太田述正コラム#3573(2009.10.9)
<人間主義の起源(続)(その2)>(2009.11.9公開)
 いささか場違いな感想ですが、デワールに指摘されるまでもなく、偶然とはいえ、オバマの大統領当選と金融危機がほぼ同じ時期に起こるとは、米国が、普通のまともな国になる大転換期を迎えていることは確かだ、とつくづく思いますね。
 (3)理論的解明
 「・・・もしあなたが霊長目の動物であれば、所有権は恐ろしく昔から<確立している>権利のように見える。
 ・・・何十年にも及ぶ観察により、デワールは、分かち合うことができる食物、例えばスイカを与えられると、<チンパンジー達は>先にさわろうと競争することに気づいた。
 これは、どのチンパンジーが最初にスイカにありついたとしても、それがどんなに序列が低い者であっても、最も支配的なチンパンジーによって、その一片<の食い物>の所有者として尊重されるからだ。
 連れ合い達は、少し分けてくれるように懇願したり鼻を鳴らしたりするかもしれないが、誰もその食物を取り上げようとはしない。・・・
 <ただし、>所有権というものは、生来的に分かち合うことと手を携えている、とデワールは言う。
 食物が場に出されてから20分もすれば、そのコロニー中のすべてのチンパンジーが幾ばくかはその分け前にありつく。
 「所有者は、彼の一番いい仲間、及び家族と分かち合い、今度はその連中が彼等の一番いい仲間、及び家族と分かち合う」と彼は記す。
 若干の取っ組み合いが起きることもあるが、平和裏にことが運ぶことの方が多い。・・・
 ・・・所有権が分かち合うことと手を携えているのと同様、妥協と正義、そしてまた、口論と平和維持も手を携えている。
 公正であるかどうかは<いかなる>社会的動物にとって<も>重要なのだ。・・・
 もし2匹の猿が同じことをやらされて違った大きさのご褒美が与えられたら、インチキされた猿はインチキされたものとして行動する。
 そいつは、こんな不平等の下で仕事をやることを拒否するだろう。・・・
 さて、共感についてだ。
 人間にとっては、動物達との比較研究がこのことをはっきりさせるのに与っているのだが、共感は少なくとも三層構造をなしている。
 第一層は、感情的感染であり、鷲が猿の集団の頭上に現れるとか混雑した通りで人間の男が殴られるといったような何か劇的なことが起こった場合、動物の集団の中を不随意的に感情のほとばしりが走り抜けることだ。
 第二層は、他者に対する感情であり、他者が困っていることを見て取った場合の同情的反応だ。
 これは体を通じて起きる、とデワールは言う。
 そして、このような「体でのマネ(body-mapping)」は動物でも人間でも幾度となく見出されている。
 古い記録映画を見ると、積み重なった箱の上に乗って高いところにあるバナナをとろうとしているチンパンジーをもう一匹のチンパンジーが見ていて、同情して背伸びして自分の両手を伸ばしている<、という光景が出てくる>。
 デワールは、ある時、チンパンジーの出産を見たことがある。
 彼女は、両足で立っていて、赤ん坊を受け止めるために自分の両手を合わせて下に持って行っていた。
 これを見ていたもう一匹の雌も両手を合わせて彼女の下に持って行った。
 余り助けにはならないけれど感情を込めて・・。
 人間においても、このようなとっさの感情が生ずることをスウェーデンの心理学者が明らかにした。
 彼が、電極群を人々の顔にとりつけたところ、怒った顔の写真を見せると人間は顔を顰め、幸せな顔を見せると人間の唇は上向きになっ<て微笑し>たのだ。
 共感の第三層は、デワールが言うところの、「照準助力(targeted helping)」だ。
 それは、見物人が、誰かの助けを必要としている人の頭の中がどうなっているのかを考える能力であり、とりわけ、必要とされる種類の助力を与える能力だ。
 人間はこういったことを始終やっているのだ。・・・
 ・・・母親と子供との間の絆は、男女間の愛情関係を含む、我々のあらゆる関係の原型(template)だ。・・・
 チンパンジーと人間は、どちらも類人猿であるところ、同じタイプの共感を持っているように見えるが、これは、我々が非常に密接な親戚関係にあるからだ。
 しかし、我々(及びこのことに関してはチンパンジー)とより遠い親戚関係にある猿の場合は話が異なる。
 デワールは、この人間に見られる第三層の共感慰問(empathy?consolation)を猿において何年も探し続けたのだが、ついに連中はそれを持っていないという結論に達さざるをえなかった。・・・」(A)
 人間主義は、より正しくは「人間・チンパンジー間主義」と呼ぶべきだ、ということになりそうです。
(続く)