス』ではなく、『人間の権利』(1791~92年)だ。
後者の中で、<ペイン>は、フランスと米国それぞれが、革命の意味していたところのもの・・奴隷制の廃止、男女平等、投票のために求められる財産要件の全面的撤廃、教会と国家との完全な分離、共和的諸政府からなる国際連盟によって強制されるところの全地球的平和・・を実現すべきであると主張した。
換言すれば、ペインは、その後の2世紀をかけて極めてゆっくりとだが、<最終的に>勝利することが運命づけられていたところの、自由主義的課題を即時採用することに固執したという意味で、急進的予見者なのだ。・・・
例えば、<もう一人の米建国の父である>ジョン・アダムス(John Adams)は、靴作り職人の息子だったが、ペインを忌み嫌った。
アダムスは、革命的課題全部を即時に実行しようとすることなど、ドーバーの崖へと誘う<自殺的な>道であるとみなしていたからだ。
ペインとアダムスとを隔てたものは、階級(class)というよりはいかに革命を管理し確保するかという古典的(classic)な見解の相違なのだ。
アダムスは、進化的革命の形での漸進的変化を信奉していた。
他方ペインは、「1776年の精神」なる革命的課題は管理される必要などなく、ただ宣言されればよいと信じていた。・・・
ペインのアプローチは、実際のところ、フランス革命においてとられたところの、より急進的なコースだったのだ。
それは、アダムスが予言したとおり、大流血とナポレオン的専制主義をもたらした。
<フランス革命を>引きおこすことを助けたペイン自身、その過程であわや殺されるところだった。
彼がギロチンを免れたのは、牢獄の番人が、処刑の日に彼を房から出すのを忘れたというただそれだけの理由だ。・・・」
http://www.nytimes.com/2005/07/31/books/review/31ELLISL.html?_r=1&pagewanted=print
(6月10日アクセス。以下同じ)
(続く)
革命家トマス・ペイン(その1)
- 公開日: